2 ある可能性
大正十五年六月、『無産者新聞』に「コドモのせかい」欄もうけられる。執筆者・久板栄二郎・鹿地亘など。
昭和二年六月、『文芸戦線』に「小さい同志」欄できる。
昭和三年一月、『前衛』創刊、「コドモページ」欄もうけられる。執筆者・槇本楠郎・石田茂など。
昭和四年五月、『戦旗』付録として、『少年戦旗』創刊され、同年十月、独立の雑誌となる。
以上の簡単な年表でもわかるように、プロレタリア児童文学運動が今日にのこる作品を生み出さなかったことは、ほとんど定説化している。その理由について国分一太郎は次のように言う。「この原因は、おとなのプロレタリア文学運動を支配した政治的公式主義や、創造上の図式主義と、けっして無関係ではないであろう。しかし児童文学の場合には、さらに児童文学の本質にそむくような独自な要因が加わったことも考えてみなければならないだろう(注1)」。
つまり児童文学の場合、二重のあやまりが重なっていたと国分は言う。この二重ということは重要なことである。ぼくはさきに児童文学の動きはおとなのための文学の動きとはかならずしもパラレルではないと言ったが、児童文学はつねに二重の課題をせおっていた。
おとなの文学との関係は別にしても、政治・社会の動きは児童文学者も社会の中に生きているかぎり、自身の問題とせざるをえない。童話、児童文学は政治・社会と無縁だと思いこまれがちだが、その理由の一つは大正期童心主義のイメージがのこっているからである。北原白秋、西条八十による童謡の達成、また文壇作家である宇野浩二、豊島与志雄などの童話、さらに浜田広介の情緒的童話、こうしたものによって童話に対するイメージがつくられた。昭和児童文学はその童心主義に対するアンチテーゼとして出発し、その歩みをたどっていくとき、社会に対する批判を軸にして児童文学は展開したのではないかと思われるほど、社会の矛盾を問題にした作家作品は多い。
一方に社会矛盾という課題があり、一方に児童文学そのものを高めていくという課題がある。これは現在にもひきつづいている課題である。
ところで、国分はこの児童文学独自の要因を二つあげ、その一つを「当時のソヴエト教育における左翼日和見主義の反映」とする。文学の問題に教育を持ちだすことにめんくらう人がいるかもしれないが、児童文学はときとしては、おとなの文学の動きよりも教育の動きの方に密接な関係を持っているものである。
国分は第二の要因として「近代日本の児童文学者たちが、明治の終、大正のはじめ以来持ちつづけているある種の児童文学観念」すなわち「ある種の流行思潮、自己の見解などを<自己表現>という形で、児童文学の創造にそのまま持ちこむ傾向」をあげる。
この意見のうち「明治の終、大正のはじめ以来」と国分が言っているのはどうかと思う。さきに見たように大正の末、児童文学はやっと出発したばかりである。まだ「国語の単純化による新しい児童的表現」、つまり児童文学の文体は獲得されていないし、何をどのように書けば児童文学になるか、ということはまったく手さぐりの状態でいるところだ。
そこへプロレタリア文学運動がかぶさってきた。ことばはきたえられないまま「教化」の道具として用いられたのである。プロレタリア児童文学運動の指導者槇本楠郎によれば、童話・童謡は「階級的教化用具(注2)」であった。
そこで国分の言う「ある種の児童文学観念」を検討してみよう。国分はその代表者として未明をあげるが、未明の童話観は国分のいうところとはいくらかちがっている。
大正十五年未明は「事実と感想」を『早稲田文学』に「今後を童話作家に」を『東京日々新聞』に発表し、いままで自分は小説と童話とを書きわけてきたが、未明選集六巻の完了を機会に童話に専念することを述べた。この未明のいわゆる童話宣言は、未明が今後、子どものための文学を書くといったように錯覚されがちである。しかし、けっしてそうではなかった。
「私の書いて来た童話は、即ち従来の童話や世俗のいう童話とは多少異なった立場にいるといえます。むしろおとなに読んでもらった方がかえって意の存するところが分ると思いますが、あくまで童心の上にたち、即ち大人の見る世界ならざる空想の世界に成長すべき童話たるがゆえに、いわゆる小説ではなく、やはり童話といわれるべきものでありましょう。」(「今後を童話作家に」)
