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たとえそれが建前であれ、すべての人々が私的領域や個我というIDを所有していることを承認しているのが近代社会であるのなら、そこへ迎えられる子どもたちがそうしたIDをうまく獲得できるためのシステムやアイテムやマニュアルを提供することは、迎える側の最低限の礼儀であるだろう。そのために、例えば近代家族はIDを獲得するまでの子ども存在を庇護する機能を有し、学校はそのIDによって社会とアクセスする方法をシミュレートできる機関として成立している(はず)。
子どもへの最も古いマスメディアである児童文学もまた(作者名というIDを掲げているわけだから)この件と無縁ではなく、繰り返し採りあげてきている。成長物語という形で。成長物語は単純かつ楽観的な価値観、「迎える側(大人社会)は素敵であり、君たちはここにたどり着くまで努力をせよ。そうすればIDは自然に手に入ることを我々は保証する」によって支えられている。しかしそうした価値観がリアルさを失いつつあり、それを回復する術も、次の一手もまだ見出せない昨今、児童文学もまたこの件の関して様変わりし始めているようだ。
目も口も耳も取れてなくなってしまっているピンク色の古ぼけたぬいぐるみが屋根裏部屋で見つけられる。娘が欲しがったので母親は、元々は何のぬいぐるみかわからないそれに目と口と耳を作って縫い付けてあげる。夜、子供部屋でそれは、「ぼくは、だれ?」とつぶやき、動物絵本の中から自分に似ていそうな動物をさがす。大きさも色も違うけれど似ていなくもないパンダを見つけ、自らを「ちびパンダ」と名づける。パンダならササを食べなければ。こうして彼は外の世界へと乗りだしていく(『ぼくはちびパンダ』 ハンヌ・マケラ作 坂井玲子訳 徳間書店 1900円+税)。
家族のみんなはにわとりは食べるものだというのだけれど、こぎつねのアーノルドはひよこが好き。おてつだいさん募集の貼り紙をみて、とうとうひよこの子守りとなる。ある夜アーノルドの兄弟がにわとり狩りにやってきて……(『きつねのおてつだい』 ジョージ・アダムス文 セリーナ・ヤング絵 さいとうみちこ訳 徳間書店 1300円+税)。
転校生のルビーは、前の席のアンジェラと仲良くなりたくて、彼女が赤いリボンをしてくれば昼休みに家に帰って赤いリボンをしてくる。花柄の服だと花柄を、手書きのTシャツだと自ら手書きにして。最初は同じだと喜んでいたアンジェラもしだいにうんざりしだし、怒る。先生は「まねばっかしじゃ、つまらないでしょ。ルビーらしくしなくっちゃ」というのだけれど……(『まねっこルビー』 ペギー・ラスマン作 ひがしはるみ訳 徳間書店 1300円+税)。
ヨーの双子の兄弟であるハンネスが一緒に遊んでいるとき事故で死んだ。賢くて優しくて明るいハンネスは誰からも好かれる人気ものだった。「このぼくが死んだほうが、はるかによかったんだ」とヨーは思う。と同時に、ハンネスの兄弟ではなく、自分自身となったことにとまどうヨー。しかも生前ハンネスは言っていた。「ぼくは元気ないい子、明るい子の役をするために、家族にやとわれているのか?」と(『さて、ぼくは?』 モニカ・フェート作 松沢あさか訳 さ・え・ら書房 1300円+税)。
十四世紀の小さな村。冬の暖をとるため堆肥のなかで寝ていたためクソムシとよばれていた身寄りのない少女は、産婆の見習いとなる。ある日少女は、字が読めるアリスという女の子と間違われる。字が読める「アリスという名前の女の子なら、みんなに好かれるかもしれない」と考えた少女はそれからアリスと名乗り始める(『アリスの見習い物語』 カレン・クシュマン作 柳井薫訳 あすなろ書房 1300円+税)。
これらは、成長物語の楽観性、大人社会が提供する成長マニュアルに従えばIDは手に入る、に依拠しておらず、子どもは自らのアクションでそれを獲得する(しかない)のであるという場所から物語を生成している。成長ではなく獲得のほうが物語の前面にある。IDを与えられない、または喪失したと感じて、行き惑っている子どもたちが増えている現在とこれらの物語はシンクロする。
成長物語は終焉をむかえようとしているということだろうか。

読書人 18/07/97
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    

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