『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

『絵本・八郎』誕生前後

1 浄土花さき山

 一九六七年は日本の絵本の世界に変化がおこりはじめた年であった。この年四月、松谷みよ子文・瀬川康男絵の『いないいないばあ』(童心社)が出版され、五月には、おなじふたりの『やまんばのにしき』(ポプラ社)、七月に今江祥智文・田島征三絵の『ちからたろう』(ポプラ社)、そして十一月に斎藤隆介文・滝平二郎絵の『八郎』(福音館書店)が出た。
 それ以前、絵本の主流といえば、大ざっぱには福音館書店発行の絵本であった。それがそうではなくなった。読者の反応からいえば、それ以前保育園、幼稚園の先生たちと話し合うとき、すぐれた絵本としてあげられるのは、ほとんど「岩波子どもの本」と福音館発行の絵本にかぎられていたのが、以後は各社に拡散していくのである。
 だから、その翌年六八年十一月に鳥越信は次のようにいった。「今や絵本の世界は、新しい時期にはいりつつあるといっていいのだろうと思う。さらにいえば、岩波書店の果たした歴史的役割は今や完全に終わった。そしてそれにつづく福音館書店の歴史的役割も終わりつつある、というふうにいってもいいのだろうと思う」(「学鎧」六八年十一月号)。
 鳥越のいう「新しい時期」――それは絵本だけではなく、日本の児童文学全体の新しい時期だと思うが、そのはじまりをぼくは六七年におく。以後、現在に至るまで五年間の月日がたった。この五年間の児童文学の変化はどのような変化であったのか。いや、その前に六七年の転換はどのようにしておこったのか。これらのことを絵本に即し、なかでも斎藤隆介文、滝平二郎絵の『八郎』と『花さき山』について考えていくのが、この小論の目的である。

まず、『花さき山』からはじめよう。『花さき山』は、いったいどういう絵本であるのか。
このように問いなおすのには、二つの理由がある。一つは『絵本・花さき山』が一九六九年十二月の出版以後、今日に至るまで多くの人びとの心をひきつけてきたからである。もう一つの理由は、最近になって『花さき山』批判が出てきたが、その批判は斎藤隆介の文に集中し、絵本批判とは受けとれないからである。
この第二の理由は第一の理由と切りはなせない。最初『花咲き山』としるされたこの話は、もともと六七年発行の斎藤隆介の短編集『ベロ出しチョンマ』のプロローグであった。このとき、『ベロ出しチョンマ』についての世評は高かったが、『花咲き山』そのものはそれほど人の口にはのぼらず、絵本となってのち、多数の人びとの心をとらえ、読書運動とともにひろがり、また読書運動をひろげていく有力な作品となった。滝平二郎の絵による絵本『花さき山』だからこそ、この本は今日のひろがりを見せることになった。
 この事情はおなじ作者たちの『絵本・八郎』の場合と、いくらか似かよっている。斎藤隆介の「八郎」は一九五二年、雑誌『人民文学』の四月号に発表された。幾人かの人びとは当時この物語に心をとめた。たとえば菅忠道がそうであり、ぼくもまた、この物語を伝承と見るあやまりをおかしながら、五九年発行の『現代児童文学論』中に「八郎」の名を書きとめたのである。
しかし、当時は児童文学のいわゆる“慢性的不況”の時代であり、創作単行本の出版は至難な時期であった。「八郎」はうずもれたまま十五年間を経過し、六七年十一月、『絵本・八郎』となって出現し、爆発的な人気を得た。絵本という形態を取ることによって、多数の人びとの心をつかんだ――それがいくらか「花咲き山」の場合と似かよっている。
ただし、「花咲き山」と区別しなければならないのは、十五年の長さにわたって「八郎」がうずもれていたことである。絵本でなくても「八郎」は六七年当時では、やはり人びとの心をつかんだにちがいない。そのことは、この作品をおさめた『ベロ出しチョンマ』への世評から見てもわかる。時代は「八郎」、あるいは「八郎」的なものを進んでむかえいれる時代にかわっていた。
 この時代の変化――五二年と六七年のちがいは、どういうところにあるのか。六七年では創作児童文学の出版が盛んになってきた、というそれだけのちがいではなく、もっとくわしく立ち入らなければならないのだが、それはあとにまわそう。ここでは、「八郎」も「花咲き山」も滝平二郎絵による絵本になることによって、いっそうのひろがりを見せ、『絵本、八郎』、『絵本・花さき山』として読者の心に浸透していったことを、まず確認しておきたい。

