若草物語


ルイザ・メイ・オルコット


吉田勝江訳角川文庫(上下巻) 1868/1968


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 児童文学は子どもを主人公にしているものが多いですよね。当然と言えば当然だけど、じゃ、本当に主人公たちは子どもなのかというと、妙な言い方ですが、多くの児童文学は子どもを主人公にしているように見えて実は、女の子か男の子を主人公にしているのです。女の子は女の子の物語、男の子は男の子の物語というように。そして女の子の物語には家族を扱ったものが多い。いえ、言い方が逆。家族を扱った物語には女の子が主人公のものが多い。ちょうど大人の女と男が、女は家で仕事、男は外で仕事とされていたように。児童文学は夢のような世界を描くのではなく、そうした大人の社会を反映もするジャンルなわけね。
 
「若草物語」。一八六八年刊。一三〇年近く前の作品ですが、今でも世界児童文学全集などでは必ずといっていいほど収録されている古典です。ここには実に典型的な「理想の家族像」があります。愛し合う両親とその愛に育まれている子どもたち。はい、もちろん主人公たちは女の子。
 原題は「小さな婦人」。これは従軍牧師として戦地(南北戦争)にいる父親から寄せられた手紙の文面に由来します。留守の間、お前たちは母親の言うことをよく聞いて、手助けをしなさい。そして私が帰宅したとき、りっぱな「小さな婦人」に成長しているようにと。虚栄心の強いメグ、自己主張の激しいジョー、内気すぎるベス、自分勝手でわがままなエミリーと、四人別々の克服すべき性格があり、読者の誰もが四人のどれかの性格に思い当たる節があるように作られています。それぞれの性格が災いして招いてしまう失敗によって、しだいしだいに「小さな婦人」へと成長を遂げる物語。
 さて、別々の性格、だからスタートラインは別々なのですが、ゴールは同じ地点、「小さな婦人」なのに注目してください。要するに、社会が要請するよき女の子像、女性像になるようにということ。四人の性格を参考にしてまとめれば、質素で、柔順で、ほとほどの外向性を持ち、謙虚である、かな。ここに出てくる母親は、正にそうした存在。質素な生活を営み、夫の言うことに従い、夫を疑うことなく尊敬している。妻、母親の鑑ですねえ。この物語が発表当時、世の男性陣にも圧倒的支持を集めたのはうなずけるところ。家を支え、舵取りをする父親。それを補佐する妻。二人を尊敬する子どもたち。「理想の家族像」のための、「理想の女性像」。
 しかし、今の私たちからすれば、この「理想」が男にとって都合のよい「理想」なのは申すまでもありません。であるにもかかわらず未だに読まれ続けている事態、それは、単にストーリーのおもしろさだけでしょうか? 違うと思います。というのは、物語の表向きのメッセージを無視して、読者である女の子たちは自分の好きなように読んでいるのですから。それは、作者がモデルだと言われているジョーに関して。読者である女の子のほとんどが、この「理想の女性像」からもっとも遠い性格、自分自身の考えをはっきりと述べ、行動をするジョーを支持します。結果的には「小さな婦人」の一人へと変わってしまうのですけれど、そんなことは見ない振りをして、物語の最初に現れたジョーのイメージだけを忘れず、ジョーのようになりたいと(もし、国語の授業でこの物語が扱われ、「テーマは何か?」と質問されたとすると、「女の子はジョーのように元気に生きるべきだ」は不正解となり、正解は、その理想の女性像になるでしょうけれどね)。
 つまり、大部分の女の子たちは、この物語を自分自身の想いにズラせ、読み替えた。これは豊かな読み替えです。そして、そんな読み替えを可能にしているのは、この物語自身がどうやらそんな読み替えを望んでいる節があるからなんです。一三〇年も昔、女の作家が、ジョーのような女の子を堂々と支持し、彼女を自立させて描くことは困難でした。ですから、表向きには、社会の要請通りに描きつつ、作者はジョーのような新しい女の子像、キャラクターを読者に、ちらりと見せてくれたのです。
 ジョーによって最初の刻印が押された、元気な女の子像、それは忘れられることなく、後の児童文学にちゃんと受け継がれていきます。ひこ・田中


          「子どもの本だより」(徳間書店)1994年11、12月号