おとぎ話的、少女読み物解釈
『若草物語』の場合

横川寿美子
日本児童文学1999/03-04

           
         
         
         
         
         
         
         
     


  1 お父様のかわいい娘
 日本ではあまり知られていないことだが、アメリカではここ二〇年ほどの間、『若草物語』(一八六八−六九年)に関する研究がたいそうさかんである。一九七五年に、作者ルイザ・メイ・オルコットが若いころに匿名で書いた十数作におよぶスリラー小説の存在が明らかとなり、以来それらを踏まえた上での作品の読み直しがさまざまに展開されているのである。残念ながら、それらのスリラー小説のうち現在邦訳は『愛の果ての物語』(徳間書店)しかないようだが、これ一つ読むだけでもオルコットのイメージが大きく変わることは間違いない。かたや心温まる家庭小説、かたやあくまで煽情的なクライム・ノヴェルという、この二面性・・・。
 だが、その二面性は『若草物語』の中にもすでにほの見えている。一方で主人公ジョー・マーチの因習にとらわれない生き方で読者の目を引きながら、もう一方でこの作品は実に古典的な女性観で彩られてもいるからだ。
 まず、ほかならぬタイトルからしてそうである。これも日本ではあまり知られていないことだが、『若草物語』は原題を『リトル・ウィメン』という。物語が始まって間なしに、マーチ家の娘たちが戦場の父から送られた手紙を読む有名なシーンがあるが、この原題はその手紙の中で父マーチ氏が娘たちをさして言う言葉−−マイ・リトル・ウィメン−−に由来している。ちなみに「マイ・リトル・ウーマン」は、前世紀には必ずしも父娘間のみならず、夫が妻に、兄が妹に、青年が恋人に、呼びかける際にもよく用いられた言葉だが、その後に起こった女性の意識変革のせいか、今や死語となって久しい。この古めかしさが『若草物語』というあまりにもさわやかな訳題のおかげで日本の読者にほとんど認識されないのは、幸とすべきか不幸とすべきか。
 そしてさらに日本ではたいてい『続若草物語』と訳される続編になると、なんと『グッド・ワイヴズ』すなわち『良き妻たち』という題なのだから、古めかしいどころの騒ぎではない。正続つなげると、「お父様のかわいい娘」から「だんな様の良き妻」に至る「正しい女の道」。実際正続つづけて読むと、そう解釈できなくもないストーリー展開でもあり、英語圏の人々はとにかくその「道」を最後まで見届けないと話が終わった気がしないらしい。よってこの正続はあわせて一作とみなされることが多く、研究・評論もたいていセットで扱っているし、何度かリメイクされているハリウッド映画もことごとく、紆余曲折をへてようやく婚約あい成ったジョーと彼との抱擁シーンで幕となる。そう、あのお転婆ジョーもついには「良き妻」となるのだ。
 さて、本稿は『若草物語』のこの古めかしさをおとぎ話との関連の中で考えてみようという試みである。『若草物語』といえば少女小説の元祖的存在。ということは、今もポピュラーな女の子の話でそれ以上古いものはおとぎ話しかないわけだから、この両方に橋をかけておけば、いずれ少女読み物の原形へと迫っていけるのではないか、などという欲深い考えも実はもっているのだが、とりあえず今回は『若草物語』にしぼって検討してみようと思う。この作品の古めかしさはおとぎ話の古めかしさをどう引き継いでいるのだろうか。

