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ジリアン・アームストロングによる、五度目のリメイク映画のノベライゼーション。例えば「ET」のそれなどは、ある種の読み替えを行っていて、映画が描かなかったこと、描けなかったことを想像できたりする。この本はそうしたものではなく、映画をトレースしたよくあるノベライゼーションの一つである。 けれど、「ET」においての映画とノベライゼーションの関係を、「若草」では原作と映画が演じていて、それをトレースしたこの本は、原作と同じ活字メディア上にもう一度、映画の読み替えを投げ返したものといえる。 一八六八年に発表された原作は、今以上に濃厚に存在したダブルスタンダード状況の下に書かれたため、様々な箇所でためらい、あいまいになり、ほのめかし、綻びを見せている。 ジョーが抱く、ペン一本で一家を養っていくという野望。それは作者自身の野望でもあったのだが(そして作者はそれを成し遂げる)、そのペン先はジョーを挫折させ結婚への道を進ませることなどが、その顕著な例である。 一九九四年版映画は当然のように、その綻びを繕おうとしている。オールコットがためらわず、あいまいにせず、ほのめかしで止める必要がなかったら物語をこう書こうとしたのでないか? と想像を膨らませている。 原作は社会の非難を浴びないように工夫を凝らして、家庭内の権力者である父親を遠避ける。けれど、それでもまだ母親を代弁者に仕立てることで、男勝りの野望を持つジョーを折あるごとに仕付けなければならない。九四版はそうしたシーンをすべてカットすることで、ためらいとあいまいさを退けた。 原作のエピソードをそのまま採用しているシーンでも、読み替えは随所に見られる。 四女エイミーが学校で体罰を受けて帰って来る。原作にはないセリフがさりげなく挿入される。「先生が言ってたわ、体罰は女の教育に役に立って。メス猫をならすときと同じようにね」。そのことによって原作では父親に相談してからと述べていた母親が、自分の意志でエイミーを退学させる決心をすることとなる。 ローリーがジョーにプロポーズをする。ジョーは断るのだが、原作ではジョーはただ友達でいるほうが互いにとって幸せなのだと表明するばかりである。しかし九四版は、その理由の所在を明確に描く。ぼくと結婚すれば君は、ささやかな物語を走り書きする必要もなくなるよと口説くローリー。書き続けることが自分にとって生きる証しであるジョーには、このプロポーズのセリフは絶望的である。 まだまだたくさんの読み替えがノベライゼーンションでも知ることができるだろう。 最後にノベライゼーションが映画から取り落としている幾つかの部分から一つをご紹介。 原作では一切明らかにされていない、母親マーチ夫人のファーストネームが出てくる。もちろん原作にないかぎりそれは九四版の作り手たちの創作だが、その名はアビゲイル。 アビゲイルとは、オールコットの母親の名前である。九四版の作者たちは、そうすることで、ためらい、あいまいに、ほのめかし、綻びを生じさせながら書くしかなかった時代を生きたオールコットと彼女を育てた母親に敬意を表したのである。(ひこ・田中)
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