『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

5 保護された時代

色わけ年表ふうに昭和の児童文学の歩みを区切ると、その初年はまずプロレタリア児童文学運動の時代であり、次に同人雑誌時代が来る。その次に坪田譲治を先頭にする「児童文学の早春」の時代が来る。
『赤い鳥』出身の童謡詩人与田準一は坪田の「早春」のエッセイが発表された年にやはり『児童文学動くべし』というエッセイを書いた。

童話童謡作家は自身の素質に依ると謂える。しかし成人文学(と言って置く)の作家と同様に、児童文学作家が、一種のその素質に依るだけの態度で満足するのだったら、私はその作家に承服出来ない。「教師」同様な客観的熱意を「作家」に強く要求したいのである。(注1)

与田の言う「客観的熱意」は坪田譲治や生活童話などのリアリズムへの動きと対応しながらリアリズムそのものではない。童話一般のあり方が考えなおされようとしたのである。与田はおなじ文章のなかで前記豊島与志雄の『山の別荘の少年』にふれ、次のように言った。

大人の立場から書かれた消極的な態度よりも、大人を理想とする子供の立場から書かれなければならない児童文学への積極性こそ、今日、よりのぞましいことではあるまいか。(注2)

童話は子どもの現実生活に取材するものと否とにかかわらず、いまや転換しようとしていた。与田はいままで資質まかせで書いてきた童話が、現実および子どもから限定されることをはっきりと述べたのである。
だが、この児童文学の早春は不安と重なりあっていた。昭和十三年槇本楠郎の『母の日』第一回童話作家協会童話賞受賞、翌年小出正吾の『たあ坊』が第二回受賞ののち、昭和十五年第三回酒井朝彦『月夜の雉子』受賞とともに童話作家協会は新体制参加のために発展的解消を決定する。
そして、童話作家協会の解消以前、昭和十三年十月、内務省による児童図書浄化措置がおこなわれる。これはこの年九月、婦人雑誌・娯楽雑誌に姦通・股旅物などの禁止を指示したことに続く措置であり、菅忠道によれば次のとおりである。

「児童読物改善ニ関スル指示要綱(注2)」がまとまり、昭和十三年十月末に発表された。なお、これに先立って低俗な漫画・講談本三冊を発売禁止処分に付し、悪質なものには断固たる態度で臨むことが示された。ひきつづき年末までの二ケ月間に三十冊からの漫画本が禁止されている。(中略)この措置によって、俗悪児童読物の横行はおさえられ、良心的な文化性の高いものに進出の道が与えられたことは確かである。冬の季節にたえてきた芸術的な児童文学に、ようやく陽春がめぐってきたと思われた。(注3)

鳥越信によってこの陽春のようすを見よう。彼は言う。

例えば『赤い鳥』に於ても明らかなように、従来の日本児童文学の多くを支えていたのはいわゆる文壇人であって、専門児童文学者の数はさして多くはなかった。(中略)それがこの時期には、巽聖歌・平塚武二・新美南吉・岡本良雄・下畑卓・関英雄・奈街三郎・小林純一など多くの専門児童文学者を生み、これらの作家たちがいっせいに処女童話集あるいは童謡集をひっさげて登場する現象が生まれた。(注4)

このうち昭和六年童謡集『雪と驢馬』を出している巽聖歌はのぞかなければならないが、その巽とおなじく『赤い鳥』童謡の投稿家出身で巽と共に同人誌『チチノキ』をやっていた与田準一にしろ、巽にしろ、その単行本出版は昭和十五年以後に集中しているのである。
だが、これはいうまでもなく、まやかしの春であった。菅はまた別のところで言っている。

文化統制に守られて、浮かびあがることができた芸術的児童文学。今日、大きく責任を問われている弱さの根源につながっているのではなかろうか。そういえば、戦後の民主主義革命の高揚期に花を咲かせたという芸術的児童文学も、用紙割当制という統制下のことだった。(注5)

前記の坪田や与田のエッセイ、その後出てくる平塚武二、新美南吉などの童話を見れば、文化統制に守られてやっと芸術的児童文学が浮かびあがったとは言い切れないにしても、児童文学内部の動きよりも外がわの力の方がはるかに大きかった。
そして、それは菅の言うように戦後まで続く。ぼくはこの内務省の図書浄化措置のころから、戦後民主主義児童文学の退潮期のころまでをひとつづきの時代としてとらえたい。昭和の児童文学史を大きく分ければ、昭和十年ごろまでが第一期、次の戦後にまたがる保護された時代が第二期であり、第三期がほぼ昭和三十四年以後の現在ということになるのである。