未明自身、自分の童話はおとなに読んでもらった方がよくわかると言っているのである。大正末年、抒情的な作品『天に昇った蛍』を発表した酒井朝彦は、その同人雑誌『童話文学』の創刊号に次のように書いた。「童話を単に児童対照の読みものであると極限せず、広く人類一般への読みものであると解釈するのは妥当である。私も亦、童話文学はひとり児童のみの専有する芸術であるとは思わない」(昭和三年)。
未明の周囲にいる人びとは童話をそのように考えていた。童話は芸術の一型式なのであり、かならずしも子どものものではなかった。これが国分の言う「ある種の児童文学観念」である。しかし、童話が人類一般の読みものであるなら、そこにおとなの考えや感情を盛りこむことは当然であり、問題はむしろ、この童話観が精算されないまま、のちのちまで生きつづけたことである。
昭和初年、こうして一方には階級的教化用具としての童話があり、一方にはネオ・ロマンチシズム文学の一様式としての童話があった。これはコミュニストとアナーキストの対立でもあった。
*
この時期昭和二年から四年にかけて、アルス社から「日本児童文庫」七十冊、文芸春秋社・興文社合同で「小学生全集」八十六冊が刊行されたことは、児童文学にまた別の影響を与えた。『赤い鳥』に刺激されて出てきた児童雑誌はもう大正末ごろから姿を消しはじめていたが、この安いねだん(日本児童文庫五〇銭、小学生全集三五銭)の全集刊行によって、「値段の割りだかな児童向けの単行本の出版が不振をきわめるようになった(注3)」(菅忠道)のであり、『赤い鳥』も昭和四年休刊することになる。創造の場所はうばわれたのである。
これに似た現象は戦後にもまたおとずれる。『赤い鳥』的児童雑誌廃刊の原因は、全集によるものではなく、むしろ大衆的な児童雑誌の攻勢によるものだが、戦後にも同様、いわゆる良心的児童雑誌は「俗悪」といわれる雑誌類のために市場から追われたのであった。児童文学はつねに出版界に簡単に動かされているのであって、ここにも児童文学史の特殊性を見ることができる。児童文学史は出版の歴史とわかちがたくむすびついているのである。
このことは日本児童文学の弱さをあらわすわけだが、この「日本児童文庫」「小学生全集」刊行以後、のちに述べる講談社の『少年倶楽部』の躍進時代は童話作家にとっては冬の季節であり、「童話・童謡の中堅作家ら新人および志望者までを含めて、発表の主要な場は同人雑誌になっていた(注4)」(菅忠道)のである。
前記『童話文学』もその一つだが、その同人のひとりに千葉省三がいた。千葉は大正期の雑誌『童話』の編集者で、大正十四年同誌に『虎ちゃんの日記』を書いた。
この作品は戦後になってリアリズム童話の傑作(注5)といわれるようになるが、当時の評価はそれほど高くなかったらしい。この作品で村の子どもが山野をぴちぴちと、はねまわる姿をとらえた千葉は『童話文学』創刊号には、同系列の『鷹に巣とり』を発表する。『鷹の巣とり』は次のようにはじまった。
「ダイシャクボウのぼたん杉に、たかが巣をかけたそうだ。『おめえ見たけ』と、仙ちゃんに聞くと、『見たとも、おら、草かりのけえりに見た』という。そばにいる小さい助治まで『おらも見た、でっかい鳥だぞ。こう、羽をひろげて、西山からダイシャクボウのほうさ、ぐーんとのしてたっけ』なんていう」。
そこで、みんなでたかの巣とりに出かけ、三ちゃんがぼたん杉から下に落ちた。三ちゃんは何もけがしなかったのだが、その帰り、みんながだいじにするものだから、すっかりあまえてしまう。喜作に「三ちゃんおめえ、うちがどっちにあるかわかるけ。いってみな」と聞かれた三ちゃんはうちの方をむいていたのに、くるりとうしろをむき、とてもあまったれた声で「あっちー」といったのだ。みんなはわっと笑いだし、その後「あっちー」は子どもたちのはやりことばになった。『鷹の巣とり』はこうした作品で、鷹の巣があると思いこんだ子どもの喜びと行動が、そして自分自身いっしょうけんめいでありながらユーモアにみちている子どもの姿が、子どもの感情を通してとらえられた。
