子どもの文学この一年 翻訳
 翻訳する価値のある本を

西村醇子

           
         
         
         
         
         
         
    
 

 一九九四年に出版された翻訳児童文学の総点数はわからないが、わたしが読んだのはかれこれ五〇冊ほど。表1はそれを出版社と頁数(原稿用紙枚数に換算)で並べた分布図。表2は言語と年代別の棒グラフである。まず原著の出版国をみると圧倒的に英語圏が多かった。うちカナダとニュージーランドが一冊ずつ。そのほかドイツが五冊、スウェーデンが二冊、スイス二冊だった。わたしは英語の翻訳をやっている身だが、異文化の窓口という翻訳の機能を考えると、もう少しバラエティが欲しいかなと思う。もっとも、出版の意志があっても適当な本がみつからなければそれまでなのだが。
 次に原著出版年。一番多かったのは九〇年以降に出版された本で二一冊(うち九三年が四冊)、八〇年代後半が一八冊だった。原著の出版後、比較的早い時期に日本で紹介される本が多いことがわかる。別の角度からみれば新刊本にはみなが目を光らせているのが現状。もっとも訳者などの都合で出版が延びるのはよくあること(!)、出版までの早さで評価するつもりはない。〈*以下( )内に表示した数字はすべて原著出版年〉
 ほかに目立ったのは、海外で児童文学として評価されていた本が、国内ではおとなを意識した装丁で出版されていたことである。昨年に限れば新潮社の『ディア ノーバディ』(バーリー・ドハティ作、中川千尋訳、91)『ふたりのゾーイ』(パム・コンラッド作、山本やよい訳、90)など。一方ベネッセ(旧・福武書店)の『ケイティの夏』(エリザベス・バーグ作、島田絵海訳、93)は一二歳の少女の視点から世界を描ききった秀作で、凡庸な「児童文学」がかすんでしまう。アメリカでも一般書だったという事情があるのかもしれないが、ティーンエイジャーの〈触手〉を拒むような淡泊な装丁が惜しまれる。
 本作りではもうひとつ気になったのが『オオカミのようにやさしく』(ジリアン・クロス作、青海恵子訳、岩波書店、90)の、のっぺりした紙面構成である。手元にあるペーパーバックの原書をみるとイタリック体を多用し、「お話」部分では四字下げた引用スタイルで浮き立たせていた。訳書ではそれらの区別が消えている。カーネギーを受賞したこの作品は複雑で高度な内容だけに、視覚的な工夫が望ましかった。エンデの『はてしない物語』では活字の色を変えていたのに、岩波書店はなぜ今回は手を抜いた(?)のだろう。なお原書のこうしたスタイルを再現していたのが『ノウサギの選択』(デニス・ハムリー作、宮下嶺夫訳、評論社、88)。ノウサギの死骸をみつけた子どもたちがノウサギを英雄とする架空のお話を作る。そのお話が作られるまでの過程(イ)と、語り手が交代して語り継がれるお話そのもの(ロ)、さらに死後のノウサギの意識(ハ)という三層を、字体を変えたり一字下げを導入することで読者の識別を助けていた。ハムリーはイギリスでこのスタイルの本をすでに三冊出版している。構成が複雑でも案外読まれているのかもしれない。

 次に、もう少し内容に踏み込んで眺めてみたい。前述のように、新刊が次々に翻訳されているなかで古い本が出てくるからには、それなりの「セールスポイント」を期待したくなる。さてナタリー・バビットの場合は? 代表作『時をさまようタック』(75)の紹介も八九年と遅かったが、『ニーノック・ライズ』(田中まや訳、評論社)と『悪魔の物語』(小旗英次訳、評論社)は、原書が七〇年と七四年。評伝『ナタリー・バビッド』(マイケル・レヴィ著、未訳、91)では、バビットは六〇年代後半から七〇年代初めのアメリカで主流となったニュー・リアリズムとヒロイック・ファンタジーのどちらでもない〈中間地帯〉の作家として評価されている。つまり神話に頼らない独自の舞台を使い、行動よりも背景・ユーモア・人物像・モラルなどに力点を置いた牧歌ファンタジーだという。だが牧歌的なファンタジーでは『ニーノック・ライズ』よりは、L・ボストンやP・ライブリーの作品のほうが優れていることは否めない。そこでバビットならではの作品というと、悪魔という日本にはないキャラクター(?)を使い、ひとひねりもふたひねりもした短篇から構成されていることだろう。これぞ『悪魔の物語』で、読者は悪魔にほだされ、善悪の判断が揺らぐかもしれない、というおまけつきである。
 えっ、これが七〇年代の作品と驚いたのが『顔のない男』(イザベル・ホランド作、片岡しのぶ訳、冨山房、72)である。異父姉妹をもつ複雑な家庭に育った少年が、いわくありげな元教師に個人指導を受け、彼の過去を知る。主人公の環境といい、途中で明らかになる同性愛というトピックといい、問題小説の道具立てに事欠かない。ただし登場人物がくっきりしていて、〈主題〉のために人物が動かされている印象はない。登場人物が魅力的だという点では、カミングアウト(同性愛者であることを公にすること)した兄のことや自分に自信がもてないことで悩む少年を主人公とるすバーバラ・ワースバの『クレージー・バニラ』(斉藤健一訳、徳間書店、86)も同じだが、両者を並べたときホランドはちっとも古さを感じさせない。
 出版年の古さでは『銀の枝』(ローズマリ・サトクリフ作、猪熊葉子訳、岩波書店、57)が群を抜いていた。『第九軍団のワシ』、『銀の枝』、『ともしびをかかげて』はローマ・ブリテン三部作として有名。一冊ずつ独立した物語とはいえ、三部作が揃うのを待っていた読者も多かったのでは? わたしは待ちきれずに原書を読んだ口だが、学生時代に感激したサトクリフの三部作が、ようやく揃い踏みしたことに感慨を覚えた。作品の出来はさすがに前後二作には及ばないが、正規の軍人・軍医だったふたりの若者が、ゲリラに身を投じる意外性もあり、サスペンスも楽しめる。三部作の中間に位置し、時期的にもローマ滅亡へ向かう途中の物語。だが歴史とは、つねにどこかへ向かう途中であろう。