*

戦中児童文学の特徴的な現象として、鳥越はおとなの文学の作家たちが、児童文学を書いたことをあげている。なかでもプロレタリア文学系統の人が多く、それは「転向文学の一形態とみることができる(注6)」が、その意味を過大評価することはあやまりであろう。
たしかに中野重治の『おじさんの話』(昭和一一年)『おばあさんの村』(昭和一六年)は、児童文学の根本的なありかたについて問題を提出していた。『おばあさんの村』では一年生の三吉が、五キロもの道をひとりでおばあさんの家に使いに行く。犬にほえられたり、ガチョウやブタを見たりしながら行く。ここには子どもが外界に立ちむかい、外界から吸収していく姿があった。暗い不安はそこにはない。
だが、『おばあさんの村』でもやはりフイクションは欠けていた。かわりに、正確で力強いが、子どもにはたいくつな観察があった。そして、徳永直の『小さい記録』はおそらく本質的にはおとなの文学であり、太宰治の『雪の夜の話』も同様である。ぼくは中野と壷井栄の作品をのぞいては、この時期の文壇の作家が書いた児童文学作品を「日本の児童文学史にとってもすぐれた作品」(鳥越)とみとめることはできない。
ここで成人文学の作家たちが日本の児童文学にはたした役割を考えると、前記鳥越の「『赤い鳥』に於ても明らかなように、従来の日本児童文学の多くを支えてきたのはいわゆる文壇人」という考え方にも、ぼくは疑いを持つ。『赤い鳥』の場合はたしかにそうであったが、たとえば芥川に見られるように説話形式のなかで技巧をこらすことが、どれだけ児童文学史にとって意義があったのだろうか。その結果はたしかにすぐれた作品となったが、その諸作品は児童文学固有のテーマ、児童文学でなければ追及できない人間と世界を創造するまでには至らない。
『赤い鳥』以来ずっと童話を書きつづけた豊島与志雄、また宇野浩二をのぞいては、文壇作家の作品は連続する児童文学史のなかでは孤立している。おとなの文学の作家たちが児童文学を書く場合、自分がなぜ読者である子どもに限定された世界を創造しなければならないのか、ということはあまり考えず技術の応用でおわる場合も多いのである。
ただ中野は自分が児童文学を書くことの意味を考えようとする姿勢を持っていたし、壷井栄にとっては小説と童話とを書きわけることは、ただ一方が年少の読者をあいてにするという、ちがいがあるだけにすぎなかった。彼女の名を決定的にしたおとなの小説『暦』(昭和一五年)の語り口と、その内容になっている世界は、文章表現をやさしくさえすればそっくりそのまま子どもにつたえることができるものであった。彼女の作品は多く小豆島、というより小豆島共同体に取材しているが、共同体のなかでは子どもは次代をになう存在として、ちゃんとした位置を与えられており、その子どもたちにむかって語部(かたりべ)壷井栄は共同体の経験を語りつたえたのである。
『まつりご』(昭和一五年)『餓鬼の飯』(昭和一六年)『十五夜の月』(昭和一七年)、これらの諸作品では共同体の経験が語られる。戦後の長編『二十四の瞳』(昭和二七年)もそうである。そして、壷井の諸作品は児童文学のあるべき姿の一つを示そうとしている。はるかな昔の先祖から受けつがれ、やしなわれてきたもの、壷井の場合、その最大のものは愛情だが、これを次代にゆずりわたしていくことが、児童文学のそなえなければならない要素のひとつである。
先祖以来獲得してきたもの、という考え方はいまの自分たちにもその上に何かをつみ重ねるという考えを、そのなかにふくんでいるものだ。柳のように従順だった子守り兼電報配達の少女を、三月三日桃と柳を家いえのすみまでかざる小豆島風俗のなかで書いた『柳の糸』(昭和二三年)は次のように結ばれた。

しかしヤナギはほんとうにわたしたちに従順をおしえようとして、えだをたれ、風になびいていたのでしょうか。わたしは芽だちとともにかりとられたヤナギのみきが、そのあと、いっそうさかんな芽を出すことを知っています。