ここではっきりさせておきたいのは、子どもの姿をどのようにいきいきととらえようと、それが子どもの立場から表現されていないものは児童文学ではない、ということである。たとえば、『次郎物語』(下村湖人・昭和十一年)や『路傍の石』(山本有三・昭和十三年)には少年の成長の姿がくわしく書かれているが、これらの作品はけっして児童文学ではない。
そして、子どもの立場からの表現は、その文体を抜きにしては考えられない。『鷹の巣とり』の書きだしは、鷹の巣があるということだけで心おどらせ、話しているうちにその興奮が高まっていく子どもたちの姿が出ているが、その一行ごとの高まりは子どもたちの生活感情と心理への絶対的共感によって生まれてくるものなのである。
それとは逆におとなが主人公となっていても児童文学である、というのも多い。たとえば戦後の『ビルマの竪琴』(竹山道雄)、戦中の『風と花びら』(平塚武二)など。
日本児童文学は千葉省三によって新しい「児童的表現」−−文体を手に入れる一歩手前にさしかかっていた。おとなから見ればたいしたことではない「鷹の巣とり」に全身的な喜びを感じる、子どもという人間を発見しかかっていた。
だが、その翌年、千葉は私小説風な『乗合馬車』を発表する。少年時代の思い出につながるもので、さむざむとした日光連山とその下の荒れた野原を行く乗合馬車の思い出であった。それにはそれで孤独な少年の姿が書かれていたのだが、『虎ちゃんの日記』『鷹の巣とり』さらには幼年童話『ワンワンものがたり』にあった可能性はついに実を結ばなかった。
戦後、石井桃子や鳥越信、さらにぼく自身や、その他の人びとによって千葉のこの村童童話の系列は再評価されるが、そのうち山本和夫の意見をここに記しておこう。
芥川龍之介や有島武郎には、童話の傑作はのこっています。けれど、てっとり早くいえば、子どもに読ませるおとなの文学の系譜だといってよいでしょう。森鴎外にも有名な『山椒太夫』があります。あれも、やはりそうです。小泉八雲の怪談、小川未明の童話、浜田広介の幼年童話、これらも私たちにとっては宝石です。けれど、やはり、これも子どもに読ませるために書いた、おとなの文学の世界のものです。けれど、千葉省三の文学は、それとは質を異にしています。醇乎とした子どもの文学です。(注6)
さらに山本はいう。
千葉省三は、文壇的には、あまり幸福ではなかったと、私は思います。先覚者、あるいは開拓者であるにかかわらず、みとめられかたがうすかったと思うのです。それはなぜでしょうか、そのわけの一つは、児童文学の人たちも、おとなの文学の幽霊になやまされており、しかも、その幽霊になやまされなければ、文学はできないと、今までは考えていたからです。千葉文学は、その幽霊を持っていません。(中略)それにしても千葉省三のすぐあとに、後継者がつづかなかったことはざんねんです。そのために、日本の児童文学は、少なくとも、三十年はおくれました。
注1 「プロレタリア児童文学」『新選日本児童文学昭和編』小峰書店
注2 「プロレタリア童謡の活用に関する覚え書」『日本児童文学大系第三巻』三一書房
注3 「昭和期児童文学とその背景」『新選日本児童文学昭和編』右同
注4 同右
注5 「千葉省三論」吉田足日『児童文学概論』牧書店
注6 千葉省三集『新日本少年少女文学全集』月報 ポプラ社
3、昭和十年前後
昭和八年、プロレタリア児童文学運動の同伴者作家であった塚原健二郎は「集団主義童話の提唱(注1)」というエッセイを都新聞に書いた。
その主張の材料となったのはかつてのプロレタリア児童文学運動の指導者槇本楠郎が他のペンネームで教育雑誌に発表した『掃除当番』という作品であった。
「掃除のとき、四年生のぞうきんを五年生が持っていく。四年生の当番たちが五年生の教室におしかけると、五年生は自分たちのぞうきんを六年生にとられたという。四年・五年いっしょになって六年生の教室へ行き、けんかがはじまろうとするが、六年生の当番長がなかにはいって、ぞうきんを返してくれることになる。そこでこんな問題が起きたかということをみんなで考え、これは六年生のぞうきんがボロボロになったからだとわかり、自治会に持ちだして学校から新しいぞうきんを手に入れることにする」。
