2.休暇

 『わたしたちの島で』の物語の場は、ストックホルムに住むメルケルソン一家がウミガラス島で過ごす休暇である。そこにおける休暇について述べる前に、児童文学、とくに少年文学のなかで休暇がどのような意味をもってきたかを見ることにする。はじめに取り上げるのは、ジュール・ベルヌの『二年間の休暇』である。
 『二年間の休暇』は、ベルヌが60歳の時書いた小説であり、本来おとなの読者を対象にしてきた彼が、少年を読者対象として書いた唯一の小説である。とはいえ彼がおとなのために書いた『海底二万里』なども子どもに歓迎され愛読されてきたことに変わりはない。
 15人の少年たちはともづなの事故によりスクーナーに乗って漂流し、無人島にたどりつき、そこでいくつもの困難を乗り越えて二年間を過ごし、本国に生還する。日本ではこの物語は1896年に森田思軒によってつけられた『十五少年』や、その後の『十五少年漂流記』という題名でよく知られている。それらの翻案の題名には、少年たちの団結、漂流という面が強調されており、確かにそれはこの物語のエッセンスを伝えている。漂流について言えば、おそらくその言葉は芭蕉、西行、鴨長明にさかのぼる日本人の伝統的な人生観を思い起こさせ、情緒に訴えるので、現在に至るまで流布してきたのだと思われる。また原題を直訳した『二年間の休暇』の<休暇>という言葉は明治時代の日本人にはまだなじみの薄い言葉であったのだろう。
 しかしベルヌが<休暇>という言葉を題名に用いたことには重要な意味があると思われる。一般的な意味での<休暇>は、学校生活では制度的なもの、あるいはおとななら制度の範囲内で自分の意思でとることのできるものである。それに対して『二年間の休暇』における<休暇>はともづなの事故により偶発的に生じたものであり、決して少年たちが好んで選択したものではない。それに<休暇>と名付けることは挑戦的なことに感じられるが、ベルヌが次のように物語を締めくくっていることで、<休暇>を重要な成長の機会と見ていることがわかる。

  学校の生徒たちが、今後、こんな休暇を過ごすことは、二度とない だろう。しかし、少年諸君に知ってほしい教訓は、どんな危険におち いっても、秩序と熱意と勇気をもってこれにあたれば、かならず乗り きることができるということである。スラウギ号の少年たちは、生き ぬくために、いろいろの試練できたえあげられ、帰国後、下級生はほ とんど上級生のように、上級生はほとんどおとなのように、りっぱに 成長していたということを、とりわけ忘れないでいただきたい。