柳の意味は新しく次代につたえられたのだ。壷井が庶民を書いたと同様に平塚武二もまた庶民を書いた。『風と花びら』(昭和一七年)は千代という女の六つの時から彼女の子が若者になるまでの一生を書く。牛なべ屋に奉公しながら看護婦免状をとるために勉強している千代の姿には、よりよい生活をしたいと願う気持がはっきりとあらわれている。そして、よりよい生活への望みこそ人間の歴史をきずきあげてきた原動力であるはずで、そうした原動力をとらえ、単純なかたちで表現することが児童文学であることを平塚は模索していたといえる。
新美南吉の『おじいさんのランプ』(昭和一七年)は文明開化の時代、ランプに目をつけて、それでもうけた巳之助がやがて電灯に圧迫され、ランプをわって商売がえをする話である。ここにも人間の歴史の原動力があった。この時期、童話は児童文学に変貌しつつあったのだ。
新美には他に民話風の作品と、子どもの生活に取材した『いぼ』『屁』などの作品とがある。『いぼ』や『屁』に書かれたものは近代と前近代の板ばさみになった子どものなやみであり、民話ふうの諸作品では日本土着的なものが追及されている。
戦中児童文学の達成は壷井、平塚、新美の三人に代表されるものと、ぼくは思う。それが保護された時代の結果であろうとなかろうと、彼らの作品はあるいのちの長さを持っている。
平塚も新美も『赤い鳥』出身であった。彼らの作品が子どもの生活に取材したせまい意味のリアリズム以上にひろがっていることを見ると、ぼくはおなじく『赤い鳥』出身であった与田のエッセイ『児童文学動くべし』を思い出す。与田はそのエッセイで童話の変革を説いた。それが平塚や新美にあらわれている。
そして、与田自身の達成はおそらく戦後の長編『五十一番めのザボン』(昭和二六年)であろう。これはまぎれもなく新しい童話であった。校庭のザボンの木になった五十一の実がそれぞれ手紙をつけて、日本の各地に送り出される。ザボンをたべた人たちからへんじがくる。この組立のなかでは時間よりも空間が重要な意味を持つ。ふつうの小説では事件の経過は時間だが、この童話ではザボンを送りだした子どもたちの願いの空間へのひろがりが経過である。
ぼくは『五十一番めのザボン』を戦中から戦後にかけての、童話の児童文学的変貌の到達点の一つと考えたい。与田は佐藤義美(よしみ)と共におとなと子どもの両方にまたがる文学形式としての童話の代表的作家だと思うが、『五十一番めのザボン』は与田の振幅のぎりぎりのところまで、子どもにかたむいた作品であろう。与田の作品は一般に難解といわれ、『五十一番めのザボン』も、もしかしたら少数者の文学なのかもしれないが、日本的童話の達成という点からも、その感覚の豊かさという点からも、価値の大きい作品である。
さて、戦後『赤とんぼ』『子どもの広場』『銀河』『少年少女』など、いわゆる良心的児童雑誌がぞくぞくと創刊され、センカ紙本の童話集が版を重ねた。作品内容としては民主主義児童文学の時代だが、戦後を受けとめるには児童文学はまだ力弱かった。多くの作家はうわずったさけびをあげたにすぎないので、気がついたときには昭和二十六年十二月、『少年少女』の廃刊によって“良心的児童雑誌”はすべて姿を消していた。
この時期の記念碑的なしごととしては、坪田譲治の『サバクの虹』(昭和二二年)、平塚武二の『太陽よりも月よりも』をあげることができる。戦後をまともに受けとめたのがこの二作であった。
また北畠八穂の『ジロー・ブーチン日記』(昭和二三年)、『マコチン虹製造』(昭和二四年)などの諸作、青木茂の『三太物語』(昭和二六年)は生活童話とはちがう子どもたちを創造していた。
ところで、前記「日本少国民文庫」の編集スタッフのひとりであった石井桃子は戦後になって『ノンちゃん雲に乗る』(昭和二二年)を発表し、おなじく竹山道雄は同年『ビルマの竪琴』を『赤とんぼ』に連載しはじめた。この二作は共に戦後児童文学の収穫で、その作者はふたりとも専門児童文学者ではなかったから、その後になってアウトサイダー論議が出てくることになった。専門作家からはすぐれた作品が出ず、外がわから出るではないかという意見である。
“良心的児童雑誌”廃刊後、問題となった作品が国分一太郎『鉄の町の少年』(昭和二九年)、住井すえ『夜あけ朝あけ』(昭和二九年)であったことも、このアウトサイダー論議に拍車をかけた。国分一太郎は戦前から童話も書き、二十二年にはすぐれた連作短篇集『すこし昔の話』を出していたが、どちらかといえば教育畑の人間である。住井すえもおとなの文学の方が本業ではないか、というところにアウトサイダー論の根拠があった。また壷井栄の『二十四の瞳』も雑誌廃刊後の刊行である。
いまふりかえってみて、ぼくはこのアウトサイダー論に全面的には同意できない。この時期平塚武二は『馬ぬすびと』(昭和三〇年)を書き、また前に言った与田の『五十一番めのザボン』もやはり戦後の収穫である。さらに石井や国分のことを考えると、この人びとをアウトサイダーとしてとらえたのは、そう見る方の視野がせまかったのかもしれないのであり、『ビルマの竪琴』はその時期のすぐれた作品ではあっても、教養的にすぎはしないか。
だが、雑誌廃刊の原因は外がわのいわゆる“俗悪雑誌”の攻勢と共に、内部の執筆スタッフの弱さにある。問題はひとりふたりの作家にあるのではなく、いままでの童話のあり方そのものに問題があるのではないか。児童文学のあり方を考えなおそうという口火をきったのが、早大童話会の「少年文学の旗の下に」と題された宣言文、略称「少年文学宣言(注7)」(昭和二八年)でこの宣言は童話から小説へという主張を提出したのであった。
こうして保護された時代はおわり、童話の時代はおわった。