塚原はこれについてこう言った。「学校内の日常の問題をとらえてそれを児童の自主的な活動によって正しい方向へ発展させていることを注意せねばならぬ。ぞうきんを自治会の問題にして、これを手に入れる方法を全児童の意志で当局から手に入れるという解決は正しい。もしこのぞうきんを各個人が家から持ってくることで解決の道を見出したら、正しい集団的な方向とはいい得なかったであろう」。
塚原にはすでに『子供の会議』という作品があった。復刊『赤い鳥』第一号(昭和六年)にのせたもので、場所は外国の七階だてのアパート、すてごのエレベーターボーイと遊んではいけないといわれたそのアパートの子どもたちがものおきべやで会議をひらき、おとなたちに抗議することを決議する、という作品である。
これを発展させて、子どもたちの日常生活のなかの問題を「社会的関連において」集団による解決をはかること−−これが集団主義童話の提唱であった。
この提唱は今日もまだなお意義を失わない4と、ぼくは思う。戦後の社会批判的少年小説では、その技法のいちじるしい進歩にもかかわらず、問題解決の方法では個人的になり、集団主義童話の提唱よりも後退している面が見られるのである。
しかし、いま『掃除当番』を見なおしてみると、現実感もなく、話の発展もない。そうした作品が当時では問題をなげかける作品であったのだ。だが、それを先行するプロレタリア児童文学の作品にくらべてみれば、すぐれていることもまたたしかであった。
この集団主義童話が生活主義童話、さらに生活童話に変化していく。それは一面では後退、一面では前進であった。後退したのは、ぞうきんを「当局から手に入れる」という「当局」が作品のなかからしだいに消えていったことである。槇本のその後の作品には、ただ集団で討議するという面だけしか出てこなくなる。そうなっていったのは、もう満州事変で戦争に足をふみこんでいた日本の支配層の圧力のためだけであったかどうか。
この「集団主義童話の提唱」は今日まだ意義を持っていると同時に、非常に素朴な理論であった。ここではフィクションと想像力が見失われているのである。「当局」への要求は実はフィクションのなかでしか解決できないことであった。今日の作家なら自治会に出してぞうきんを手に入れよう、という討論の終末からそのあとを書くだろう。校長とのかけひきを、壁新聞による示威を、こうした細部を材料にしてひとつの世界をつくりあげるだろう。
フィクションを考えない「集団主義童話の提唱」は一定の理想的立場による現実、社会生活の模写ということになる。生活童話が自然主義的リアリズムに落ちていく遠因はその出発当時の理論に存在していた、と考えられる。そして、この後退の面は前進の面と微妙にからみあっていた。子どもの生活はしだいにこまかい目で見られていくようになったのである。とにもかくにもリアリズムへの動きが芽生えていた。
昭和十一年坪田譲治は言った。
現在童話に於て小川未明、浜田広介の模倣者は非常に多い。然し私は其模倣者達が、二人の先進をぬいて、彼等以上の境地に登り得るようには考えない。この二人の先進はその傾向としてはもう登りつき得る頂点に達している。極がきわめられているのである。何故ならば、この二先進のもつ作品の秘鑰は、彼等の内心にあるのである。(中略)これに比べれば、北原白秋の傾向からは以後尚多くの作家の生れ出ることが予想される。これは彼の製作の秘鑰が外にあるからである(注2)。
その前年三月、坪田は『お化けの世界』を『改造』に発表し、この年九月からは『風の中の子供』を『朝日新聞』に連載することになる。長い不遇の生活のあと、その作品が世にむかえられるようになった喜びのせいもあったのだろうか、坪田の上記のエッセイは「児童文学の早春」と題されていた。
生活童話の頂点は槇本と共にプロレタリア児童文学運動にくわわっていた川崎大治の作品であった。その作品『百合根っこ』(のち『夕焼けの雲の下』と改題、改作される。昭和十三年)には地主の子と、それに対する小作人の子とボロ買いの子の姿を実にいきいきと書いたものであった。
しかし、川崎の作品、ひいては生活童話の弱さは社会への抗議が全面に出るため、主人公たちが子どもでなければならず、その作品が児童文学でなければならぬ必要が作品のなかで証明されていない点である。