 つまり困難に対し団結することでそれを乗り越える。そのことが少年たちの成長を促したということである。そして、「上級生はほとんどおとなのように」と描かれているように、その成長はいずれ少年たちがおとなの世界に参入していくためのひとつのステップとしてみなされている。
 休暇の出来事を書き続けた作家に、アーサー・ランサムがいる。『ツバメ号とアマゾン号』をはじめとする全12巻のシリーズは、つねに休暇を舞台とする。ただしここでの休暇は『二年間の休暇』の休暇とは違って子どもたちによって待ち望まれる休暇である。『二年間の休暇』のブリアンたちのように、事故によって漂流・無人島生活を余儀なくされるのではなく、あくまで学校の休暇の間だけ島の生活を送り、空想と冒険の世界の地図を構成していく。
 神宮輝夫(1974)は、ランサムのこの作品における休暇の世界が「大人になるための努力や大人の社会が侵入してこない」ものであると指摘する。この指摘によればランサムにおける休暇は、ベルヌが休暇をおとなに成長するための機会ととらえている点と異なるように見える。だが休暇のあいだに起こる困難と、子どもたちが協力してそれに対処することはベルヌ作品と共通しており、成長と呼ぶにふさわしい成果が見いだせる。
 神宮の言う努力は、学校・日常・現実における目的志向的な努力と解することができる。休暇という非日常世界においては、そこで行われる遊び、行動そのものに意味があるのであって、日常世界における努力のように、その行動以外の目的を持たず、行動の過程そのものに意味があるのである。ただしそれが実は、おとなになるということにつながっている。おとなになるということは、努力してなるものではない。日常生活における努力が無意味なわけではなく、そうした努力で身につけられるものも多いが、それだけではおとなになることはできない。どこかで非日常世界をくぐりぬけてこそ、つまり通過儀礼を経験することでおとなになることができる。休暇は一種の通過儀礼であると考えてよいだろう。
 その意味では、『二年間の休暇』における休暇も同じく通過儀礼としての意味を持つと言えるだろう。ただ、ランサムがベルヌと異なるのは、ベルヌにおいては休暇は一度きりで幾多の危険が経験されたが、ランサムにおいては休暇が繰り返し経験される点である。ベルヌにおいては、休暇は一回きりの儀礼の意味を持っていた。ランサムの場合は一回の休暇が決定的な儀礼の意味を持たない。河合隼雄(1983)はイニシエーション(通過儀礼)について、制度としてのイニシエーションが失われた現代において個人的なイニシエーションが必要であると説き、「現代のイニシエーションの特徴のひとつとして、それは一回で終わらないことが多いことを知っていなくてはならない」と述べている。現代では、おとなと子どもの境が曖昧で、おとなになることも一回の儀礼の中ではなく長い過程の中でなしとげられる。ベルヌの時代にはおとなであることの意味が今日のような多義性をもたず、一度きりの通過儀礼がもたらしうるものが大きかったであろう。それに対しランサムは現代に属し、一回きりの儀礼ではなく長いレンジの中での繰り返される儀礼にこそ意味を見いだしたと言えるだろう。
 ベルヌにおいてもランサムにおいてもそれが無人島での暮らしが描かれていることにも注目したい。無人島での暮しを思い描く子どもは多い。子どもたちはある程度の年齢になってくると、おとなに依存しつつもおとなからの独立を夢みるようになる。小倉清(1984)は精神科医としての臨床経験から、小学校3、4年生ごろ、家出幻想、もらい子幻想などを持つ子どもが多いと述べている。親の家を出てひとりで暮らしてみたいという幻想、あるいは自分の親は<にせ>の親であって<本当の>親を探しにいきたいといった幻想である。小倉によれば、家出幻想・もらい子幻想は、その年齢なりの、自分は何者なのかという問いであり、その子なりに親との関係を見つめ直すという意味を持つという。現在までの親との関係を<にせ>と仮定するファンタジーや親の家を出て生活するファンタジーの中で子どもは自分の足で立ち、おとなのように振る舞う。無人島ファンタジーもこのような家出幻想のひとつといえ、子どものアイデンティティー探しのテーマを本質とすると考えてよいだろう。子どもなりのアイデンティティーはやがておとなとしてのアイデンティティーを確立するときの材料のひとつ となる。無人島における休暇は、とりもなおさず子どもがおとなになるための機会なのである。
 ベルヌとランサムという時代の異なる作家の作品における<休暇>を論じたが、共通していえるのは、<休暇>は現実の対極にあり、冒険を含み、成長を促す装置であるということである。そのように規定したところで『わたしたちの島』における休暇を見てみることにしたい。
 主人公であるメルケルソン一家は、都会の住人で、休暇を過ごしにウミガラス島にやってきてスニッケル荘という家を借り、休暇中そこに住む。家族の構成員は父親のメルケル、長女のマーリン、そしてユーハン、ニクラス、ペッレの3人の男の子たちである。よそ者である一家が島での暮らしになじみ、島の住人と親しくなり、ふだんの生活では経験できないことを経験する過程が、家族メンバーそれぞれについて描かれる。ここでも描かれるのは休暇中の出来事のみであり、休暇を過ごす場所は無人島ではないが一家にとって未知の島であり、上述した2作品と道具立ては類似する。異なる点は休暇に子どもだけでなく父親も参加していることだが、そのことについては後ほどふれるとして、まずは家族のメンバーひとりひとりの<休暇>経験を個別に見ていくことにする。

