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変化した評価軸 同一作品の受賞 本年五月、日本児童文学者協会と、日本児童文芸家協会の一九九三年度の新人賞が、それぞれ例年通り発表された。そして、これがおもしろいことに、どちらも、湯本香樹実『夏の庭』(福武書店)、正道かほる『でんぐりん』(あかね書房)という、まったく同じ作品を選んだのである。これまでも、同一作品が両団体の新人賞に選ばれることはなくはないが、しかしながら、その受賞作品が丸ごとすべて同じになることは、私の記憶するかぎり、おそらく初めてである。その詳しい選考経過は、児童文学者協会の方が「日本児童文学」九三年七月号(文溪堂発行)に、文芸家協会の方は「児童文芸」九三年六月号(ぎょうせい発行)に載っているが、まあ大雑把にまとめてしまえば、そのイメージ・アイディアの新鮮さや、語り口の妙、話運びの巧みさが今回の受賞の決め手となった、ということであるらしい。 判断基準への疑問 昨年、児童文学という表現の領域に果敢に挑戦した実験作は多々あった。にもかかわらず、明らかにパターンをを踏み、しかしもそのパターンをみごとに使い切ってしまったこれらの作品が同一に選ばれたという事実には、児童文学の評価軸のある変化が見て取れる。つまりは、これまで〈何を描いたか〉にばかり目がいってした評価軸が、今度は〈どう描いたか〉という物語性重視の方向に傾きつつあるということであるのだが、それはさておき。 この日本児童文学者協会新人賞の発表直後、『夏の庭』の受賞に関して、『あほうの星』『ヒョコタンの山羊』『ゲンのいた谷』などの作品で知られる作家、長崎源之助氏から「日本児童文学」誌上においてひとつの質問がなされたのである。曰く、「思想上のことで他の賞(坪田穣治賞、椋鳩十賞ー引用者注)に落ちた作品に、なぜ平和と民主主義を重んじるはずの、わが協会が賞を与えたのか私は不思議でならない。まさか非戦闘員を殺したことも戦争だから仕方がないと思っているのではないだろう。このあたりぜひ、選考委員諸子のご意見をおききしたいと思った」(九三年八月号)というのがそれだ。もちろんこの結論を導き出すに先立ち、長崎氏は長崎氏なりのアプローチでこの作品に近づき、それについて評価の姿勢を明確にしている。氏の作品評価のあり方には、私自身、おおよそ正反対の意見を持っている。が、同時に、ややもすればヘンな権威になりやすい(といっても、大したモンじゃないんだけど)大きな団体の新人賞に対して、疑問があるならあるでこうした発言を行なっていくというのは、言論人と して正しい対処の仕方だと思う。 ズレている反応 ところが、である。これを受けた側の協会と、直接には、その任に当たった選考委員達の腑甲斐なさのせいで、氏のこの発言もまったくの無駄骨となってしまった。七月に質問を受けてから既に五ヶ月、彼らからオフィシャルな解答は未だに示されてはいない。確かに、「日本児童文学」十二月号でようやく、読者のページにこの問題に関する投稿が載った。そして、その編集後記には、編集長の藤田のぼる氏から、同誌編集委員会で長崎氏の発言に対する反響を「殊更゛論争゛として仕組むようなことはしなかった」旨、さらに、この件に関する投稿を今後も読者のページに掲載する用意のあることも示された。 だが、この反応は明らかにズレている。こんなことでお茶を濁してはいけない。まがりなりにも、その団体の名称を冠した新人賞なのだ。長崎氏の言うようにそれが「与えた」ものであるかどうかは別として、少なくとも何らかの基準で選んだのである。その判断基準に対し質問が来た以上、しかも、作家としての自らをさらしちゃんとした発表の手続きを踏んでいる長崎氏のようなやり方を取られたなら、選考委員の任に着いた者は、直ちに個人の意見としてもいいし、あるいは、委員会の共同声明でも構わないが、とにかくきちんと応えるべきであめう。それが言論人としての責任というものである。これは、論争を「仕組む」仕組まないの話ではない。評価基準が示されたのち、それについてさまざまな発言が興って、仮りに論争的様相を呈するとしても、あくまでそれは゛結果゛である。 しょせんは民間団体の新人賞、どんな基準で選ぼうと勝手だ。が、それについての責任もまた、引き受けてほしいものである。(甲木善久)
読書人 1993/12/24
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