98/02


           
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
         
    
 『本に願いを・アメリカ児童図書週間ポスターに見る七五年史』(レナード・S・マーカス著遠藤育枝訳BL出版 3500円 )は、一九一九年にアメリカで始まった、児童図書週間のポスターを、一枚一枚に解説を付けまとめ上げた書物。
 キーツ、センダック、アンゲラーなど著名な絵本作家が、ポスターなる広告媒体でどんな表現をするのかを見ているだけでも楽しい。
 イベントの性格上、構成は子どもが本を読んでいるという似たパターンが多いので、七五年という長い歳月に子どもと本を巡って、大人の考えがどう変化したかを、ある程度確認できる。絵の中の子どもたちの表情は、時代がこちらに近づくにつれて、しかつめらしいそれから、笑顔になっていく。学ぶ読書から楽しむ読書へ、やね。
 そうした変化は大人が子どもの自由度を高めるようになったからだけではなく、「消費型経済が(略)進行する真っ只中で(略)娯楽や軽薄なものに対する不信感は徐々に消えようとしていた」(同書レナード・S・マーカス)といったことにも原因があるのは見逃さないほうがいいだろう。
 大人とともに、子どももまた、消費者であることに価値が見出されていくのだ。大人社会が消費する子どもを求めていく様は、私たちの国でたっぷりと観察できるだろう。こうした、子ども観の変化とは、大人が欲する子ども像の変化である。大人社会のサバイバーである子どもたちは、普段大人の前ではこの子ども像に従ってみせることが多い。それが「子どもというお仕事」なのやから。
 子どもは大人が考える以上に、いや大人以上に二つの「自分」(「大人が欲する」それと「自身が実感する」それ)を持っていることがある。
  ジニー・テイラーは一三歳の女の子。家族は兄弟六人と、父母、伯父夫妻って大家族(『赤い鳥を追って』シャロン・クリーチ作もきかずこ訳講談社1600円)。その中で兄弟姉妹の真ん中にいる彼女は目立たない。ジニーによれば、「わたしが無口なのは(略)ごく単純な理由―わたしのいいたいことのほとんどは、すでにだれかが口にしていることだからだ」となる。そんなジニーは両親よりむしろ、伯父夫婦になついている。が、伯父夫婦がジニーを可愛がるのは、幼くして亡くした、ジニーと同い年のローズの代わりになのを、ジニーは知っている。それでも、例えばBFにその存在を認められればなんとかなるのやけれど、これまで彼女に近づいてきた男の子たちはみんな、長女のメイがお目当てで、「わたしは本命を射止めるまでのだしに使われただけなのだ」。幼なじみのジェイクが現れる。彼はジニーに何かと語りかけ、プレゼントもくれるのだが、「本命を射止めるまでのだし」であるかもしれず…。「母でさえ、ジェイクのお目当てはメイだと思っているのだ」から。
 ここから物語は、ジニーがいかにして、自分像を構築していくかを描いていくのだが、それが、家族とも、BFともかかわりないことによってなのが、おもしろい。ジニーは、先住民が昔使っていた道、トレイルを掘り起こし再生することにそれを求めるのやね。この選択は正しい。「わたしはちがう自分を知ってほしかったのだと思う」とはジニーの弁である。
 ジニーがこうした行動で自分像を構築することを、「成長」などという言葉で回収してしまってはつまらない。
 養子である自分を産んだ母親を探す旅に出るジェームズ(『アンモナイトの谷』バーリー・ドハティ作中川千尋訳新潮社1500円)と、いつも十ヶ月違いの妹雪と双子に見られてしまう花野夏(『アルマジロのしっぽ』岩瀬成子作理論社1300円)にも、ぜひ会って欲しい。(ひこ・田中
読書人 1998/02/15