ユーハンとニクラス
 まず、ユーハンとニクラスという二人の男の子からとりあげよう。彼らは隣家のテディとフレディという男の子のような愛称を持つ女の子たちと共に、秘密の隠れ家をつくったり探検したりの毎日を送る。彼らの世界は『やかまし村』の子ども世界に類似しており、秘密を共有するギャングエイジの終盤の段階にいる。都会の生活でも彼らは仲間と秘密めいた遊びをしているのだろうが、休暇中の島での生活は、そうした秘密の魅力をさらに拡大させうる。彼らの遊びの中でわれわれは、『やかまし村』や『カッレくん』での子どもの姿と再会する。ことに『カッレくん』の3部作はいずれも休み中の出来事を描いており、<休暇>がここでも重要な意味を帯びている。『やかまし村』はその点、休暇も学校生活も等分に描いているのは、『やかまし村』は『カッレくん』よりも低年齢の子どもの物語であり、その段階の子どもにおいては空想生活を現実生活が過度に抑圧することがないせいであろうか。
 『カッレくん』の<休暇>について少し述べておきたい。このシリーズは探偵小説の形をとりながら、思春期の入口に立った子どもたちを描いた作品である。『やかまし村』に描かれた、子どもとしてふるまいが最大限に保証されるはずの黄金期は、『カッレくん』においても依然続いている。が、その内部においてはひそかに変化が起きつつあり、思春期の異性愛の萌芽が見られる。しかし作者は恋愛の進展よりも、バラ戦争と並行しての探偵劇の展開に力を注ぐ。3作のいずれでも、子どものいずれかが生命の危険を脅かされる。この点はこの作品の<お話>性であるが、そこには子ども時代という黄金期の終わりと子どもとしての自己の死が、象徴的に表されている。たとえば、第2作で少女エーヴァ・ロッタが殺人事件を目撃し、ショックで寝込む。持ち前の健康さでしばらくして元気を取り戻すが、殺された老人の口癖を習慣でついまねしたとき、死を目撃したショックがよみがえり、表情が暗くなり、その日はもう遊ばず帰ってしまう。エーヴァ・ロッタの屈託ない子ども世界に陰りがさすようになったのである。そしてそれは本当にはもう取り除かれることはない。言ってみれば彼女は内的な死 を体験したのである。子どもとしての自己の一部が死に、新しい女性としての自己が目覚める。同時にそれは黄金の時代の陰りでもある。カッレは、殺人事件を目撃したのがなぜエーヴァ・ロッタであって、名探偵である自分ではなかったのかと悔しがるが、思春期の訪れは少年より少女に先にくるということであろう。このような自己の死というテーマが象徴的にであれ生じてくる年齢の物語であれば、それがファンタジーで守られている必要があるのではないだろうか。だからこそ『カッレくん』シリーズはつねに<休暇>が舞台となるのである。
 『わたしたちの島で』ではユーハン・ニクラスの兄弟の活動には、作者は余り強調点をおいていない。それは作者がこの年齢の子どもの世界はすでに十分描いてきたからであろうし、また、彼らは個人であるというより秘密同盟の集団である。彼らは『カッレくん』に描かれた子どもとしての自己の死にはまだ少し遠く、個人性が全面にでないのだと思われるう。

ペッレ
 作者が力を注ぐのはむしろ末の息子ペッレである。秘密集団にはまだ入れてもらえない7歳のペッレは、感受性が鋭く傷つき易い子どもである。彼のアンテナは、おとなになれば無感覚になっていく部分、生きるためには捨ておいた方が好都合な部分をもらさずとらえる。だから父メルケルの心配は尽きない。

  ペッレはいったいどうなるのだろう?電車のなかで人が悲しそうな 顔をしていたからといって、または、住みかがなさそうなネコを見か けたからといって、泣き出すような子にとって、一生はどうなること だろうか。

  そのうえまだ、ペッレはいろいろな風変りなことを考えて、頭を悩 ませている!電話線が、きいていると泣きたくなるような声でうたう のは、なぜ?木が、だれかのことを悲しんでいるように、ざわざわな るのは、なぜ?(中略)そんなことを、ペッレは目に涙を浮かべて、 たずねるのだった。

  メルケルは、このいちばん下のむすこを見ていると、ときにはふと、 うらやましい気もちになることがあった。土や草、雨の音や星空を、 神聖なものととる、あの力を、なぜ人間は一生涯もちつづけることが できないのだろう。

 これらのペッレについての記述は幼児期のアニミスティックな世界観を表している。7歳にしてその世界観から脱していないとなればやや標準からはそれているということになるかもしれない。メルケルが羨みかつ心配するように、そのような世界観は魅力のあるものだが、それだけでは現実世界を生きていくことは難しい。彼はつねに現実生活よりは幻想生活に属している。古く日本で「七歳までは神の子」と言ったが、それは乳幼児の死亡率が高いため生き続ける可能性がある程度確定するまでは7年程度はかかるということの表現でもあり、また、幼児期の子どもが無意識的世界になじみが強いということの表現でもある。ペッレもまたそのような「神の子」の部分を持っている。ペッレにとっては、ウミガラス島の生活を知った以降はストックホルムでの生活は意味を失ってしまった。そのような子どもにとってウミガラス島は現実との対比を前提とする休暇を過ごす場所ではなく、内的現実のほぼ全体を占めることになる。しかしウミガラス島は彼に幻想ばかりでなく過酷な現実をも提供する。だからペッレにおいては逆説的であるが、ウミガラス島での経験は内的現実を休暇と現実に分化させるこ とへと導いくことになる。
 その最も象徴的な出来事は、代理母マーリンの喪失(または喪失の予測)である。誕生と同時に母をなくしたペッレには、当時十二歳だった姉、マーリンが母代わりとなり、以来その母が母であり続けることに揺るぎない自信をもってきた。というよりそうでなくなるかもしれないという考えはほんの少しも入り込む隙間はなかった。しかしマーリン自身が何気なく口ずさんだ鼻歌の文句が、ペッレの絶対に安全であったはずの世界観にひびをいらせる。