 そこで、ふたたび『絵本・花さき山』はどういう絵本であるのか。
『花さき山』の表紙は、色とりどりの花が浮くそのむこうにいる女の子だ。この子がとびらではかごをせおい、鎌を持って歩いていく。ところが、第一見ひらきではこの主人公であるはずの人物は見えず、黒いバックに白衣の老女(らしい)が髪をなびかせ、何者かにむかいあう姿が見える。
 この第一見ひらきの印象は一口にいえば、こわい。主人公(らしい者)が突然消え去り、正体不明の老女が後ろむきのまま出現するこの場面、黒のバックは闇となり、闇の中から声がきこえてくるのである。その上、その声は「おどろくんでない」と、さとりの知恵を持つ山父のように、読者の心を見すかしてひびくのだ。闇と、白衣の老女と、こちらの胸の中をいいあてる闇の中の声――ここで読者は呪縛される。
 第二見ひらきでは、やはり黒の中に少女あやひとり、第三見ひらきになると、いままで続いてきた闇の中に華麗な花々が出現する。意表をついた展開なのだ、その意表をつかれたことと、花々の華麗さに魅せられることによって、呪縛はいっそう強化される。
 『絵本・花さき山』はこのように恐怖の感情を基調とし、黒の呪縛の中に展開される華麗な花々の物語なのだ。ぼくはこの絵本を見るとき、子どものときに出会ったいくつかの情景を思い出す。そのうちの一つに、たまたま祭のときに見た地獄極楽ののぞき絵がある。ぼくにひきつけていうと、呪縛と花々の対比は地獄と極楽の対比である。花さき山は一種の浄土としてあらわれるのだ。
 往生要集によって極楽のようすの一部をのぞいてみよう。「青蓮は青き光あり。黄蓮は黄なる光あり。赤蓮白蓮おのおのその光あって、微風吹き来たれば華光乱れ転ず」。また、「葉葉あいつぎ、紫金の葉、白銀の枝、珊瑚の花」、そして朝、仏土にあまねく花は散りしき、香りは高く、その上をふめば足が四寸もはいってしまうのである。極楽はまさしく花さき山であった。
 この浄土花さき山がその全貌を見せるのは、いうまでもなくこの物語が頂点にたっしたところ、文では「この 花さき山 いちめんの花は、みんな こうして さいたんだ」と語られる場面である。色とりどりの花が一面に咲くこの場面は華麗である。ことにそれに先立つ場面が「その なみだが その つゆだ」という一行の文、一つの青い花であるだけに、この一面の花はいっそうはなやかに目にしみる。
 そして、地獄極楽ののぞき絵もまた華麗であった。闇にもえあがる地獄のほのおも、罪人の流す血も毒々しいはなやかさにみちていた。その毒々しさは『絵本・花さき山』ではかげをひそめ、真赤な血は光るなみだの露となり、紅蓮のほのおは花々となった。『絵本・花さき山』が広く世にむかえられたのは、この土俗化した浄土思想、地獄極楽ののぞき絵につながるものであったからではなかろうか。

2 「八郎」復活の背景

 『絵本・花さき山』を以上のように見るとき(実はまだ一ついわなければならないことをぼくは残したままだが)、ぼくはつくづくと時代と作品との関係というものを考えさせられてしまう。土俗化した浄土思想は民話の世界につながるものであり、民話採集や民話再話や民話風創作の波の高まりの中でこの絵本は生まれ、人びとの心をとらえた。
 この事情は、先にいった五二年と六七年のちがい――「八郎」がなぜ六七年にむかえられたかということにつながる。五二年当時「八郎」が少数の人びとの心をゆすぶったことはいったが、ぼくもふくんでその人びとも「八郎」を十分理解していたとはいえない。「八郎」は当時の児童文学とは異質のものであり、また漠としたイメージしか持たないぼくたちがめざそうとする児童文学の中にも包み切れない作品であった。児童文学全体の成長ののち「八郎」は世に出ることになるのである。
 六七年の「八郎」出現の背後には児童文学全体の成長があるのだが、その中に「八郎」と直接かかわりあうものとして民話再話の発展がある。松谷みよ子の民話再話の集成「日本のむかし話」全三巻が刊行されはじめたのも、やはりこの年の十一月のことであった。先にいったように、『やまんばのにしき』や『ちからたろう』をふくむポプラ社の、「むかしむかし絵本」シリーズの刊行もこの年であり、六七年の児童文学は民話の年という側面を持っていた。
