ようこそおまけの時間に

(岡田 淳・作/絵
偕成社 1981 偕成社文庫1989

           
         
         
         
         
         
         
         
    
凝縮された経験
 夢も経験の一つであるから、邯鄲の夢の主人公は一睡の夢の中で一生を経験している。人間の営みの結果は、質と量によるのであって、それに要した時間とはかならずしも正比例しない。だから、フィクションでも、短時間に密度の高い経験をするアイディアを通じてテーマを効果的に語る作品が生まれる。そして、その経験はリアリスティックなものとファンタサイズされたものに分けられる。この作品は、ファンタサイズされた経験を語る。
 テーマを伝達する時間は、小学校の昼休み前、近くの工場の十二時のサイレンが鳴りはじめて終わるまでのほんのわずかな時間である、そのわずかな時間、ヒーローの松本賢は、教室が茨にとじこめられ、自分以外、級友たち全部が眠っているのを見る。その情景はたちまち消えて、教室はもとどおり。不思議な情景は現実の時間帯には何の影響もおよぼしていない。松本賢は、その不思議な世界で茨を切り払うことで、級友たちを目覚めさせ、やがて実際の教室にいる級友たちと、不思議な茨が閉じ込めている教室の級友たちが同一人物であることを発見、それが現実の級友たちの関係を変えていく。

今を語る昔話
 作品を分類することは、しばしば無意味だが、この作品の場合「今を語る昔話」を分類することは、はっきりと意味があると思う。
 よく、ファンタジー作品を論じる場合に、現実と空想の境をいかに越えるかに納得の行く方法が示されなくてはならないという意見が示される。そのような条件を溝たしている作品に比べると、この作品は比較的無造作に幻想の世界に入り込み、またその境界を簡単に出入りしている。そして、なぜヒーローの松本賢だけが不思議な世界でいわば目覚めたのかも、説明されていない、「魔法」がはじめから起こるものと認められていて、なにが起こっても説明など拒否して話が進むのは、昔話に特有な性質である。
 これが本質的に昔話であるとすれば、無用な批評を避けることができる。つまり、ファンタジーなら当然あるべき緻密な別世界の構築がないと言う批評を受けずにすむ。事実、緻密という点から見れば、人物はあまり立体的につくられていないし、たいした抵抗もなく物事をすいすいとやってのけていく。
 それが欠点だと見なす人たちには、この種の作品の面白さはわからないだろう。この物語はわかりやすい文体で、早すぎも遅すぎもせずに語り進められている。読む者は、次々に気持よいテンポでくりひろげられていく話を楽しみながら頁をくっていく。話の展開が面白いのである。だから、この茨は何の象徴だろうとか、作者のモチーフはなんだろうとか考えなくてもいいと思う。
 ふつうに本を読む人なら、茨の意味は何で、作者は何をメッセージとしているかはわかる。それは、きわめて現代的な問題だと思う。昔話は、今の、そして個人が考えた問題を直接的にテーマにすることはないと言ってよいだろう、それは本質にそぐわないからだ。そこのところをたくみにまたぎ越して現代的な昔話をつくるところに、この作者の力量を見ることができる。

子どもの文学としての特徴
 現代的テーマと昔話という表面的には調和的でないものを攪拌混和した作品ではないとの見方も可能だろう。
 子どもの文学の魅力はさまざまあるだろうが、もっとも特徴的な性質は「境目の文学」であることだ。現実と空想の境目はファンタジー文学を生む。そして年齢的な境目は、ジャンルを多様化すると同時に、成長と変化の節目を語る作品を生み出す。子どもの文学の活力はこの年齢的節目の多さと子どもの成長変化のめざましさから生まれる。
 ヒーローの松本賢は、日常では「いつもぼんやりとしている」ように見えるが、夢の世界では「かっこいいことをいう」感じのよい少年であり、そそっかしくておてんばな田中明子は、夢の世界ではやさしい口のききかたをする。この二人は、日常と違う印象の相手を、はじめのうち別な存在と考えていて、ある瞬間に二つの世界の自分たちが同一人であることに気づく、そうした箇所が話を面白いものにしている。そして、日常と別時間に別れた自己は、一人の人間の建前と本音とみなすこともできるし、意識された自分と無意識下の自分と解釈してもよいだろう。二つの自己が融合していく過程に、登場人物たちが新しい自分を発見し、新しい環境を創造していく興奮がある。
 子どもの文学としての特徴はまだある。登場人物たちである。この物語に登場する人物たちは、様々な点から見て、なかなかに特徴的である。まず、大人がほとんど現れず、登場する場面でもなんの役割も果たさない。だから、物語の中の人間の行動はすべて子どもによって判断され、実行されている。子どもたちは、大人という強大な力を持つ存在から自立した人間として生きている。
 子どもたちだけで、コミュニティを動かすという発想はヘンリー・ウィンターフェルトの『子どもだけの町』(一九三七)に見られるし、ケストナーやランサムの作品にも部分的に発見できるから、子どもの文学のアイディアとしては、一九三〇年代あたりからはじまっていることがわかるが、その時期の作品の大人は、物語のへりにいながら、子どもたちを保護していたし、子どもたちも、彼らの姿を見て安心していた。
 岡田淳の子どもたちには、大人の影をさがそうとする目はない。彼らは、人間として自立している。こうした子ども像は、もっとも子どもに近づいた現在のリアリスティックな作品に見られる。それを、昔話スタイルでとらえるところに、この作者の力をみるのだが、同時に、それは子どもの文学の可能性の大きさを知らせてくれる。(神宮輝夫
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化岩本みづ穂