  高卒試験に合格し、お嫁にいってベビーちゃん・・

 絶対にそばにいるはずのマーリンがいつかはいなくなる、という新しくて恐ろしい思想が、ペッレの頭に侵入した。これはペッレの旧い世界の崩壊の始まりであった。
 その崩壊の恐怖を耐えるためにはペッレには共にいてくれるパートナーが必要であるが、人間の友だちを受け入れる余地のないペッレには動物の友だちがふさわしい。最初にペッレが見いだしたのはスズメバチであったが当のスズメバチの方ではペッレを友だちとみなさない。だからウサギが与えられたことはペッレにとって非常に大きな喜びであった。
 ペッレが動物について思うことは、すべての動物の生命が守られ維持されなければならないという、現実にそぐわない強迫的な観念である。悪賢いキツネが辺りの家畜を荒して回ったとき、ペッレはウサギが心配でたまらない。マーリンに好意を持っている青年教師がそのキツネを鉄砲で撃ち殺すことを決定し、ペッレは一安心する。が、キツネが撃たれようとする夜、ペッレがどうしても考えずにおれなかったのはキツネ自身の生命のことであった。彼は青年の前に飛び出して、キツネの命請いをする。ここには巧妙な二重の意味の仕掛がある。青年がキツネをとらえないということは同時に、彼がマーリンをとらえることができないということであり、ペッレは<母>マーリンを失わずにすむのである。青年はマリーンに接近しつつも結局ほんとうには心をとらえることができず去った。
 ところが皮肉なこと、ペッレが命請いしたその当のキツネによってウサギが殺されてしまう。ペッレはキツネに裏切られたわけだし、また同時に自分自身の世界観に裏切られたわけである。この絶望的な状況を救ったのが子犬であった。子犬はウサギよりもアクティヴな動物である。それをペッレにくれた人物が、どうやらマーリンを奪っていきそうな男性であるということから、ペッレは代理母の喪失を子犬というパートナーと共に耐え、かつ代理母を奪う男性をも受け入れるであろうことが暗示される。また子犬は、ウサギとは違って都会へも連れて帰ることができる動物である。このことは象徴的には現実の世界へも持ち込めるということであり、子犬は現実の中に持ち込まれた新しい意味である。ここにおいてペッレの現実に意味がつき、ペッレの世界は現実と休暇に分化することになった。

