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 進学・進級のシーズンのせいか、子どもの本もこの一、二ヵ月の間に非常に多く出版され、その内容も転校や進級、あるいは引っ越しにまつわるものが少なくない。しかし最近の児童文学を読んで強く感じることは、全般的に女の子や女性の生き方が強くなったこと、そして新しい家庭のあり方をさぐる作品が多いことである。
 最も典型的な作品は、西独の『セバスチアンからの電話』(イリ−ナ・コルシュノフ作、石川素子・吉原高志共訳、福武書店、一三〇〇円)である。
初めてのボーイフレンドのために、大学に進学し化学を学びたいという志も放り出し、ギムナジウムの中等過程終了後は就職して彼を支えたいとさえ思っていた十七才の少女ザビーネは、いつも彼の電話を待ちわびていた。ところがヴァイオリニストを目指す彼は、常にレッスンと練習が第一で、ザビーネのことは二の次。ザビーネはそんな彼との関係に耐えられなくなり、そして彼にはそんなザビーネが負担となり、二人は気まずくけんか別れをしてしまう。ちょうどその頃ザビーネの一家は、父がほぼ独断で郊外に購入した家に移り住む。閉ざされた片田舎で暮らすうちに、それまではいつも夫優先で父の言いなりになっていた母が次第に自分に目覚め、夫の反対を押し切って車の運転免許を取る。そんな母を応援し、母と父の姿を見つめ直すザビーネは、彼と距離のある生活の中で再び自分の夢を取り戻し、彼との関係についても、いつも彼が王様だと不満に思っていたけれども、そうさせていたのは自分自身だったのだと気づく。
女性の自立、環境保護、無農薬野菜栽培、住宅問題、ローン地獄、校則問題など様々な今日的なテーマを盛り込みながら、本当の意味での良きパートナーとは、家族とは何かを問い直す話題作。自分を取り戻し、自分の人生をしっかり自分の足で歩み始めたザビーネが、ただ待っているだけでは嫌だと言って彼の電話番号を自ら回すラスト・シーンが印象的で共感できる。
 同姓同名の二人の少女の誤解と友情を描いた『花どろぼうとおじょうさん』(瀬尾七重作、講談社、九八〇円)に登場する、花どろぼうに間違えられた転校生の佑子もなかなかしっかりしている。暴力団員らしき夫から逃げ回り引っ越しばかり繰り返している母親に、佑子はもう逃げ回るのは嫌だときっぱりと言い、母親と強く生きていこうとする。
 『いく子の町』へとつながる連作の第一作、疎開した東北の山村にそのまま住みついた家族の話を、その家の少年に焦点をあてて綴った『ひさしの村』(織茂恭子作、福音館書店、一四〇〇円)に登場するさち子も、ひさしの正義感にほれ、将来はひさしのお嫁さんになりたいとずっと思っていたが、それより開拓移民として南米へ行って広い世界を見た方がずっといいとひさしに告白する。ここにも単にお嫁さんだけに憧れるのではない少女のたのもしい生き方が伺える。
 また子連れ同士の男女の再婚家庭を描いた『ぼくたち五人家族』(ロティ・ペトロピッツ作、岡本浜江訳、佑学社、一二〇〇円)には、特別強い女は登場しないが、三人の子どもにそれぞれ別姓を名のらせているこの作品は、明らかに新しい家族のあり方をさぐる一作と言える。また全編が兄と弟がテープレコーダーに吹き込んだしゃべる日記、母の姉への手紙、そして父の電話だけから成るという手法の奇抜さも注目に値する。
 しかし悩み、苦しみ、真剣に生きようとしているのは女の子ばかりではない。脳腫瘍と闘いながらも必死でまともに生きようとする孝一と、親友の死に直面し生死の意味を考え、抑えきれない異性への胸のときめきにとまどい、ひたむきに生きる盲目の少女の姿に感動しながら成長していく高志の姿を描いた『高志と孝一』(篠田勝夫作、ほるぷ出版、一二〇〇円)は、人生には苦しいことや悲しいことも沢山あるけれど、生きることもそう捨てたものではないという生への讃歌であり、感動的な正統派の青春文学。(南部英子
読書人1990.5.21
テキストファイル化 大林えり子