注1 『日本児童文学大系第三巻』三一書房
注2 『日本児童文学大系第四巻』
注3 『日本の児童文学』大月書店
注4 「戦中児童文学の二、三の問題」『児童文学への招待』くろしお出版
注5 「昭和期児童文学とその背景」『新選日本児童文学昭和編』
注6 注4におなじ
注7 『日本児童文学大系第五巻』


6 児童文学の現在

この保護された時代をふりかえってみるとき、菅忠道の説く「文化統制に守られて浮かびあがることができた芸術的児童文学。それが、今日、大きく責任を問われている弱さの根源につながっているのではなかろうか」という意見にぼくはかならずしも賛成できない。鳥越信も言う。

転向作家たちは、思想的には後退をつづけながらも、芸術的な力量の故にふみこたえた。芸術的力量のなかった児童作家たちは、権力の保護の下に幻の花を咲かせたのである。(注1)

ふたりの意見に一面の真理はあると思う。しかし、平塚や新美の作品はそれほどまずしいものではない。外的条件はさておき、民主主義児童文学退潮後の「慢性的不況」の根源ははるか以前にさかのぼる。その一つの原因は昭和初期にあった童話の主張と児童文学の癒着である。童話は子どものものという考えが世間にはあり、その錯覚に童話作家も支配される。おとなと子どもにまたがる文学ジャンルとして童話を発展させようという主張は、理論のかたちはとらなかったのである。おとな的なものと子ども的なものとの癒着はたちきれなかった。
その癒着の結果、国分一太郎のいう「ある種の児童文学観念」がのこる。石井桃子たちが攻撃する「独特、異質」の一要素は児童文学のなかに残存しているおとな的なもののことである。
では、一面おとな的なものにひかれている人たちが、なぜ小説を書かないで童話を選んだのだろうか。坪田譲治は「児童文学の早春」のなかで未明、広介を抜くことのできない理由として「この二先進の持つ作品の秘鑰は、彼等の内心にある」と言った。その内心とは「童話作家として学ぶことの出来ないロマンチックな素質」であり、「天禀の詩的空想」であった。「天禀の詩的空想」とは資質のことであり、与田準一はいっそうはっきりと言った。「童話童謡作家は自分の素質に依ると謂える」と。
児童文学はつねに読者である子どものがわから限定されている。ある人が小説を選ばず、この不自由さのなかにはいってくるのには、それ相応の理由がなければならず、その理由は未明の童話宣言にあらわれているように、小説よりもむしろ童話の方が書きやすいという、作家の資質によるものであった。
そして、童話はもともと主観的なものであった。未明は弱者への共感、不正への怒りをその資質にまかせて書く。つまり資質の流出・自己の内部の直接的表現が童話であった。そして、未明の内部世界では不正は罰せられ現実は変革される。だが、それは主観的な変革であり、小説のように読者をなっとくさせてリアリティを感じさせるものではない。読者に呪文をかけ、読者を酔わせてリアリティを感じさせるものである。小説と童話の境はあいまいだが、その極限ではこういう機能の差があるものだ。
