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一般に、子どものころの読書とは極めていいかげんなものである。大好きな本でも、題名は覚えていないし作者の名前も知らない、ということがよくある。それどころか、年齢によっては、本には作者というものがあるのだということすら知らない場合もある。 そういう年代をへて、好きな本の作者に関心を覚え、その人について知りたいと思うようになるのは中学生のころからだろうか。ところが、そういった若い読者のニーズにこたえるような本はなかなか見当たらない。十代前半という時期は、子ども向きの「偉人伝」を読むには遅すぎ、本格的な「評伝」を読むには早すぎるという、やっかいな年代なのである。 というわけで、かのロングセラー『赤毛のアン』についても、その主な読者である女子中学生たちは、これまでずっと作者L・M・モンゴメリに関するまとまった情報を得る手段を持てないでいた。自叙伝や伝記、日記や書簡集など、日本語で読めるモンゴメリ関係の書物は決して少なくないのだが、それらはいずれも中学生が手に取りやすいものではなかった。一方、モンゴメリを主人公とした「偉人伝」というものはついに刊行されなかったが、それは読者にとってむしろ幸いだったと言うべきだろう。少女たちは『赤毛のアン』の作者を「偉い人」とは絶対に思いたくないはずだから。 その意味でこの『わたしの赤毛のアン』は、大人向きと子ども向きのまさに中間に位置する、新しいタイプの伝記であると言えるだろう。アメリカの中学校図書館に勤務する著者アンドロニクは、いかにも図書館員らしい物堅さで数々の資料を忠実に踏まえながら、決して順調ではなかったモンゴメリの生涯を淡々と綴っていく。確かに、読者の年齢を考慮して、あまりにも複雑な大人の事情にかかわる部分は押さえぎみの記述になってはいる。けれども、子ども向けに単純化したり美化したりといった脚色は、全くと言っていいほど見られない。 それにしても、なんと苦労の多い人生だろう。母に死なれ、父が遠方で仕事をしていたために、気むずかしい祖父母に育てられた子ども時代。継母のもとでまるで小間使いのように働かされた少女時代。貧しかった学生時代。破綻した恋愛。祖母の看病に明け暮れた二十代。愛のない結婚。書きたくない作品を無理やり書かされる苦しみ。ついには法廷にまで持ち込まれた出版社とのトラブル。そして、牧師の妻としての立場と流行作家としての立場をなんとか両立させようとあえぎ続けた長い長い年月。さらには、夫の鬱病に悩まされた晩年の日々・・・。 モンゴメリは結局、それらの苦労を乗り越えられなかった。彼女にできたことは、ちょうど人々が直る見込みのない持病と向き合うときのように、それらと根気よくつきあう術を身につけることだけだった。このように、良くも悪くも「偉人」ではありえなかったモンゴメリの実像を、アンドロニクは丁寧に克明に刻んでいく。 『赤毛のアン』の明るさを愛する読者にはショッキングな内容であるかもしれない。けれども、アンの光をより深く味わいたいと望むなら、モンゴメリの影についても知っておいた方がいい。そして、もし読者がいっとき『赤毛のアン』の存在を忘れ、キャリアと家庭の両立をめざした一人の女性としてモンゴメリをとらえ直すことができたなら、この本の持つ意味はさらに大きく広がって行くだろう。(横川寿美子)
図書新聞 1995/02/18
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