 各社が期せずして民話にむかい、それがそれぞれ成功したことにぼくは時代の動きを感じる。なぜこれほど民話が盛んになったのか、その原因を当時の児童文学の状況から考えてみよう。この年十月、神宮輝夫は「最近の創作にはテーマが矮小化したものが多い」ことを前提として次のようにいった。「個人のひたむきな生き方や小さな不正のたたかいや現実のありのままの描出などということがテーマや素材になることが多くなった背後には、不安の中の平和、個性の喪失、革新思想の混乱などがあると思う。つまり、戦後に多くの児童文学者たちが持った変革の意志と変革のプログラムが社会主義陣営の四分五裂や帝国主義勢力の一時的優勢の前にくずれ去り、自己の経験の領域にしかたよれなくなったのである」。(「日本児童文学」六七年一〇月)
 神宮はこの評論を「昭和四十一年あたりから、児童文学はふたたび大きな曲り目を通りつつあるのだとわたしは考える」と結び、神宮のいう「曲り目」を通ってあらわれたのが、民話再話と民話風創作、民話絵本であった。そして、これらの作品群がむかえられた原因は神宮の指摘した一種不安な状況の中にあったと思う。
この状況はもともと六〇年安保のころにきざしていた。そして、文学作品の場合、ある時期の発想が実を結ぶには最低二、三年の月日を要する。六〇年安保後の混迷と模索が児童文学作品にあらわれてくるのは数年後のことであり、自らの体験による戦争児童文学が出はじめるのはほぼ六三年のころからである。
 ただこの際、人びとが立ち帰ろうとするのは、「自己の経験の領域」だけではなかった。先祖の経験の領域がある。神宮は「個人のひたむきな生き方」を書きつつ「テーマが矮小化したもの」の一つとして『肥後の石工』(今西祐行)をあげているが、この作品は歴史小説であった。
 歴史といえば、この『肥後の石工』が出た六五年、おとなの本の方では中央公論社の「日本の歴史」シリーズの第一巻『神話から歴史へ』が爆発的な売れ行きを示している。これは戦前への復帰ではない。自分の住む日本、それはどのような国であるかという関心のあらわれであり、日本の再発見である。この日本発見という大きな流れの中に、先祖の経験とかかわろうとする民話再話も一つの位置を占めることになる。
 六七年は外にはベトナム戦争の激化、内には経済の高度成長による公害と自然破壊の進展がようやく顕在化してきたころである。この人間無視の状況は内部の不安をよびおこす。経済優先の社会で人間が選別されていく中で、人間の価値はいったいどこに求めたらよいのか。科学の進歩ははたして人間に幸福をもたらしたのか等々。疑問と不安の中で人びとはゆれ動く。迷うとき、人は自分の根源に立ち帰ろうとする。民話再話がここで人びとの求めるものとふれあった。『いないいないばあ』がむかえられたのも、この本の中にかつての日本があったからだと思う。おとなはこの絵本の中に自らの始原と、人間、民族の始原に近いものを見たのではなかろうか。
 しかも民話は、というより昔話だが――伝説、世間話をふくむ民話は再話の際にはほとんど昔話の形態で再話されている――、昔話はその単純な形態の中にぎっしりとかつての日本、先祖の経験をたくわえこんで現在につながるものであった。複雑化した現代、迷う人々にむかって民話再話は集約された先祖の経験を語り、生き方につながるものを語る。
 さらに民話はその表現においてことばの問題とかかわりがある。現代のことばは分裂している。たとえば民主主義とういことばとその実体とには大きなへだたりがある。週刊誌上で刺戟的なことばははんらんするが、その実質はいかにも小さい。またそれとつながって、ことばの持つリアリティが人びとのあいだで分裂している。学生用語は一般にむけてはリアリティを持たず、子どもの生活とおとなの生活のちがいもまたリアリティのちがいを生み出している。言語不通の現象はいつの時代にもあることだが、その差が大きすぎるのが六〇年代後半以後の時代を象徴するものではなかろうか。語り口ということばの下に 民話の表現がむかえられたのも、その表現に分裂しないリアリティがあったからだと思う。
