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アンの魅力は、なんといってもその想像力。道、湖、森、あらゆる風景に名前を付け、謝るときでも、自分を悲劇のヒロインだと考えて恍惚とするアン。物語に登場したとたんアンはこの想像力を駆使し、マシューのみならず読者をも魅了してしまいます。 これは「孤児物語」の一つ。一方に「若草物語」のような「理想の家族」があります。意見正反対みたいだけど実はこれらは兄弟、いや、姉妹のようなものなんです。一方が真っ正面から「家族」を主張するのに対して、他方はそれを失った「不幸な孤児」から語り始めるだけのことで。失っているのですから、ストーリーラインがどうなるかは簡単に予測できますよね。「不幸な孤児」−様々な出来事−失ってたものを得る。即ち、家族の中に入ることの幸せを語る物語とでも言えばいいでしょうか。読者の子ども(女の子)に対しては、家族の中で安住するあなたは正しいと伝えるわけ。 これらの一連の物語には共通要素があります。想像力、マッチョではない男性、隠された恋愛、そして殆ど総ての主人公が女の子。今回は想像力のお話しですので、居並ぶキャラの中で抜きん出てそれを発揮するアンに登場願ったのですね。 「不幸な孤児」の想像力。置かれている状況と比べ、一見明るそうなその想像力に、私たちは強烈な印象を受け、魅了されるのですが、アンのみならずどうして彼女たちが想像力を駆使するかを考えてみたほうがおもしろいと思います。寄る辺ない「孤児」である彼らには、想像力こそが「私」を保証する唯一のものなんですね。物や風景に名付ける行為とは、象徴的にはそれらを所有することと同義です。 実際には何も所有していないアンにとって、想像力による名付けだけが、世界を私のものにする手段でした。けれどそれは、「孤独をまぎらわすための逃避的な性格のもの」(「『赤毛のアンの挑戦』横川寿美子著)でもあります。アンシリーズが世界で最も支持されているこの国では、今でもアン的な想像力を必要とする女の子たちが多いってこと。その辺りの秘密は今引用した書物に詳しく分析されていますので、パス。 「家族」とからめて述べておけば、家族の中にその居場所を確立するに従って、アンの想像力は奥に引っ込んでいきます。家の外で、逃避的な想像力が生産的なそれに変わる素敵な可能性に賭けることより、女の子よ、家の中に入ってきなさい。そこがあなたの幸せの場所ですよ、とばかりに。 もったいないではありませんか。(ひこ・田中)
「子どもの本だより」(徳間書店)1995年1、2月号
一九世紀後半、カナダの片田舎に初老の農夫が妹と二人だけで暮らしていた。やがて将来に不安を覚えるようになった二人は、孤児院から男の子を引き取って農作業の手伝いをさせようと考える。ところが、どうした手違いからか、やって来たのは男の子ではなく女の子だった。それなのに、駅までその子を迎えに出た兄は、そのまま何も言わずに彼女を家に連れて帰る。 ◆ヘンな話は面白い 『赤毛のアン』の物語はこうして始まる。最初からヘンなことの連続である。男の子と女の子を間違えるというのもヘンだし、いくら内気で口べたな性格だとしても、彼女に何も言わないこの兄もヘンな男である。そもそも、たった一人の妹と、どちらも生涯一度も結婚せずに、二人だけでずっと暮らし続けるということからしてどこかヘンで、めったにあることではないと思われる。 加えて、この女の子というのがそれに輪をかけて変わっている。生後間もなく両親に死に別れ、身を寄せるべき親戚もなく、他人の家を転々としたあげく、孤児院に収容されたという悲惨な過去を背負っているのに、どうしてこんなに明るくしていられるのだろう。とにかくしゃべる、しゃべる。話題は、自分がしたかったこと、これからしたいこと、あるいは「もし薔薇が口を利いたら、すてきでしょうね」というような、夢または想像に関する楽しいことばかりで、それらはよどみなく溢れて尽きることを知らない。 