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児童文学で”不思議”を描くというと即ファンタジーということになりそうなのだが、最近は現実から異世界に入り込んで再び現実世界に戻るといった型通りのファンタジーから、現実と不思議空間とが境目なく同居している感じの、言えばニューファンタジーとでも呼びたい作品が目につく。 「見えない絵本」は、作者が絵本作家の長谷川集平だけにタイトルが意味深長に見える。本の扉に「ぼくのおじさん裏山桐朗の思い出に」とあり、僕はこの作者が映画監督の故裏山桐朗のおいであることを初めて知った。 作品は作者自身が少年時代の回想という形をとり、裏山氏も桐一おじさんとして登場する。物語の始まりは、少年がお盆に母の故郷長崎を訪れ、そこでぺ−ロン(中国式ボートレース)や鐘楼流しなど、もっとも長崎風な行事に出会う。これらに強烈な印象を受けた少年は、さらに歴史資料館でキリシタン弾圧のことを知り、ここに母方の一族の歴史が重なってくる。そして恐らくそれらが下敷きとなって、少年は海辺で極めて神秘的な体験をし、一時的に失明するのである。 ここまでが物語の前半で、後半では東京に帰った少年を桐一おじが訪れ、何日がかりで一冊の絵本を語って聞かせる。目の見えない相手だから、絵についてこと細かに説明しなければならない。これがさすがに分かりやすく、生き生きと伝わってくる。そして少年はこの物語を受け取る中で、自分の体験を見詰め、いやされていく。 最後、再び見えるようになった少年が、桐一おじが残していったはずの絵本を探すと、それは旧訳聖書の民教記だったというところで僕らはあぜんとさせられ、同時にあの”絵本”を自身の心の中にしかないものとして痛切に思い返すのだ。 一作ごとに問題を投げ掛ける英国の作家ウィリアム・メインの「山をこえて昔の国へ」は、一種のタイムスリップを扱っているが、そうしたパターンでは到底説明しきれない不思議さ、深さを備えている。ここではイングランドの古代の少年少女と現代の少年少女の時間が、古代の少女の持つ赤い石の不思議な力(そのために彼女は魔女ともよばれるのだが)によって交錯し、入れ替わるのだが、彼らにとってその体験は極めて特異なものでありながら、一面では日常の続きである。 人間は何かによって運命づけられているものでもあるが、同時に自身のありようを決定しながら生きていくものでもある、というふうに僕はこの作品のメッセージを受け取った。 「人間だって空を飛べる」は、アメリカ児童文学界で黒人作家の旗手的な存在といえるV・ハミルトン編のアメリカ黒人民話集。アフリカ民話がルーツの話、米国で生まれた話などさまざまだが、奴隷として生きなければならなかった人々の屈折した思いや願いがそこには色濃く反映している。しかしかといって決して暗いのではなく、豊かなユーモアや機知に彩られていて、民話というもののエッセンスに触れる思いがする。 「ぼくんちおばけやしき」(木暮正夫)は、初めの留守番の夜、いろんなおばけたちが現れる話、おばけたちの身近さと、主人公のおばけへの対し方が楽しい。 どの作品も、不思議を生み出すしかけよりも、もっと内的なもので訴える。人間の心そのものがもっとも不思議ということだろうか。 (藤田 のぼる) 「本のリスト」 見えない絵本(長谷川集平:作 太田大八:画 ) やまをこえて昔の国へ(ウィリアム・メイン:作) 人間だって空を飛べるーアメリカ黒人民話集ー(ヴァ−ジニア・ハミルトン語り・編 ディロン夫妻:画 福音館書店) ぼくんちおばけやしき(木暮正夫:作 渡辺有一:画ポプラ社)
テキストファイル化戸川明代
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