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この半年ほど「詩」というジャンルを無視してきた。そのことに気付いたのはパトリシア・マクラクラン『潮風のおくりもの』(掛川恭子訳、偕成社、一二〇〇円)のおかげだ。これはよその赤ん坊を預けられた主人公の家族が、ほどけかかっていた家族の絆を結びなおすといった内容の散文だが、実は主人公と「詩」の出会いを語った話とも読める。 このなかに、教師がエドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「曲のない挽歌」を読み聞かせる箇所がある。この詩を選んだ理由を教師はこう語るーーかつて兄の遺品からこの詩をみつけて読んだとき、「きみょうな、力強いなぐさめ」を感じた。だからみなさんにはわからなくても読み聞かせるのだと。その詩は悩みをもつ主人公に強く響く。そしてこの詩を共通語として、しばらく閉ざされていた両親との会話を取り戻すことに成功する。 物語に見られる詩の直接的な効用はひとまず置くとしても、この作品で語っているとおり、「詩」または「ことば」は人生を豊かにするものだし、詩には人生が凝縮して詰まっているといえるかもしれない。だが読み終えたとき、わが身を省みてつくづく思ったのは、日常のせわしなさが「詩」を楽しむ心のゆとりを失わせているということだった。 そこで最近みつけた詩の本を二冊。(ただし子どもに紹介する詩は必ずしも児童向けの詩--関係者は「少年詩」と呼んでいるらしいが--である必要はないと思っている。)まず、吉田定一『朝菜夕菜』(らくだ出版、二〇〇〇円)。これは詩画集と呼ぶべきかもしれない。左頁にさまざまな野菜にちなんだ詩、右頁に田中清の版画というシンプルな構成。詩で面白かったのは「なすびのうた」と「とうもろこしのうた」、絵ではさやえんどう、ぜんまい、ねぎだった。単色で野菜を描きわけるのは難しいと思うが、白地をいかしたデザインは、浴衣の図柄にしたいような小粋さ。うたわれている野菜は夏野菜ばかりではないが、じめじめしたつゆを吹き飛ばすような、初夏らしさにみちた一冊。 伊藤政弘『心のかたちをした化石』(教育出版センター、一二〇〇円)は、表題の詩をはじめとして、中学生と思われる少年の気持ちをうたった詩にまず心を奪われた。「おどろけ おどろけ」「いそがしぜみ」のようにリズムや音のおもしろさを伝える詩もあるが、全体として宝石、石炭、化石など、「石」というモチーフが繰り返されている。日頃から詩の世界に関心を寄せているわけではないので、ほかの詩人と比較して評価を下すことなどできないが、少なくともわたしの心を強く打つものがあった。 さて、岩波書店が岩波少年文庫創刊四五周年キャンペーンと銘打ち、一度に一〇冊出版した。(なお「図書」六月号はこの関連特集になっている。)わたしが最初に注目したのは冊数の多さだったが、次々に読むうちにいくつかの作品に関連性があることに気付いた。それはほかでもない、「戦争」というキーワードである。まずオランダのドラ・ド・ヨング『あらしの前』(吉野源三郎訳、六五〇円)で、ナチに侵略されたオランダの戦時下の様子を。次にH・リヒターの『ぼくたちもそこにいた』(上田真に子訳、七〇〇円)で、一九三三年から四三年までのドイツ国内の状況を。マイロン・リーボイ『ナオミの秘密』(若林ひとみ訳、六五〇円)で、第二次大戦末期アメリカを舞台に、ナチの被害者としてのユダヤ人少女の悲劇を。そして最後にE・L・カニグズバーグ『Tバック戦争』(小島希里訳、六五〇円)で、ある町で起きた事件をきっかけとして、自由 をめぐる戦いが形を変えて繰り返されることを描いている。なお『あらしの前』は以前に出版されたことがあるので、この四冊が戦後五〇年を意識したラインナップであることは明らかだ。戦争を知らない読者への挑戦状ともいえるこの企画に謹んで賛辞を呈したい。
読書人 95/07/21
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