そして、そのおしゃべりに魅了された無口な兄が彼女を引き取りたいと妹に持ちかけ、最初は猛反対していた妹もついには兄と同じ心境になる。かくして女の子には念願の家庭が与えられ、わびしかった兄妹の暮らしはにわかに活気を取りもどすが、それでは兄妹の当初の計画は一体何だったのだろう。彼らの将来の不安はどうなったのだろう。やはり、この話はヘンである。 というより、一般的に、読んで面白い話というのは、結局どこかヘンな話なのである。 ◆ほんの少しの過剰、微妙なバランス感覚 ただし、ただのヘンな話が面白く魅力的な話に変わるためには、いくつかの条件をクリアしなければならない。ひとつには、その「ヘン」が、読者がそうあって欲しいと思う種類の「ヘン」であること。さらには、これはなるほどヘンではあるが、あってもおかしくない話だと納得できるだけの何かがそこにあること。たとえば、前述した女の子=アンの有りようなどがこれに当たる。 不幸のどん底にあったはずの子どもが、極めて明るい性格をしているということ。この嬉しい驚きを読者が素直に受け入れることができるのは、彼女のその明るさが、ほかでもない、おしゃべりと空想癖という二点によって表出されているからである。どちらも少女の特性として一般的なものであり、その意味で読者に親近感を持たせる要素でありながら、アンの場合はその表出の仕方が少々過剰であることによって、彼女に一風変わった印象を与える要素ともなっている。そのために、彼女は大方の読者である普通の少女との接点を保ちながら、非凡な運命を担う主人公たる資格をも併せ持つことができるのだ。 平凡と非凡、この両者を取り混ぜる微妙なバランス感覚が、このヘンな話を面白くしているのである。根っからの変人である兄=マシュウと典型的独身女である妹=マリラという名コンビも、この感覚なしには成立しなかっただろう。 ◆ヘンであることのさまざまな意味 そして、読者にとっての嬉しい驚き、なさそうでありそうな「ヘン」は、たいていアン自身の夢の実現という形をとって、その後も作品中に次々とたちあらわれる。新しい家グリーン・ゲイブルズの周囲は「彼女が夢見てきた空想の世界のように美しかった」し、これも長らく夢見てきた「腹心の友」ダイアナを得ることもできた。孤児院出身のよそ者であるにもかかわらず、アヴォンリーの村人たちはだれもがアンに優しく、寛容だった。 こうしてようやく人並みの境遇に身を置くことになったアンは、それを足がかりに次々と願いごとをかなえていく。常にクラスの一、二を争う高い学業成績、当時の女としては最高に近い教養、落ち着いたものごし、美しい衣装、経済的自立の手段、家事をこなす能力、ほのかなロマンス。そして、最大の悩みであった赤い髪までがいつの間にか美しい褐色に変わり、今や望むもののすべてを手にしたかに思えたとき、彼女の身に変化が訪れる。マシュウが急死をを遂げ、グリーン・ゲイブルズの存続が危うくなるのである。 アンの出現によって一時棚上げされていた兄妹の不安はこうして現実のものとなり、読者が最初に感じた「ヘン」は最終的にヘンではなくなる。それまで続いたアンの幸福もこれを境に先の見えないものとなり、彼女は目前にひかえた大学進学をあきらめて、グリーン・ゲイブルズにとどまる決心をする。彼女は心からマリラを愛し、グリーン・ゲイブルズを大切に思っているのだから、これも少しもヘンではない。 そしてそういう形で、彼女は真正の非凡なる主人公へと飛躍する素振りを見せつつ、結局、夢見がちな少女のままにとどまる。これは少しヘンかもしれない。だが、それは恐らく読者がそうあって欲しいと思う種類の「ヘン」なのである。 (横川寿美子)
児童文学の魅力/今読む100冊(ぶんけい) 1995/05
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