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読者である子どものがわから限定される児童文学にははいりこんでいくには、作者の内部にそれを選ばせる必然的なものがかくされているはずなので、作者の立場に立てばその追求が児童文学なのである。そこをはっきりととらえたのが坪田譲治であり、リアリズム作品の代表は坪田の善太三平物であった。
そのもっともすぐれた作品はおそらく『魔法』(昭和十一年)であろう。静かに日の照る庭のケシの花の前で魔法を使っている善太と三平の姿は、子どもだけが持っている微妙な想像の世界で遊んでいる子どもの姿であった。そして、その想像の世界は暗黒の世界とつながっていて、一歩足をふみはずすと子どもは闇のなかに転落する。子どもの想像の世界はいいしれぬ恐怖の世界でもあり、身体的にも子どもは弱くもろく、それを自身が知らないために、おとなのかなしみをさそう存在ともなる。
不安はすでに子どものうちにあり、生活の不安に追われた父親が遊びに夢中になっている子どもを見るとき、その姿はいっそういじらしい。不安と愛情とを軸として坪田の童話は成立した。作中の子どもをつねに坪田は複眼で見守っている。子どもたちに同化する子どもの眼と、子どもを外界から守ろうとする父親の眼である。この二つの立場の調和した世界が坪田童話の世界である。
そして、千葉省三にはこの父親の眼はなかった。戦後千葉をみとめたグループのひとりである瀬田貞二は坪田についてこう言った。「譲治は大人のための作家であったと思いますが、子どものためには、自選集中『ペルーの話』『犬と友だち』『お馬』以外はふさわしいとは思われません(注3)」。その理由の一つとして瀬田は坪田童話が「暗い不安」にみちていることをあげる。しかし、不安がなければ坪田童話は成立しなかった。もしも児童文学が成長していく子どもの心のみずみずしい糧として、あかるいものでなければならないとしたら、そして実際坪田童話が不安にみちているなら、この坪田童話の成立には今日に至る日本児童文学の矛盾があらわれている。
そして、時代の不安のなかで人びとは子どもを見なおそうとしていた。豊島与志雄は童話『山の別荘の少年』(昭和十一年)を書き、同年下村湖人は雑誌『青年』に『次郎物語』を連載しはじめ、翌年一月からは『朝日新聞』に山本有三が『路傍の石』を書きはじめる。
この人びとがその時期、子どもをその作品の主人公にすえようとしたモチーフはそれぞれことなっている。豊島の場合は与田準一からおとなの「童心が息をつける場所として(注4)」書いたのではないかと批判され、下村湖人には明瞭な教育的意図があった。山本有三には以前から子どもへの関心があり、この時期になってあらわれたものではないが、こうした偶発的なものが一時期に集中したことは時代との関係を抜きにしては考えられない。
そして『次郎物語』『路傍の石』は共に児童文学ではなく、それでいて現在でもなお中学生の愛読書である。その理由は、のちに述べる『少年倶楽部』が愛読された理由と同様に、理想主義的な生き方が提出されているためではなかろうか。生活童話、善太三平童話、共に生き方は書かれていないのである。
さらにこの山本有三が中心になって、新潮社から「少国民文庫」(昭和十二年)全十六巻が刊行される。そのうちの一冊に吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』があった。題名どおり中学生コペル君の生き方をあつかったこの本から、少年時代のぼくは新鮮な感動を受けたものであった。少年にむかってはじめて真正面から生き方を考えさせようとする作品が出たのである。
しかし「少国民文庫」全体がそうであったようにこの作品も教養的ふんい気にみちていた。また小説としてのフィクション、人間像も弱い。専門作家の手にならなかったことが反映しているのだが、この時期そうしたものを書ける児童文学者はいなかった。ここで当時の読者としての実感をつけくわえておくと、ぼくはもっとも坪田童話を愛読していた。ぼくは善太三平に自分や弟の姿を発見し、その感動はコペル君がビルの屋上に立って自分は大海のなかの水の一滴だという発見をするあざやかさと共に、のちのちまでのこったのである。
注1 『日本児童文学大系第三巻』三一書房
注2 『同右』
注3 石井桃子・渡辺茂男ほか『子どもと文学』中央公論社
注4 注1におなじ
テキストファイル化内海幸代