 ここからは新しい動向について。まず原作とは別の作家による「続編」の出現をあげたい。これはブームというほどの大きな流れではないが、近年目立つ気がする。英米の文学界で真っ先に思い浮かぶのが『風と共に去りぬ』(マーガレット・ミッチェル作、36)の『スカーレット』(A・リプリー作、91)だが、ほかにもある。デュ・モーリア『レベッカ』(38)の続編はスーザン・ヒルの『ド・ウィンター夫人』(93、未訳)だし、ジェーン・オースティンの『高慢と偏見』をエマ・テナントが『ペンバリー』(93、未訳)で、同じく『分別と多感』の続きをジョーン・エイキンが『エリザの娘』(94、未訳)で書いている。どれも作家が長年親しんできた愛読書の続きを書いたものではないかと思う。
 昨年翻訳された児童文学二冊にも、同じことがあてはまると思う。ケネス・グレーアム『たのしい川べ』(08)の続編『川べにこがらし』(ウィリアム・ホーウッド作、岡本浜江訳、講談社、93)と、ローラ・インガルス・ワイルダーの大草原シリーズの続き、『ロッキーリッジの小さな家』(ロジャー・リー・マクブライド作、谷口由美子訳、講談社、93)がそれである。ホーウッドは自分でも『ダンクトンの森』という動物物語を執筆しているだけに、動物を描くお手並みは確か。『たのしい川べ』でおなじみのモグラやヒキガエルなどを再登場させ、前作と〈対〉になるように事件が展開する。原作のイメージを損なっていないので好感がもてる。
 一方、大草原シリーズの続きには新鮮さがある。ローラの娘ローズを新たな主人公とし、その成長を追っているからだ。作者はローズの養子だったそうで、ワイルダー一家の背景に関しては熟知している。その知識に加え、ローズの視点からローラやその両親たちを捉え直した着想のよさも物語を引き立てている。昨年『大草原のローラ』(ウィリアム・アンダーソン著、谷口由美子訳、講談社、92)という伝記も出たので、マクブライドが物語化した時期についても読み比べたが、物語化されたほうがはるかに面白い。ただ年表や地図を参照できるので、この伝記を傍らに置いて読むのも一興であろう。
 さて、近年の傾向として注目されるのは、やや高い年齢層を対象にした作品における種々の「実験」ではないだろうか。九三年の翻訳本でもポールセン『さまざまな出発』に〈モンタージュ的手法〉(複数の物語を断片にし、並べてあった)が使われていたし、コーミアの『フェイド』にはさらに入り組んだ〈小説内小説〉の構造があった。九四年刊では先に名前をあげた『オオカミのようにやさしく』と『ノウサギの選択』のほか、前年も『わたしが幽霊だった時』で楽しませてくれたダイアナ・ウィン・ジョーンズの『九年目の魔法』(浅羽莢子訳、創元推理文庫、84)の時間軸をずらして語る手法を挙げておきたい。また伝統的な書簡体を使った小説では『ディア ノーバディ』が洗練されている。
 内容で注目すべきものといえばピーター・ディッキンソンの『エヴァが目ざめるとき』(唐沢則幸訳、徳間書店、88)だろう。ディッキンソンは児童書では大変動三部作(68、69、70、訳されたのは二冊)以降『青い鷹』(76)しか紹介されず、もはや過去の作家だと思っていた人もいるかもしれない。しかし推理小説のみならず児童文学も次々に発表している。『トゥルク』(76、未訳)はホイットブレッド賞を、また今回訳された『エヴァ』はボストン・グローブ・ホーンブック賞を受賞。霊長類を登場させ、人間性について、あるいは人類の未来について問いかけるこの作品は、SFが大局的な視野をもつこと、それゆえ我々の社会について客観的に見直す有効な手段たりえることを存分に味合わせるものといえよう。ちなみに批評家のエリナー・キャメロンは、ディッキンソンの意図と読者の読みのずれに言及しながら、この本は幅広い年齢層に向く刺激的な物語だとして高く評価している(「ホーンブック」九四年五月号参照)。
 ロイド・アリグザンダーの場合、近作の出版にはいささか意表をつかれた。アリグザンダーといえば六〇年代の「プリデイン」シリーズがあまりに有名で、『トールキン案内書』(76、未訳)には厚さで負けるが、二五〇頁もある立派な事典『プリデイン案内書』(89、未訳)が書かれているほど。逆にこのシリーズの評判が高すぎ、それ以降作品のスタイルを変えるたびに悪評をかっていたらしい。もっとも八〇年代前半に出た「ウェストマーク」という架空の国を舞台にした三部作の歴史小説では、一作目で全米図書賞を受賞している。その後に書かれたのがヴェスパーという一六歳の少女を主人公とした五部作のシリーズで、翻訳されたのは『イリリアの冒険』と『エルドラドの冒険』(共に宮下嶺夫訳、評論社、86、87)の二冊。
 評伝『ロイド・アリグザンダー』(91、未訳)の著者ジル・メイによると、このシリーズはおとなには評判が悪く、子どもに人気がある本の典型的な例らしい。おとなに不評なのは「そもそもミステリーがまともな批評の対象となっていないから」であり、ニューヨーク・タイムズの書評に代表されるように「たやすく予測できて陳腐」に見えるからだという。しかしメイは、アリグザンダーが子どもが結末を予測することを期待し、型どおりの人物と筋を使っていると指摘する。そしてディケンズの小説やコナン・ドイルのミステリーのように、子どもたちの新しい原型となることを狙っていると評価している。
 ヴェスパーは探偵ナンシー・ドルーをもっと活発にしたような感じで、一九世紀の女性のあり方を大きく逸脱している。またアリグザンダーはヴェスパーの目を通して、一九世紀に白人が南米でおこなった侵略と植民地支配をあばいてもいる。その意味では興味深いシリーズだが、ホームズにおけるワトソン博士にあたるギャレット教授を配したことには不満がある。ミステリーの愛読者としては人後におちないつもりだけに、ヴェスパーに推理できることが知的なおとなのギャレット教授にできないとされると、納得できない。また彼が保護者として冒険に同行するため、肝心のときに男性に頼る女の子という顔が出るのも物足りない。アメリカではペーパーバックがよく売れ、全米図書賞も受賞したというが、日本ではこの「女性版インディ・ジョーンズ」は子どもの心をつかむのだろうか?

