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夏期休暇になるまで、あと何日と指折り数える季節となった。村上康成『さかなつりにいこう!』(理論社、九八〇円)は、わたしのような怠け者にも効きそうなアウトドアへの魅力的な招待状である。さかなつりの楽しみのほか、四季折々に釣り人が森や湖で出会うであろう自然とのふれあいを描いているからだ。ただし、読み手もまた実際に戸外へ足を運ばなければ、招待状はただの紙切れになってしまうだろう。作者の動機はまったく違うのに、やはり外へ出かけて見聞を広めるように誘っているのが、シャロン・クリーチ『めぐりめぐる月』(もきかずこ訳、講談社、一六〇〇円)である。もっとも、読者は物語にのめりこむという贅沢に夢中になり、逆に読み終えるまではどこかへ行くことを拒否するかもしれないが。この本は主人公のサラマンカという一三歳の少女が、祖父母といっしょにアメリカを横断する六日間のドライブ旅行を描いている。ところが、その裏には複雑な事情がある。 一年ほど前、サラマンカの母チャンハッセン(英語ではメイプル・シュガー)が家を出て、それ以来戻ってこない。打撃から立ち直るために、父と娘はオハイオ州に引っ越した。しかしサラマンカはケンタッキー州が恋しく、また父がある女性と親しくすることがいやでたまらず、父に事情を説明する機会すら与えようとしない。そこへ祖父母が現われドライブへ連れ出したわけだ。ドライブ中の退屈しのぎに、祖父母に何か話をしてほしいと頼まれたサラマンカは、友だちのフィービィの身に起こったことを話す。その過程で、サラマンカはフィービィの物語の裏に、自分の「物語」の意味が隠されていたことに気づく。つまり、この作品には祖父母の物語を加え、三つの物語が重なり合う重層性がある。 こうした物語の深みもさることながら、わたしが魅力を感じるのは、作品ににじみでるユーモアである。本当はこの作品は思春期の成長の痛みや、愛する者を失う痛みなど、かなり深刻な内容を含んでいる。だが、作者は読み手を暗く、陰気にさせる描き方はしていない。ことに善良で無邪気なのに、ドライブへ出かければトラブルに追いかけられるという祖父母が楽しい。祖父母が互いに抱いている愛情と、孫に見せる気遣いが、ふわっとした暖かみを感じさせる。なかでも祖父が毎晩モーテルで就寝前に必ず口にする「ふむ、こいつはわしらの結婚祝いのベッドじゃないが、まあ、がまんしよう」という言葉が印象的だ。祖父母の結婚式にさかのぼる逸話を聞けば、この言葉にふたりの人生が凝縮されていることがわかり、ほろりとなる。 さらに、この作品ではアメリカ先住民の文化がさりげなく持ちこまれ、白人一辺倒の文化へ一石を投じている。原題は「ウォーク・ツー・ムーン」であり、「人をとやかくいえるのは、その人のモカシンをはいてふたつの月が過ぎたあと」というアメリカ先住民の警句が下敷きになっている。ニューベリー賞を受賞したとき、作者は次のように語っている。この作品は「登場人物から作者へ、作者から読者への誘いなのです。さあ、いっしょにしばらく歩きましょう。わたしたちのモカシンを履いてごらんなさい。そうすればわたしたちが考えていること、感じていることがわかるかもしれません。」作者によれば外側に広がるより大きな世界を垣間見ることは、何千何万の人生を生きることになるという。文字どおりの旅に、隠喩としての旅が重なり、<人生もすてたものではない>という希望が湧いてくる──いざ、サラマンカの祖母に倣い、「ホッホウ、ホッホッホウ!」と喜びの叫びをあげよう!
読書人 1996/07/19
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