このように民話再話がむかえられる条件があったのだが、さらにもう一つつけ加えなければならないのは、映像及び映像的感覚のことである。この問題は絵本の読みとりとかかわりあう。ここでいう映像は人間の心の中のイメージはふくまず、テレビ、映画、絵、漫画等、人間の外部にあって人間のつくり出したイメージの総称である。この映像はいまいったことばの分裂をのりこえる可能性を持っている。すぐれたイメージにはことば以前、概念以前のものがあるからだ。ことばは多くの場合意味づけようとするが、映像は意味以前、そこからもろもろの意味を生み出すものを内包している。映像は内包しているそのものによって、見る者の心だけではなくからだにも働きかける。そして、それほど上等ではない映像も擬似的にはこの機能を保持している。
 映像はふつう見ればわかるものと考えられているが実は、人間が人間社会で育たなければことばも習得できないように、映像のないところでは映像の読みとりは不可能である。「八郎」にひきつけていうと、五二年のマスコミの主役はテレビではなくラジオであったが、六七年にはテレビの受信契約数は二千万を越え、テレビは日本の大多数の家庭に行きわたった。一方五九年には少年週刊誌が創刊され、漫画とテレビの映像が人びとの身近なものとなり、雑誌も視覚化し、映像的なものが町に溢れるようになった。人びとは自然に映像的感覚を身につけた。それ以前、表現、伝達の主役は活字であり、いまでもその地位はくずれたとは思えないが、六七年では人びとは映像による表現、伝達も読みとるようになってきていた。
絵本にしぼっていえば、「岩波子どもの本」、福音館の絵本がその読みとりの地ならしをしてきた。そこへ「むかしむかし絵本」があらわれ、『絵本・八郎』が出現したのである。

3 二冊の絵本をめぐって

 民話再話を求めたのも、ことばの分裂をのりこえる絵を求めたのも、一種不安な状況から生まれた声であった。もっともこれは声なき声、潜在的な要求である。この潜在的な要求にぴたっと答えたのが『絵本・八郎』であった。
民話は伝承の過程で、古いものの上に新しいものが積み重なり、理解不可能な面も出てくる。またあまりにも豊かな内容が、さまざまな解釈をよびおこし、かえって現代の読者の直接的な反応をさまたげる原因ともなる。「八郎」はそれに対して昔話の単純な形態と表現とを保持しながら、昔話の複雑な要素を切りすて、その内容を人間としての主人公のありようにしぼったものであった。「八郎」は再話より簡明直截に人間のありよう、人間の原理を示したのである。人びとはいわば熱狂的に『絵本・八郎』をむかえ入れた。
 この際、滝平二郎の絵においては、その“原理”はどのように視覚化されたのか。まず第一に、滝平のやはり単純化された切り絵の技法が“原理”の強調としての効果をあげた。白地に黒――といっても単純な黒ではないが――の対比もやはり同様の効果をあげる。
 しかし、決定的な効果は以上のようなことからもたらされたものではない。「八郎」のように、文の作者と画家がちがっていて、先に完成した文があって大はばな修正も不可能な際、画家はその文からよびおこされた自らのイメージによって、文の内容を視覚化していくことになる。そのイメージのありようを、滝平は、あるいはこの絵本の編集者は、やはり“原理”としてとらえたと思う。その視覚化においてさまざまな色彩を使うこともできるし、八郎が住む山をかくこともできるが、多色の色彩はすてられ、画面にえがかれるものは最小限にとどまった。
 このイメージのありようの次には、イメージそのものがくる。もちろん画家の発想の段階はこのように順序を追うものではなくこちらが順序づけていっただけのことだが、滝平による八郎は斎藤隆介の八郎の諸要素をさらに切りすて、今日のぼくたちが失った肉体的原理の具現者としてあらわれる。ぼくは先生や保母さんたちが『絵本・八郎』について「すごーい迫力」と感嘆することばをもらすのを何度もきいたが、その迫力は八郎の盛りあがった胸、大きな顔、それらによる肉体的迫力だ。そして、たとえば隆介の八郎は「バカケなやつ」だが、この「バカケなやつ」という要素は切り落とされる。
 そして、この肉体的原理の強調によって大型絵本であることが生きる。ぼくは「八郎」以後の日本の大型絵本にほとんどその必然性を感じないが、「八郎」ではその絵と判型が緊密に結びついている。