そして、一方、まだ合理主義的傾向がいきわたらない時代では、読者のがわにも呪文にかけられやすい要素がある。しかし、時代はかわり読者のがわには合理的な考えが生まれ、童話作家たちも未明のように強烈な資質を持たなくなる。ところが、自分の内部で現実を変革させるには、自分自身酔わなければならない。その酔った世界のなかでは美やあこがれ、少年時代への郷愁に逃げこむこともできる。自己の内部においても現実変革が不可能なら逃避が可能なのであり、現実変革にしろ逃避にしろ自己満足におちいる危険性をつねにはらんでいる。
だからこそ与田準一は教師と同様な「客観的熱意」を童話作家に要求した。えがかれる対象及び読者対象を外におくことによって、与田は自己満足におちいる危険性から童話作家を救おうとしたのである。
しかし、ある人に童話作家の道を選ばせたものはその資質であり、その資質は自己の内部の直接的表現という童話の方法をすてきれない。戦争中、一度おさえられていたその表現は戦後、民主主義の風潮に童話作家たちが酔うと同時によみがえったのである。「童話のまずしさ」の根源的理由は童話作家たちの「芸術的力量」以前のもの、童話作家をして童話作家たらしめた、その内的モチーフのなかにある。
このモチーフと保護された時代との関係は今後の研究課題のひとつだと思うが、いずれにしろ日本児童文学は作家の内部に大きな弱さをかかえこんだまま、戦後のマスコミ時代に直面した。

*

いわゆる“良心的児童雑誌”を廃刊させたものは絵物語・漫画である。もっとも児童文学が漫画より少数の読者しか持たないことは、児童文学にとって不名誉なことではない。見て感じればそれでよい漫画と、活字を追って行かなければならない児童文学とをおなじ次元でくらべることはできない。テレビについても事情は同様であり、児童文学のおもしろさを知った子どもはテレビも見、児童文学も読む、漫画・テレビと児童文学との関係は、一方が一方を駆逐するという関係ではないのだが、それにもかかわらず一時期、日本児童文学は漫画に駆逐された。少数の児童文学読者と多数の漫画ファンという関係さえ保ちえなかったところに、日本児童文学の弱さがあった。
とにかく一時期マスコミ関係の作品は栄え、児童文学者たちは発表の場を失った。不振・停滞・慢性的不況――こうしたことばが当時の児童文学批評にはかならず出てくるようになったのである。しかし、すべての児童文学が読者を失ったわけではなかった。外国児童文学が子どもに読まれるようになってきたのである。
岩波少年文庫の発刊(昭和二五年)、創元社の世界少年少女文学全集の発刊(昭和二八年)、つづいて三十三年、講談社は少年少女世界文学全集を出す。これらのシリーズ・全集のなかには古典だけではなく、いままで未紹介の作品もはいっていた。ことに岩波少年文庫にはその努力がいちじるしい。
こうした外国児童文学の進出が日本児童文学に与えた影響は、マスコミ作品の影響よりもはるかに大きかった。外国作品の方が日本児童文学よりもおもしろく、そのおもしろさは、マスコミ作品のおもしろさが常に非文学的要素とだきあわせになっているのに対して、文学的である。そこにはリアリティを持つ冒険があり、好奇心があり、空想があった。子どもの心理、子ども独特の価値体系の上に外国児童文学は成り立っていた。二十年代の後半から三十年代はじめの時期、日本児童文学はマスコミと外国作品の挟撃を受けて、いわば体質改善をせまられたのである。

