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 響は有名私立中学の一年生。学校から帰ってきて、玄関のドアを開けると見たことのないハイヒール。きっとまた母親の友達だ。シカトして部屋に入り、勉強にとりかかる。両親には内緒だけれど、小学校の優等生も今度の中学ではついていけてないのだ。夕方母親がいう。あのハイヒールの主は彼女の友達ではなく、七年前家出した、響の兄だと。兄は女になって帰ってきたのだ。
 「超・ハーモニー」魚住直子作講談社1300+税)はこうして始まる。もちろんこの設定は、以前紹介した「両手のなかの海」(西田俊也作徳間書店 1300+税)に、主人公が中学生と高校生、女になって帰ってくるのが兄と父親という違いはありながらも、酷似している。主人公が受験校にやっとの思いで入り、しかし成績がおぼつかないことや、玄関で見知らぬハイヒールを発見する段取りも同じ。だからといってこれは盗作ではないだろう。わずか四ヶ月のズレで出版されたのやから、「両手のなかの海」が出されたころ、すでに「超・ハーモニー」は書き終えられていたと思われる。
 とすれば、こういうことになる。二人の書き手が、この国の現在の出口なし状態の子どもにメッセージを伝えようと、その方法を模索していたとき、見つけた素材がジェンダーだった。
 これは単なる偶然やろうか?どちらもが、「息子」の物語であり、形こそ違え、「父の死」を語っていることは。
 例えば欧米の物語で出口なしの子どもが救助されるための素材としてよくあるのは、超常現象。オカルトやファンタジーである。子どもたちはそれによっていったん現実世界から切り離され、ヒーリングから諭しまで様々な試みに浸されることで、ある種の冷静さを得て、現実世界で抱えていた問題の立ち向かっていくわけやね。
 それが、この国の二つの物語ではオカルトやファンタジーでなく、ジェンダー。何故なのかは、今はまだ私にはわからないけれど、この辺りはチェックしておきたい。
 今月読んだ物語の中で最もパワーがあったのは、サイレントビート」(泉啓子作/ポプラ社1500+税)。活字もびっしり詰まって五百六十六ページの大作。表紙絵は、建石修志で、さすがにいい。この国の児童書の表紙はひどいものが多すぎるので、こうした当たり前にちゃんと仕事をしたのを見ると、ホッとするんやね。
 この物語が扱う素材の主なものは「いじめ」と「家族問題」。「全寮制の中学、高校に、教員として勤め」た経験をベースに、寮に暮らす中学生群像が描かれている。語りの視点や時制は、まるでクラブのDJの技のように短時間にめまぐるしく変化するけれど、読んでいて混乱することがなかったのは、この物語の書き手がこの物語を把握する努力を惜しんでいないということ。
 ここに描かれてる「子ども状況」は間違いなくビビットで、これまでのこの国の児童文学を見渡したとき、これほど「今」を描こうとしたものはあまりないだろうと思いつつ、にもかかわらず、私が気にかかったのは、ここに描かれているのは、あくまで「寮生活」だということ。つまり寮のみならず、あらゆる場所に浸透している「問題」が、この物語を読むと「寮」だから起きている問題素と思えてしまう。
 もちろんそうではないし、この書き手ならそれは分かっているはず。「外の世界から遮断され、一般社会と無関係に存在していたはずの寮の生活が、その実、鮮明に社会の実相を映し出している」(あとがき)としても、それが一般社会とつながっていることに、もう少し筆を割くことはできなかっただろうか?惜しい。

読書人 1997/09/97
           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
     

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