 この肉体的原理、それは本来は頭脳労働と肉体労働とがまだなお分化していない統一体への回帰であったはずだと思うが、滝平の絵はそのようにはならなかった。むしろ力と肉体への強調となっていった。この強調は個々の絵だけによるものではない。第一場面の全身像が第二場面では上半身の像になって、見る者にぐっとせまり、第三場面では顔と頭だけクローズアップされる。この展開がいっそうの迫力を感じさせ、力と肉体とをさらに前面におし出すのである。
 この展開は一般的にいって福音館絵本の展開とはちがう。福音館の多くの絵本は古典的な展開のしかたをとる。読者と画面の距離はページをくってもかわらず、読者とつねに一定の距離をもって物語の世界は展開していくのだが、「八郎」は読者に接近し、また離れていく。この展開は意外性を中心とするもので、むしろ劇画の展開に近い。すでにその第一場面のすっくと立った巨人――というより英雄風な――八郎の姿に読者はおどろき、その迫力に一種のショックを受けて、この絵本の世界にひきずりこまれていくのである。
 一口にいえば、この絵本は肉体的原理のイメージによって迫力を出し、その迫力によって原理を語る、という方法をとった。そして、迫力もまた、いわばのっぺらぼうの今日の社会では人びとの望むものである。迫力と原理、この両者をかねあわせることによってこの絵本は多数の人びとのものとなった。一種不安な状況の中で人びとは力と原理とを求めていたのである。

 「八郎」は迫力により、「花さき山」は土俗化した浄土思想により、それぞれ多数の人びとのものになったが、ここでいう“人びと”は子どもではなくおとなのことである。この二冊の絵本を自分自身のものとして受けとるおとなが多数いたのである。『絵本・八郎』『絵本・花さき山』が読書運動を進めていく有力な作品になったのは、そこに原因がある。
 「こうした絵本があるのねえ、絵本といったら、みんなおなじようなものだとばっかり思ったけど」
こういう母親の嘆声をぼくは何度か聞いてきた。『ぐりとぐら』や『てぶくろ』でも、こういう声が出ないわけではない。しかし、それには説明が必要であったり、また声が出ても少数であった。だが、『絵本・八郎』『絵本・花さき山』には説明がいらない。「八郎」の文についての質問は出ても、絵は二冊とも見るだけで多くの人の感嘆の声があがってくるのである。
 そして、「絵本といったら、みんなおなじようなものだと思っていた」と、不特定多数の母親がいう絵本、それはどういう絵本かと聞いていくと、小学館の名作絵本に代表される絵本――本屋の店先のくるくるまわる筒にはいっているので円筒絵本とよばれたり、また定価が安いので百円絵本ともよばれたりする絵本であった。この絵本群と明瞭に対立しあう絵本として、『絵本・八郎』と『絵本・花さき山』は母親たちに印象づけられたのである。先にいった『ぐりとぐら』や『てぶくろ』ではそうはいかないのである。
 ではなぜ『絵本・八郎』『絵本・花さき山』は名作絵本と対立しあうものとして受けとられたのか。「八郎」にある白黒の単純な描き方、「花さき山」の黒地の中の花、こうした手法は名作絵本のいわばべったりぬった手法とはあきらかに対照的である。
しかし、いったいそれだけなのか。ここで、もう一度『絵本・花さき山』にあった浄土のことをふりかえってみよう。地獄極楽の思想、というより先祖以来、心の深層の記憶にある地獄極楽、これは多数の日本人に普遍的なものである。そのうずもれた記憶にむかって『絵本・花さき山』は訴えかけ、「やさしいことを すれば 花がさく」と浄土を約束した。
 この土俗化した浄土思想はことに庶民のものであり、庶民のおじいさんが孫のみやげに買う絵本は名作絵本なのである。いま名作絵本を買う層は昔なら地獄極楽ののぞき絵に心をおどらせた層なのではないか。『絵本・花さき山』と名作絵本は実は同一の基盤の上に成り立っている。だから「花さき山」は見ただけでわかるのであり、また、だからこそ名作絵本と対立しあう。『ぐりとぐら』や『てぶくろ』は名作絵本とは成り立つ基盤のちがう別世界のもので、対立のしようもないのである。
 そして、『絵本・八郎』も「花さき山」と同様に、名作絵本とおなじ基盤の上に成り立っている。一種のショックにはじまり、迫力と意外さによる展開を、ぼくは先に劇画の展開に近いといったが、地獄極楽ののぞき絵の展開もそうであり、街頭紙芝居もまたそうであった。