マーリン
 マーリンの休暇における経験の中心は、異性との出会いである。19歳の彼女は、島の美しさやスニッケル荘の愛らしさへの感動を心に満たす素直な感受性の持ち主であり、同時に若い女性としての欲望にも正直である。つまり夏至の夜ドレスを着た自分が美しいことを知っており、自分はダンスをしたいのだということも知っている。最初の青年はダンスは上手だったが、ペッレがスズメバチを大事にする価値観とは正反対の世界に住む存在であったため、はじき出された。二番目の青年教師は、かなりマーリンに接近するけれども、いま一歩のところで届かない。ちょうど、霧の中動けなくなった子どもたちのボートのすぐ側を通りながら気づかなかったのと同じように。三番目の、そして最後の青年は、チョルベンとスチーナという二人の島の女の子によればカエルの王子様であった。カエルは魔法のかかった王子だからキスをして魔法を解いてやらねばならないというモテイーフは、『やかまし村』ですでにお馴染みのものであるが、二人が意を決してキスをしたカエルが飛び込んだヨットから、いま魔法が解けたかのように現れたのが青年ペッテルだった。このカエルの王子様こそがマーリンにとっ て本当の魔法の王子であり、母親代わりを務めてきたマーリンを連れだしてくれるはずの青年である。
 若くして母親代わりを務めさせられてきたにしては、マーリンは抑圧的でなく、過度に支配的でもなく、きわめて健康的である。死者はしばしば生者に強い影響力をもち、生者が死者の亡霊に<とりつかれる>ということがあるが、マーリンにはそれはないようだ。
 マーリンという人物を考えるうえで、『わたしたちの島で』と物語の構造が似ている作品として対比できるのは、少女マンガ家大島弓子の『雨の音が聞こえる』である。主人公秋子は4人姉妹の三女であり、「ガリガリナイン、やせっぽち、ポヤポヤの髪、動作かんまん、成績悪し、そのほかもろもろすべて姉妹におとる」という、劣等感に悩む少女である。そのうえ同姓同名の美しくて優秀な少女が身近に現れ、秋子はさらに傷つき打ちのめされる。姉妹間の葛藤、シャドウ的存在の登場は、大島作品の中で繰り返されるモティーフのひとつである。秋子の父は売れない作家であり、家計を支える母は始終がみがみどなり、秋子に向かって母は「父さんの悪いとこばかり受けついで生まれて来て お人よしで妥協的でそのくせいつもまよっている・・・」「母さんのきらいな面ばかり持ってるよ」と言う。しかしこの言葉は乱暴ながら愛情がこもっている。やがて秋子は、両親の実の子ではないという出生の秘密を知り、いったんは家を出るが、家に戻り、母親の深い愛情を再確認する。これが物語の前段である。
 実の子でなく劣等生という状況は以前と変わらないが、それでも自分なりに生きていけばよいという確かさを掴みかけた矢先、母親が交通事故で亡くなる。再びよるべのない空間に放り出された秋子がすがったのは、母親のイメージであった。彼女は亡き母に同一化し、しかもかつて自分がきらいだった面に同一化して、ガミガミ叱る母のミニチュアになる。これは母親の中の男性性・アニムスに同一化しているといえるだろう。それがかえって、家族を悲しくさせ、秋子をひたすら空回りさせ自分自身の若い人生を見失わせてしまう。その結果、皆に認められていないと思い、自己評価を著しく下げる。家族の危機が極限に達したとき、秋子は再び家を出る決心をするが、ここで父親が「みんなとつぐまでわたしのもとに」と家族宣言をする。それはこの父親がはじめて行った積極的な決断であった。その後、上の娘たちが嫁ぎ、秋子も嫁ぐ日を迎える。その同日父親は、『わたしたちの島で』のメルケルと似て、文学賞を得るというおまけを得、物語はハッピーエンドとなる。
 秋子の物語の場合、母親が死ぬことで母親の影響力は生前よりかえって増す。母の亡霊に<とりつかれ>ているわけである。秋子は母のイメージに縛られ、実の子でないというコンプレクスがあるから尚一層<実>になろうとしてその束縛を強める。マーリンも同様に亡き母の亡霊に支配される面があっても不思議ではない。『雨の音がきこえる』の父親が家族宣言以外に積極的な責任をとっていないのと、メルケルがいつも家族のためにはりきろうとして失敗するのは似てもいるようだ。しかし、マーリンと秋子の違いは、秋子には家族になることがさしあたっての課題であったということである。死んだ母親に同一化することは家族になるための方略であったと考えられる。また、マーリンには<休暇>があり、秋子には<休暇>がないという違いがある。秋子は<実>になるために現実生活に過剰適応しようとして空回りし、家を求めたはずが逆に家を出るという解決しか本人の力では見いだせなかった。それはいわば、休みなしに働きついに万策尽きてその場を退場する姿である。<休暇>は家族という日常が前提にあって成り立つものである。日常を手に入れることが先決問題だった秋子には<休暇 >は願うことすらできないものであったろう。マーリンが持ち得た<休暇>は、彼女を母親役から解放し、おのれの人生を試し選択する自由を与えるものであったと言えるだろう。マーリンの休暇からは、人が日常生活で果たそうとしている役割からその人を一時的に解放し、より広いパースペクティヴをもつ機会を与えるという<休暇>の働きを見い出すことができる。

