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 五年ほど前のことだった。NHKの衛星放送で、「『赤毛のアン』夢紀行」という番組が放送された。中学校以来の『赤毛のアン』ファンの僕としては、当然、その番組をチェックした。そして、それを見て驚いたのである。
 海が近い!
 このことは、『赤毛のアン』を読んだ人であれば、おそらく、誰でも同じだと思うのだが、とにかく、あの作品の中で海の存在を感じることはほとんどないわけで、アンの住まう村アヴォンリーはけっこう内陸に位置した場所にあるという印象が強いはずだ。ところが、その印象は、映像を見ていっぺんで覆されてしまった。アヴォンリーのモデルとなった村キャヴェンディッシュは、非常に海が近く、いや、海沿いの村であるとすらいって差し支えないところなのである。海沿いの村を舞台とした物語で、なぜ海が描かれなかったのか。この疑問は、物語と映像とのギャップに比例して、強く僕の胸に残っていた。
 解答を得られないまま胸の内に放置された疑問というものは、概して気持ちの悪いものであるが、逆に、そのような疑問がいっぺんに氷解する瞬間は実に快感である。それも特に、その疑問が客観的な事物に対するものでなく、本を読んだ後の印象といった、主観的な感覚についてのことであれば、なおさらである。おそらく、そんなわけで、評論を読む快感というものはその辺にあると思うのだが、実は先日、僕の、『赤毛のアン』に対する疑問をもののみごとに氷解させてくれる、素晴らしい評論に出会った。
 横川寿美子「赤毛のアン」の挑戦』 (宝島社、一六00円)が、それである。この本は、、『赤毛のアン』という「長年にわたって高い人気を保持し続けてきた不朽の名作でありながら、これといった文学的価値がほとんど認められないという問題作」を、それを手にする読者の位置に立脚して読み解こうとしたものである。とはいえ、読者論的立場を取るとは言いつつも、この著者の場合、そこでいたずらに印象批評を繰り返すような愚は犯さない。二部に別れた構成は、ストーリーを中心に置いた第一部と、さらに、我が国における、『赤毛のアン』関係の出版物のあり様を取り込んだ、作品の自然および風景描写の分析を図る第二部からなるが、その際、いずれの作品にも即した綿密な分析が施されるのである。
 先の「海」に関する疑問にプラスし、「グリーン・ゲイブルスのアン」「アヴォンリーのアン」「島のアン」と原題が展開していくのはなぜか、農家であるはずのクスパート家(アンの養家)の日常であるはずの農作業が描かれないのはなぜなのか、マシュウとギネバート・ブライスを除けば男性の登場人物が少なく、しかも没個性的に描かれるのはどうしてか等々、『赤毛のアン』の読者であれば誰しも感じる、あるいは、感じないまでも言われてみれば確かに思い当たる疑問が、この評論を読めばすべて解決される。そして、その結果、「なぜ自分が思春期に、『赤毛のアン』を読みふけったのか」という、本質的な疑問の解答を読者は手にすることができるのだ。その最後の疑問の氷解は、まさしく感動といっていい。 児童文学というジャンルは、大人が創り、子どもが読み、さらに、それを大人が論じるというアンビバレントを抱えている。これまで読者論といえば、「子ども」というある種の抽象的なモデルを論じ手の内面に作って論じるか、でなければ、「現実の子ども」という語り手から異化されたところにある現象として語るか、という二つのやり方が主流であった。しかし、『「赤毛のアン 」の挑戦』は、そのどちらの方法もとらなかった。そう、著者はこの評論によって、児童文学の読者論も、実は作品論のすぐ近くにあるのだと実証してみせたのである。この点において、これはまさしく、日本の児童文学評論におけるエポックといっていい。 (甲木善久)
読書人 1994/04
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