 誤解のないようにいいそえておくと、劇画に近く、街頭紙芝居に近いということは、別に価値が低いということではない。それは価値とはかかわりのないことである。ここで『絵本・八郎』『絵本・花さき山』が読書運動の上ではたした役割を整理しておくと、おとながこの二冊の絵本を自分自身のものとして受けとり、絵本を認識し直したということが第一。名作絵本の明瞭な対立物として人びとの目をひらかせた、ということが第二である。
 では、ぼくにこの二冊の絵本に対しての批判がないのかといえば、そうではない。『絵本・花さき山』について保留しておいたことをここでいっておこう。この物語が頂点にたっしたところ、「色とりどりの花が一面に咲くこの場面は華麗である」とぼくは先に書いたところだが、二つの絵を繰り返し見ているうちに、ぼくのなかにはさびしさがこみあげてくるようになった。この花さき山はなんというさびしさだろう。人ひとり、鳥一羽、姿を見せず、ただ花々が並び立つ。
 ぼくのなかには、やはり子どものときに出会った一つの情景がうかびあがる。まっさおな空の下、人気のない墓地にマンジュシャゲの花がむらがり燃え立つ情景だ。『絵本・花さき山』の闇にはじまった画面の黒は、ここで死の黒と転化し、花々は墓標となる。この絵本の背後には死のイメージがある。
 注をつけると、これもまた価値判断ではない。呪術があろうと、死のイメージがあろうと、それはそれでかまわないのである。むしろ問題は浄土や死をどこまで追いつめたか、ということである。
 またぼくにひきつけていうと、墓石のあいだをうずめたマンジュシャゲの花々は、花さき山一面の花とは等質のものではない。何気なく墓地にはいり、しんと燃え立つマンジュシャゲのむれの中で異様な恐怖を感じ、一時立ちすくみ、わっとにげ出したぼくに、畑から道に出てきた年よりはいった。「お墓の花は取るなよ。死人のあぶらでふとった花じゃけんの」。
 いま思えば、あの畑の中の墓地は土葬の墓地であった。人が死に土にうずもれ、その上に花が咲く、人ひとり、鳥一羽、姿を見せない花さき山をぼくはさびしいといった。人をかけ、鳥をかけということではない。大地は死者の行く国であり、同時に生命の吹き出る根源であった。そこに根ざす花は大地の性質を分け持っているはずである。
滝平二郎はこの花――「死人のあぶらでふとった花」に近づいた。しかし、その接近はぼくが何気なく墓地にはいりこんだように、自覚しないままの接近ではなかったろうか。ぼくは逃げ出し、滝平は死人の花に近づいたことを知らず、その花を取らずに帰ってしまったのではなかろうか。
 ぼくは八郎の迫力よりも、その迫力のかげに見えかくれしていた頭脳と肉体の労働がまだなお分化していない統一体の方に心をひかれる。この人間の始原への回帰と、浄土という土俗への接触はいまからのちの滝平の世界でどのように深まっていくのだろうか。ここであらためて呪術による展開が問題となるかもしれない。もしかしたらのことだが、花を取るには呪術以外の道すじを通らなければならないのかもしれないのだ。

4 商品の時代

 六七年からはじまった日本の絵本の世界の変化――それを箇条書き風にいうと、第一は絵本の市民権の獲得、第二には絵本の商品化、第三は画家の個性と権利の主張であり、第四には絵本出版の拡散、第五には民話絵本と民話風絵本が絵本出版の中心となったこと、第六は評価の基準の混乱である。
 この変化の中でポプラ社の「むかしむかし絵本」シリーズの果たした役割は大きい。このシリーズの成功が各社を刺戟して、その後の絵本が出版の状況をつくり出し、いまいったような変化をもたらしたともいえそうだ。一冊の絵本としては『八郎』が同様の役割を果たしたと思う。
 「むかしむかし絵本」の成功の原因は、一応二つにわけて考えることができると思う。一つは、さきにいったように民話むかえいれの条件要望があるところへ、シリーズ全体にわたって、その要望に答えるだけの質を持った民話再話をほぼそろえ得たことである。もう一つはその中に数点、絵・文ともにすぐれたものがあったことである。
 それを背景に『絵本・八郎』を中心にしていうと、『絵本・八郎』がおとなの読者にむかえ入れられたことは、先の箇条書きの条項では「絵本の市民権の獲得」とつながる。『絵本・八郎』を自分自身のものとして受けとったおとなは、あらためてほかの絵本を見なおし、絵本はいわゆる子どもだましの消耗品ではないことに気がついた。