メルケル
 すでに述べたように、メルケルが児童文学の主人公のひとりとなりえるのは、<子ども性>という切符を手にしているからである。彼は不器用で愛すべき人物であり、五十歳を迎えようとするにもかかわらず、育ちきらなかったおとなである。だからこそおとなと子どもの境界を越えて隣家の末娘チョルベンとの間に友情の絆を築くこともできる。職業は作家であるという点で、社会の成人男性の中核からはやや逸脱したところに位置していることが推測される。メルケルが企業戦士ではこの物語は成り立ちにくい。まず長期休暇をとることが難しいであろうし、企業戦士のような社会の最も現実的な部分(それも幻想かもしれないが)においてエネルギーを使っている人間は、休暇という幻想に多く属する時空間では活躍することが難しい。性格の点では、メルケルは「上きげんとふきげんのあいだをいったりきたりする」人物で、得意の絶頂にあるかと思えば、落込みのどん底にいるというぐあいに気分変動が激しく、成人男性としての情緒の安定性に欠ける人物である。あるときは万能感を抱きつつ水道管つくりに熱中するが、次の瞬間には一時的な怒りから苦心してつくった水道管を誤って破壊する結 果をまねき、再び激しい自己否定感にさいなまれる。
 子どもたちとの関係では彼は「はげしい愛情で」子どもたちを愛していた。が一方で、自分が子供たちにとって重要な人物であるという自信をこころから持つことができない。「どうしてかれなんかに、こんなりっぱな四人の子どもがさずかったのか」と、彼はいぶかしく思う。
 彼は7年前に妻をなくしているが、彼自身の生活、たとえば異性のパートナーへの愛情や、作家としての仕事についての記述は文中にない。たとえば今江祥智が『優しさごっこ』で示した両親の離婚、父親の恋愛を娘の目から眺める視点は、ここにはない。それは時代の違いとも言えるし、またリンドグレーンの家族観がどちらかというと伝統的なものであるためであろう。休暇中のメルケルは、スニッケル荘の持ち主についての想像をめぐらし、また家を修理し維持するために働く。マーリンが母親役から解放されたのとは逆に、メルケルは夾雑物を排除して、ごく単純に家を護り支えるという父親としての基本的な役割を果たす機会を与えられている。しかしその父親としての仕事に彼はことごとく失敗し、落胆する。
 その最も極限的な状況は、家族全員が親しみ愛するようになっていたスニッケル荘が人手に渡り、メルケルソン一家はもはやそこに住み続けることができなくなるという事態であった。ここにいたってメルケルは”家も守れない”無力を味わうのである。
 ちょうどそのとき舞い込んできた政府文学補助金という幸運に後押しされて、メルケルはスニッケル荘が買い手に渡るより先に買い取る試みを行う。しかし彼はどうしても買い手に追いつくことができず、この最後の試みも実を結ばないと見えたとき、じつは問題はペッレとチョルベン、子ども二人によって解決されていた。二人を同伴することは事態を混乱させるだけだと考えたメルケルから二人は「からだにコケが生えるまで」じっと待っているようにと言い渡されていたのだが、その禁止を破って家の持ち主である老婦人に直接交渉し、ポケットの中に残ったコイン1枚で家を買い取る契約を成立させていたのである。静かにしているようにと言い渡された子どもが自律的に動いてものごとを成功に導いていた。このことは、ユング派の分析心理学における夢・おとぎ話の解釈で用いられる<主体水準>1)の解釈法を適用すれば、一連のできごとを男性のこころの中のできごととしてとらえることができる。メルケルは男性の中心的な自我を担う人物であり、ペッレとチョルベンは男性の無意識に属する<子ども性>を表すと考えられる。<子ども性>は時折活動をしていたとはいえ、どちらかという と意識の中では受容されず抑圧される傾向にあった。最大の危機状況において自我は<子ども性>を支配しようとして沈黙を命じる。しかし<子ども性>の自律的な働きが、自我のなしえなかった転換を生じさせる。メルケルが買い手を追いかけて追いつけない様には、クロノス的なつまり意識的な時間の流れでは解決が生じないことが示されている。<子ども性>の肯定的な経験は、住まいを手に入れるという父親役割の成就をももたらす。
 つまりメルケルにとって休暇は父親になる機会であったと言えよう。前章では子どもの休暇の通過儀礼としての意味に言及したが、おとなであるメルケルにとっても休暇は通過儀礼的な働きをしたのである。またここでの父親役割は<住まい>を安定させることと結びついている。<住まい>については次章で詳しく述べたい。
 <休暇>は家族メンバーそれぞれにとって変化と成長の機会として描かれている。『二年間の休暇』『ツバメ号とアマゾン号』とは違い家族全員が一緒に休暇を過ごしているにもかかわらず、<休暇>は個々人を家族から切り離し、独自の課題を与える機能を果たしたようにみえる。

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