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こうして、ふたたび同人誌時代がおこった。不振・停滞・慢性的不況の裏には新しい児童文学創造をめざした動きが活発になったのである。『麦』『小さい仲間』『馬車』『もんぺの子』などがそのおもな同人誌であった。この同人誌群は「児童文学とは何か」という問いをくりかえしていく。それは批評のかたちをとってもあらわれ、この時代は批評時代という一面も持っていた。この同人誌時代が戦前のそれとちがうのは、既成作家の同人誌活動がほとんど見られなかったことである。戦前・戦中に活動した児童文学既成作家の同人誌としては「長編児童文学」一誌があげられるだけである。
しかし、内容のない形式はありえない。書くべき内容と相関関係を持つことで長短編のかたちはきまる。長編という形式だけが先行したところに、この同人誌の失敗の原因があった。
ただそのなかから、前記、国分一太郎の『鉄の町の少年』が生み出されたことは、大きな収穫であった。東北出身の少年工が組合結成に参加していく過程を、工場の盗難事件と結びつけて書いたこの作品は、プロレタリア児童文学に発する社会改革的作品の頂点に立つものであり、その後、そうした傾向のもので、この作品をしのぐものはまだあらわれていない。
「長編少年文学」はこの作品もふくめ、四点の長編を出して、おわった。
一方、新人の同人誌群から生まれた作品のうち、その時期、出版されたものは、いぬいとみこの幼年童話『ながいながいペンギンの話』(昭和三二年)一編だけである。
これはふたごのペンギンの子を主人公としていて、ふたごのうちのひとりは好奇心にみちひとりは気が弱い。このふたりの冒険を書いたもので、おとな的なものをのこす童話と縁を切り、児童文学を考えなおそうとする動きの最初の作品であり、外国児童文学から学んだものがとりいれられていた。
また大石真の短編『風信器』(昭和二八年)はリアリズム童話の到達点であり、戦前からの童話の方法のさいごの輝きと見ることができる。

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時代は早大童話会が言ったように、童話から小説的なものへと動いていた。そして、やがて小説的作品がぞくぞくと生まれてくる。石森延男の『コタンの口笛』(昭和三二年)がその口火を切った。
しかし、児童文学の決定的に新しい動きがはじまったのは昭和三十四年の後半であった。
佐藤さとる『だれも知らない小さな国』、いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』、柴田道子『谷間の底から』など新人の作品が出版され、その後の創作児童文学出版の中心となっていく理論社も、その第一冊として斎藤了一『荒野の魂』を出した。
これらの諸作品は数年前からくりかえされてきた「児童文学とは何か」という問いに対する具体的な答であると見ることができる。
とくに『だれも知らない小さな国』と『木かげの家の小人たち』はみごとな答を提出していた。この二作品は共にファンタジーである。石井桃子の言うようにファンタジーは日本では、宮沢賢治の諸作をのぞいてはほとんど見られないものであった。この二作品は新しい領域をひらいたのであった。
日本のいわゆる童話はムード的なものであり、情緒的ふんい気にみちていて、そのイメージはかならずしも明確ではない。しかし、石井の見解(注2)ではファンタジーとは目に見えないものを、見えるようにえがきだすことである。さらに「少年文学宣言」の「童話から小説へ」にはじまるぼく自身の主張は、ほぼ次のようになっていた。

坪田譲治は『元来、童話は詩に近い』(注3)という。読者を酔わせ、読者に呪文をかける童話は詩的なことばで書かれている。こうした童話と訣別し、散文によって興味豊かな作品を創造しなければならない。(注4)

『だれも知らない小さな国』のこびとのすむ泉のそばの小山は主人公の「ぼく」にとっては、他人がそれをおかすことのならない「ぼく」の心の中の世界でもある。「ぼく」という人間を支えている、その根源の世界が散文により、まさしく目に見えるようにえがき出されたのであった。
この作品は資質の流出にまかせていた過去の童話とはちがって、自分のうちにあるものを、散文によって明確に形成し、追及していったのである。そして、その自分のうちにあるものとは、戦中・戦後を体験することで生まれてきた、「<傍点開始>個人の尊厳<傍点終了>」ということの自覚であった。作者が意識すると、しないとにかかわらず、戦中・戦後の体験に深く根をおろした作品がはじめてあらわれたのである。
『木かげの家の小人たち』も同様に戦争体験に根をおろしたファンタジーであった。さらに『荒野の魂』も『谷間の底から』も戦争体験に根ざしている。
これらの作品の出た、昭和三十四年後半をぼくは新しい児童文学の出発点としたい。以後、同人誌に連載されていたものをはじめとして、つぎつぎと作品は刊行され、現在に至っている。そして、これらの作品群では童話は少く、ほとんど、小説的になっているのである。
その点、『谷間の底から』が生活記録ふうな書き方をしていたことは象徴的であった。生活記録は散文であり、万人が書き得るものである。童話創作は作家の資質によっていて、だれでもが書き得るものではない。『谷間の底から』はいまや児童文学の創作がかぎられた童話作家のものでなく、万人のものであることを示した。童話は決定的に児童文学に席をゆずりわたしたのであった。
しかし、それはまた新しい堕落の可能性も示していた。『谷間の底から』が生活記録ふうであったということは、この作品の強みが児童文学の新しい試みというような強みではなく、疎開学童を書いた素材の強みであった。素材がよければ本になる。それは一転しておもしろければ本になる。という方向へかわっていく可能性を持っていた。しかも、その本はいまやだれでもが書けるのである。昭和三十四年以後の児童文学史は、凡百の作品と、新しい方法、新しい内容の作品とがいりみだれる歴史となっていった。