 以下は駆け足で。異なる文化と価値観を感じさせる本としては、一五世紀のバハマ諸島を舞台とし、そこに住む姉と弟が交互に語る『朝の少女』(マイケル・ドリス作、灰谷健次郎訳、新潮社、92)が出色。ウルフ・スタルク『シロクマたちのダンス』(菱木晃子訳、佑学社、86)は映画化されているスウェーデンの人気作。戦争や政治に関してはロバート・ウェストールの『海辺の王国』(坂崎麻子訳、徳間書店、90)と『セリョージャ、放浪のロシア』(ハンス=ユルゲン・ペライ作、酒寄進一訳、佑学社、91)が正統的な物語。寓話的な『壁の向こうのフリーデリケ』(ガブリエレ・ゲーベル著、酒寄進一訳、国土社、86)もおもしろい。K・ペイトンの『運命の馬ダークリング』(掛川恭子訳、岩波書店、89)や歴史小説の『ワーキング・ガール』(キャサリン・パターソン作、岡本浜江訳、偕成社、91)にはそれぞれ気骨のある少女が登場する。どちらかというと繊細な世界が好み、という向きには『ふたりのゾーイ』のほか、『エルフたちの午後』(ジャネット・テーラー・ライル作、宮下嶺夫訳、評論社、89)がお勧め。ポールセンの『ひとりぼっちの不時着』(くもん出版、87)は拙訳で恐縮だが面白い冒険小説なのでご一読を。低学年向きで思い出せるのは『おじいちゃんは荷車にのって』(グードルン・パウゼバンク作、、遠山明子訳、徳間書店、88)と『おじいちゃんのカメラ』(パトリシア・マクラクラン作、掛川恭子訳、偕成社91)ぐらい。見落としがあればご容赦を。
「日本児童文学」1995.07
テキストファイル化飯村暢子