  2 おとぎ話から『若草物語』へ
 そのおとぎ話の古めかしさついては、ここ十数年来さまざまに話題となっているから、恐らく日本でもよく知られているだろう。たとえば、シンデレラ(灰かぶり)、白雪姫、いばら姫(眠り姫)、赤頭巾、ラプンツェルなど、有名なヒロインのありようを思い浮かべてみればいい。いくら純真なよい子とはいえ、何もせずにただ待って(眠って)いるだけで、いつの間にか救いの手が延べられて、年頃の娘の場合だと、最後はあっと言う間に王子の花嫁である。これをそのまま今の子どもにすすめるのはいかがなものかというのは、ごく普通の感覚だろう。
 もちろん、これらの元となった口承の昔話にはそれなりの奥深い意味があるのだろうし、これらとは違う有能なヒロインの話もいくらも存在するのだろうが、たいていの人はペローの「シンデレラ」とグリムの「赤頭巾」とディズニーの「白雪姫」しか知らなかったりするのだから、古いものは古いとはっきり言っておいた方がよい。いずれも無批判な幼児の頭脳に、語り聞かせによって、絵本によって、アニメによって、くりかえし刷り込まれる話であれば、その影響力ははかりしれないのだから。
 それは逆に言えば、これらの話のパターンにのっとった物語は、そうでない物語より読者に受け入れられやすい、ということでもなる。「パターン」とは、すなわち、右のようなヒロインのありようと、妖精のつえの一振りが、あるいは王子のたった一度のキスが、不遇のヒロインを幸福な花嫁に変える至福のクライマックスのことだが、この一瞬のうちにヒロインの身に起こる劇的な変化のことを、ここでは∧大変身∨と呼ぶことにしよう。『若草物語』はこのパターンをどのように引き継いでいるだろうか。
 というわけでいよいよ具体的な検討に入るが、ここでは『若草物語』を読み解く枠組みとして、おなじみの「シンデレラ」(ペロー版およびグリム版)と、ディズニー・アニメのおかげで最近知名度が急上昇した「美女と野獣」(ボーモン夫人版)を用いる。理由は簡単、この三者は互いによく似ているからである。
 まず同じおとぎ話同士ということで、ヒロインであるシンデレラとビューティの共通点をざっとさらっておくと、まずどちらの母親もすでに死亡しており、残る父親は頼りにならない、ということがある。シンデレラの父親が継娘たちによる実娘への虐待を黙認しているのは周知のとおり。ビューティの父親も、悪い人ではないのだが、旅に出ては道に迷い、商売をしては財産を失うなど、一家の大黒柱としては明らかに失格である。これら無能の父親のおかげで、シンデレラもビューティも何不自由ない良家の子女の立場から実質的に女中の地位にまで転落してしまうのだ。
 だが、彼女たちはどちらもその逆境を素直に受け入れ、(継)姉たちの無理な要求にも逆らわず、家事一切をひとりで引き受け、しかも人前では愚痴ひとつこぼさない。つまり無私無欲で従順、かつ、勤勉で忍耐づよいという、実にけなげなキャラクターなのだ。しかし考えてみれば、これらはなにも彼女ら二人に限ったことでなく、白雪姫、いばら姫、ラプンツェルなど、おなじみのヒロインのほとんどに共通する資質でもある。逆に言えば、そういう美徳をそなえていればこそ、その褒美として、彼女たちの行く末には王子との結婚が待っているのである。
 けれども、シンデレラとビューティの場合はただ従順で忍耐強いというだけではない。この二人にはほかのヒロインには見られないある種の積極性が感じられるのではないか。
 たとえばシンデレラ。確かに、彼女もまた自力で逆境から抜け出す知恵や力はなく、ただ耐えるているだけには違いないが、それでも白雪姫やいばら姫のように眠りに逃避することなく、つらい現実の中に踏みとどまっている。また、生母の教えを忠実に守り続けるところや、何があってもとにかく家に帰ろうとするところからは、彼女がその家の正当な娘としてのアイデンティティを未だ失っていないことがわかる。彼女は父の再婚によって奪われた自身の権利の回復をあきらめてはいないのだ。たとえ、自力での回復は無理だとわかっていても・・・。
 そしてビューティになると、その積極性はシンデレラよりもさらに大きくなる。シンデレラは逆境をただ受け入れるだけだが、ビューティは自ら野獣の人質になる決心をすることで、すすんで逆境に身を投じる。これは彼女の自己犠牲の精神を強調するものであると同時に、彼女に与えられた自由度の高さを示すものでもあろう。シンデレラの結婚は王子の気持ちひとつで決まり、彼女はそれに従うだけだが、ビューティの場合は彼女の方に選択権がある。ほかの点では無私無欲の権化のような彼女だが、野獣の求婚に対する返答だけは、だれのためを思ってのことでもない、彼女自身の心からの選択なのであり、野獣の運命は百パーセントその選択にかかっている。だからこそ、この話では妖精のつえではなく彼女自身の心の変化が∧大変身∨を引き起こすことになるのだ。
 このように、この二つのおとぎ話はもともと少女の内面を描いた物語としても読めるものであり、その意味で後の時代の小説が取り込みやすい要素を多く含んでいると言える。実際、ジェーン・オースティンやブロンテ姉妹らの作品には随所にそれらの要素が見られるとの指摘もある。おとぎ話では身なりと境遇が変わるだけのシンデレラが、そこでは精神的にも∧大変身∨を見せ、野獣も単に毛皮を脱ぐだけでなくその心根まですっかり入れ替えるのである。また児童文学の範囲内では、バーネットの『小公女』に「シンデレラ」の影響が大きい。金持ちの娘↓女中↓大金持ちの遺産相続人という、主人公セーラの境遇の移り変わりを思い浮かべられたい。
 さて、いよいよ『若草物語』だが、『若草物語』と「シンデレラ」「美女と野獣」の共通点としては、主人公に(継)姉妹がいること、昔は裕福に暮らしていたが今は貧乏であること、無能な父親がいること、および、母親の教えを守り続けていることなどがあげられる。
 父親については「美女と野獣」の設定に近い。姉妹の父マーチ氏は確かに愛情深い父親であり、娘たちの大きな精神的支柱ではあるのだが、一家の大黒柱としてはまことに頼りない。人のよさから財産をなくしてしまった上に、それを補う新たな収入の道を探ろうともせず、自身の理想のためにその日暮らしの妻子を残して戦場に赴き、あまつさえ、そこで病気になって家族にさらなる物心両面の負担をかけるなど、その無能さの度合いはひょっとしたらビューティの父親よりもひどいかもしれない。
 一方、母親についてはどちらかといえば「シンデレラ」の設定に近いといえるだろう。シンデレラの母親はすでに他界、マーチ夫人は存命という大きな違いはあるが、いずれも信仰心のあつい立派な女性で、娘に常に適切な助言を与える点ではよく似ている。また、マーチ夫人はまさに良妻賢母の鑑、決して人と争わず、何があってもうろたえないのみならず、物語が進行する十年ほどの間に小さなミスひとつ犯したことがないという完璧さは、とても生身の人間とは思えないという点でも、やはりシンデレラの母親とよく似ているのである。
 マーチ家の四人の姉妹はいずれもこの父と母の娘である。小説『若草物語』の主人公はもちろんジョーだが、話の中のおとぎ話のヒロインとしてなら、四人のうちのだれがシンデレラとなりビューティとなってもおかしくはない。まずはシンデレラから検討してみよう。
next