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新しい作品を求める人びとのあいだでは「児童文学とは何か」という問いはやはりくりかえされていく。しかし、もともとこの問いは純粋に理論的な答を求める問いではない。あるべき児童文学の姿を求めて出てきた問いであって、一度理論的なところにはいり、三十四年以後の歴史のなかで、ふたたびいまの日本の子どもと自分に必要なのはどういう「児童文学なのか」というところに帰っていく。
この動きのなかで出てきた、いくつかの問題点をひろいあげると、まず第一は「おもしろさ」の問題である。この問題について、石井桃子たちは前にもしるしたように「世界児童文学の規準」として「子どもの文学はおもしろく、はっきり、わかりやすく」ということを書いている。
さらに大衆児童文学、マスコミ芸術の面からも「おもしろさ」の問題は提出される。「面白くて為になる」のが戦前の『少年倶楽部』のスローガンであった。そして、子どもはおとなとちがっておもしろくなければ本を読まない。では、「おもしろさ」とは何なのか。
石井桃子は「おもしろさ」ということを解明しようとはしない。かわりに子どもの心をひきつける児童文学作品の構造が吟味される。たとえば「起伏の多いストーリィ」「満足感に溢れた結末」などである。
ところで、鳥越信によれば「児童文学とは、子どもである読者との間にインタレストを交流しうる文学である(注4)」この鳥越定義と石井を組みあわせると、石井のいうような構造の作品が読者にインタレストをおこさせることになる。おもしろさとはインタレストにほかならない。(注5)
そして、インタレストは「関心」である。そこからいわゆる「おもしろさ」とはちがう結果も出てくる。関心があれば子どもは汗を流して森の木の上に板をはこびあげ、自分の巣をつくるものである。インタレストを満足させるには苦難がともなう一例である。インタレストは「おもしろおかしく」とはちがうのである。マスコミ文化的おもしろさには、たいてい苦難はともなわない、桑原武夫はそのおもしろさの質のちがいをアミュージングとインタレストに区別した。
ここで考えているインタレストはいうまでもなく子どものインタレストであり、ひと口に子どもといっても発達段階によるインタレストのちがいがある。ここで児童文学には大ざっぱにいって二種類のものがあることがわかる。ひとつはその発達段階のなかで、子どもに充実した人生を経験させるものであり、もうひとつは次の発達段階にうつっていく、いわば子どもをおとなにしていく文学である。
そして、これと重ねあわせて児童文学のあり方を想定することができる。外国児童文学を例にとれば、『ちびくろ・さんぼ』(注6)のように幼児の段階で読むことがもっともおもしろいというようなものと、『宝島』のように少年期から老人になるまで、読むたびにその感動は新しいというようなものとである。
おもしろさ――インタレストからはほかにもさまざまの問題が出てくる。そのうちのひとつとして、インタレストという考えは石井説をも裏切りかねない面を持っている場合がある。
石井たちの『子どもと文学』には次のような考えが述べられている。

「時代によって価値のかわるイデオロギーは――例えば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが、それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値をそこなうと同時に、経験の薄い子どもたちにとって意味のないことです」。

もちろんイデオロギーはそれだけでは文学とはなり得ない。だが、社会に矛盾のあるかぎり、それについてのインタレストは作家、読者の両がわに生ずるものであり、プロレタリア児童文学的なものはやはり成り立つ。すでに『鉄の町の少年』の例があり、その後も『赤毛のポチ』(山中恒、昭和三五年)をはじめとして社会批判的な作品はぞくぞくと生まれてきている。