 同様のことが「むかしむかし絵本」の数点についてもいえる。そして、それは「絵本の商品化」とつながる。この「商品化」は二つの意味を持っている。一つは悪い意味の商品化で、質にはかまわず規格品を生産して売る、ということである。もう一つはよい意味での商品化――商品化というより商品価値の正当な認識である。「絵本の市民権の獲得」はこの後者、商品価値の認識とつながる。絵本にそれだけの価値を認めるなら、何百円かの絵本でも金をはらって買ってもおしくはないのである。
そして、そのことが悪い意味の商品化と結びつく、需要があるところそれにむかって企業は生産する古典的な道すじを通って、質の低いものも商品として売り出されるようになる。これは一般的現象だが、絵本の場合、以上二つの意味の商品化をめぐって、絵本出版自体の問題がおこることになった。それはシリーズによる判型、ページ数の一定化であり、また完成した文が絵に先行することであり、三つめにはその出版が民話絵本、民和風絵本に集中していくことである。
 もともと絵本の判型が一定でないことは、福音館の絵本出版によってはっきりしてきていた。それがそうでなくなる、というより絵本出版の量が増大したため、比率からいって相対的に自由な判型の絵本がへってきた。文が絵に先行すること、また  民話及び民話風絵本に集中することも、やはり相対的な比率の問題でもある。
しかし、それは比率の問題でやがてはかたづくもの、ということだけではすまされそうにもない。“やがてかたづく”ためにはそのための努力が必要なのだが、その努力がどこまで行なわれているのか、どうか。
 ここでぼくは絵本の世界がまだなお過渡期、新しいものが生まれてくる以前にあることを痛感する。判型についてのことだが、もともと物語内容も画家の個性も一定の判型におしこめられるものではない。絵本の市民権の獲得は画家が自由に自分の絵をかくことと、従来不当に低く扱われてきた画家の権利の主張をもたらしたが、画家が自由に自分の絵をかくにつれ、かえってその判型との矛盾が目につくようになってきている。
 そして、過渡期の印象をいっそう強くさせるのは、ひとりの作者が文と絵をかく、本来の意味での絵本作家がまだ少なく、その試みはあちこちにあっても、なかなか成功し得ないということだ。
 民話絵本への集中もまた絵本の発展との矛盾をつくり出しかねない。黒沢浩は福音館とポプラ社と二冊の『ちからたろう』と比較した数字の中で、「まず、民話絵本では文表現の的確さの良し悪しに相当比重があるといえる」(『季刊・子どもの本棚』2号)といっている。ぼくも同感なのだが、民話は本来耳できいたものだ。民話再話の完成した形は絵を必然としないものであるとも考えられるのだ。とすれば、民話絵本の必然性はどのようになるのか。
 さらに評価の混乱がある。絵本の商品化は出版量の増大をもたらし、出版される絵本の質の低下もおこしているが、一方読書運動の進展は商品としての絵本を消化していく。この際、評価の基準がまだなお文によりかかる場合が多い。そして、絵についても田島征三の『ちからたろう』について次のような報告がある。十七人の母親のうち、田島の『ちからたろう』の支持者は七人であり、支持しない理由の一つに「幼稚で、しかもオーバー気味」という意見がある。一方子どもたち五十一人については、田島支持四十八人。(清水美千子「日本児童文学臨時増刊絵本」)
 この母親たちと同様の意見を、この田島『ちからたろう』が出た当時、ぼくは読書運動に熱心な先生からきいたことがある。この先生は子どもたちの反応にびっくりし、その意見をかえたが、こうして評価はまだまだ混乱している。
こうした様相が出てきて、いまや六七年以前のように絵本の主流というのがない。福音館書店のめざした方向がよかったかどうか、その道すじでは今日ほどの絵本のひろがりはなかったと思うが、いまのようなひろがりっぱなしで、果たしてよいのかどうか。もしも今日の絵本の世界の様相を“繁栄”と見るなら、この“繁栄”は福音館の努力に負うところが多い。しかし、それは田島征三のことばによると「福音館の路線につぎ木」したものであり、そのつぎ目になったものは、福音館書店発行の『絵本・八郎』であったと思う。
(『月刊絵本』一九七三年三月号)
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