93/05


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 映画『お引越し』を、公開と同時に観てきた。私としては、ひこ・田中原作を大変に気に入っていたし、まあ、先々月のこのコーナーでも「映画『お引越し』も近日公開だそうだから、こちらもどうぞ」なんて、みなさんにお勧めしたものだから、とにかく、早速行ってきたというわけだ。
 ところが。 この映画、実につまらなかったのである。もう、気軽に「こちらもどうぞ」なんて書いてしまった自分を深く恥じましたね。帰りの電車の中でも、読者の皆さんにどうやってお詫びしようかということばかり考えましたよ。で、何がそんなに、つまらなかったのかというと、この映画、実にたくさんのメタファーを使いながら進行して行くんだけど、それがもうありきたりでありきたりで、優等生の模範解答を見せられているようで、面白くもへったくれもない。 オープニングの食事のシーンの、三角のテーブルの使い方といい、そのライティングの仕方といい、琵琶湖畔での父と娘の会話とその内容に伴う位置関係の転換といい、あんまり図式的で、観ていて気恥ずかしくなってくる。また、この映画のハイライトに当たるレンコのイニシエーションの描き方にしても、祭りや神社といった伝統的な文化装置にべったりと頼り切っていて、オリジナリティーが感じられない。そんなわけで、レンコが父の箪笥に入って「あるとき突然な、こことあたしの部屋の押し入れがつながってしまうんや。超状現象や」なぁんていう、けっこう印象的なシーンも、エンディングの幻想シーンでレンコがレ ンコと抱き合うところも、「はいはい、『ナルニア国物語』と『ゲド戦記』を読んだのね、偉い、エライ」という気持ちにしかならないのである。
 そして、何より腹が立ったのが、原作の魂というべき「概念ではなく生活を描く」という核心を、全く理解していないということで、あの生活感のない台所のセットや、リアリティーのない朝食のシーンなどを見れば、それは一目瞭然である。映画は映画なんだから、原作と同じように撮ってくれなんていうつもりはもとよりさらさらないが、しかしまあ、この原作に材を取った以上は、せめてこの作品のやってくれた意欲的なもくろみを逆行させるようなことだけは止めてほしかった……。
 さて、というわけで今回は概念やメタファーを振り回したりしない作品ぼくは勉強ができない』(山田詠美作・新潮社・1200円)をご紹介する。
 幼くして「大人を見くだす」ことを覚えた時田秀美くんは、大人や教師の持ち出す、いわゆる「普通」や「立派」に大変醒めた目をもって接している。とはいえ、彼は醒めてはいても、決してニヒリズムに走ったり、ペシミスティックになったりしないのがいいところで、あくまでナチュラルに、勉強ができるより女にもてるほうがいいとか、高尚な悩みより身体の苦痛のほうが勝るとか、まったくもって「正しい」感受性を持っている。
 では、どうして、彼はそんなにも「正しい」感受性を持ちあわせることができたのかというと、それは、彼のまわりにイイ大人が揃っているからである。秀美くんにいうところの、「素晴らしき淫売」である母と、年下のおばあちゃんにしょっちゅう恋している「くそじじい」の祖父、年上の恋人桃子さん、そして、教師風を吹かせない担任桜井と、「あたりまえ」の常識を疑うことを知っている、キチンとした大人たちに取り囲まれている。大人が大人として、そのブザマなところも含めてその役割を引き受けなければ、子どももマトモでいられないという真理が、ここにはあるのだ。 既に世の中の価値観をすら席巻きしつつある学校的な物の見方を、秀美くんの日常を描きつつゆさぶるこの作品は、概念に溺れる「文学」への、いわば、華麗なる<寸止め>なのである。(甲木 善久)
読書人 93/05/17
テキストファイル化 林さかな