*

「児童文学とは何か」をめぐって出てきた第二の問題は、児童文学は自分のために書くのか、子どものために書くのか、ということである。
これについて鳥越信はいう。「児童文学は表現性より伝達性の強いものである」「また事実、過去の古典的児童文学には、ある特定の子どもにあてた伝達性の強い作品が多い」(注7)。
この鳥越の意見はおもに外国の作品の成立過程から抽象してきたものであり、「児童文学とは何か」ということの理論的回答にはなっていても、現在の日本の児童文学の問題とは直接には関係がない。ここでは日本語の問題と、日本の児童文学者たちのインタレストのあり方が考えられていない。
創作者である児童文学者の内面のことを考えない欠点は石井桃子にも、また「児童文学とは何か」について、いまのところもっとも整理された答を出している国分一太郎にも共通している。(注8)
だが、ここではとりあえず、伝達と表現とにかぎっていえば、両者は作者の内部で統一されるべき性質のものである。表現は自分のうちにある読者との対話であり、読者をなっとくさせ得ないかぎり、表現は未熟である。散文の場合、伝達性をともなわない表現はあり得ないのであり、伝達性をそなえてはじめて表現は完成するのである。
そして、この問題をつきつめれば、子どもにむかってなぜ表現するのか、という問いが出てくることになる。前にもしるしたように、童話の時代、それは作家の「資質」であった。いまでもやはり資質であろう。だが、児童文学が散文による表現を獲得して以来、その資質はあらゆる人のなかにひそんでいるともいえる。ただ、それには強弱があり、訓練しなければ伸びない面もある。
この資質はひと口にいえば、世界をもっとも単純なかたちでつかもうという資質である。つまり世界と人間の原理原型を求めて、人は児童文学にはいっていく。子どもは人間の原理、原型である一方、原理、原型的な単純な表現しか受けつけないという性質を持っている。その子どもを追求し、子どもから限定されることによって、作者は原理、原型的なものを発見していくのである。
そして原理、原型的なものは過去の人類がその歩みをはじめて以来、営々と築きあげてきたものであり、そこで児童文学はいわば保守的な一面を持つことになる。だが、過去の遺産のくいつぶしで終ったら原理、原型は発展しない。
そして、その原理、原型は、人類のそれであるだけではなく、民族的な原理、原型とも考えられる。そして、その具体的表現は現在社会によっても決定される。
ぼく自身の「児童文学とは何か」ということについての答は以上のように書き手を中心としたものであり、その立場から見れば石井桃子の意見は没主体的であり、また日本の現在を見ていないということになる。
しかし、石井桃子たち『子どもと文学』グループのはたした役割は大きく、その成果は理論的な面にあらわれているばかりではなく、『いやいやえん』(中川李枝子、昭和三八年)のようなすぐれた幼年童話も生みだしている。
いまや「児童文学とは何か」という問いについての大ざっぱな答はほぼ出そろった。次は実験の段階である。たとえば、ファンタジーは出ても、リアリズムの冒険小説はまだ生まれていない。また日本特有の社会批判的作品ももう一歩前進しなければならない。
そして、昭和四十年、いぬいとみこはドキュメンタリィの方法によって『うみねこの空』を書いた。新しい実験がまたおこなわれたのであり、小沢正の『目をさませトラゴロウ』は幼年童話のなかで、疎外された自己を書く。さらに今江祥智は『わらいねこ』(昭和三九年)に風刺とユーモアのなかで明確に原理を書いていた。
現在、さまざまの実験が試みられているのでありその評価もさまざまで、児童文学は、なお過渡期にあるといえるのである。
(『児童文学十四講』一九六六年右文書院)
注1 前節注4におなじ
注2 「子どもと文学」中央公論社『児童文学論』(L・H・スミス 石井桃子 瀬田貞二 渡辺茂男訳)
注3 『小川未明童話集』(新潮文庫)解説
注4 「さよなら未明」『現代児童文学論』くろしお出版
注5 「児童文学とは何か」『児童文学への招待』くろしお出版
注6 桑原武夫『文学入門』
注7 ヘレン・バンナーマン作 英国の作品 幼年童話の古典といわれている。
注8 注4におなじ
注9 「児童文学の本質」『文学教育基礎講座第一巻』明治図書
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