『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

 現代児童文学史への視点
 1時代区分・時期区分
 「現代」ということばは「現在」ということばとはちがう。「現代」ということばは歴史意識に支えられている。この歴史意識は前代との質的な差を今日の時代が持っている前代とはちがった発展段階に立っている、という認識の上に成り立っている。ただし、文学の場合、この発展段階のちがいは前代より後代の方がすぐれているという意味ではない。この「現代」ということばに「史」がついた際、もう一つの歴史意識がはたらく。ここでは児童文学の領域のことなので、それにかぎっていえば、現代児童文学がはじまって以来の児童文学の発展・変化の道すじをたどることである。
 現代児童文学史(いうまでもなく日本に限定してのことだが)ということばを題名に含む、この小論のテーマは以上のことにしぼられる。すなわち現代児童文学を前代の児童文学とわかつものは何なのか、その変化はなぜおこったのか、またその後の歩みはいったいどうであったのか、ということである。しかし、「現代児童文学史」という題名ではなく「現代児童文学史への視点」としたのは、この小論が現代児童文学史の全体にわたるものではなく、その出発の時期に焦点をあてるものだからである。
 なぜ出発の時期に焦点をしぼるのか、その理由は現代とその時代とをわかつものを考えるには、その変化のおこった時期を対象とするのがもっともよいと思うからである。したがって本稿は前代の児童文学の特徴にもある程度立ち入ることになり、一方現代児童文学史の歩みについては大まかなアウトラインだけを提示することになる。
 まず、現代児童文学の起点はどこなのか、ということからはじめよう。横谷輝はいう。
 たとえば、「現代児童文学」を「戦後児童文学」と考えることもできるし、あるいはもっと息の長い物差しをもちいれば、「昭和児童文学」としてとらえることも可能であり、このことはそれほど不当なことでもない。かりに「現代児童文学」を「戦後児童文学」とイコールで結ぶとしても、そこには実に多くの問題が内包されていて、けっして単純に処理しうるものではないのである。(「児童文学の思想と方法」)
 横谷のいう長短の物差し、ここではぼくは短い物差しを使いたい。では、短い物差しを使う際、横谷指摘の「戦後児童文学」のことはどうなるのか。「戦後児童文学」ということばの用法の一例をあげると、上野瞭は『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる)を「戦後児童文学の記念碑的作品であるといえよう」(『戦後児童文学論』)という。この『だれも知らない小さな国』出版の年は昭和三十四年(一九五八)で、それについてぼくもまた次のようにいっている。「戦後児童文学が明瞭な変化を示したのは昭和三十四年のことである。」(『児童文学の旗』)
 この戦後児童文学と現代児童文学とは同一のものなのか、どうか。これは用語の問題だけでなく、短い物差しを使う場合の現代児童文学の起点の問題でもある。戦後児童文学と現代児童文学とが同一のものなら、現代児童文学の起点は昭和二十年(一九四五)八月十五日の敗戦の日におかれることになり、同一でなければ他に起点を求めなければならない。
 ここで参考になるのが、戦後の児童文学史の時期区分の諸説である。この時期区分の諸説については菅忠道がその労作『増補改訂・日本の児童文学』の中で、鳥越信・神宮輝夫・古田の三人の説を紹介しながら批判を加え、さらに鳥越が「児童文学研究・評論の歴史とその現代的意義について」(『日本児童文学史研究』所収)の中で反批判を行っている。ふたりの問題とするところは時代区分の基準だが、それは具体的には先にいった昭和三十四年をどう見るか、という問題である。
 菅は次のようにいっている。「鳥越・古田・神宮たち若い世代の評論家の児童文学戦後史観には、昭和三十四年の戦後派の新人登場が本質的な意味をもって位置づけられていることで、共通のパターンがある。その意味は、客観的にみても、たしかに重要である。しかし、その意味を重視して、そこから児童文学の戦後史が本格的にはじまるとみて、戦後の過程を大きく二つに区分することが妥当か、どうか。」
そして、菅は「児童文学戦後史の時代区分」を次のように設定した。
 第一期 敗戦の日から昭和二十年四月・平和条約発効まで。
 第二期 講和発効から、昭和三十五年五月・日米新安保条約の成立まで。
 第三期 新安保体制下の今日的状況の過程。
 この第三期の「今日的状況」は新安保条約成立から、菅野『増補改訂・日本の児童文学』が出た昭和四一年に至る期間の状況ということになる。
 一方、菅の批判対象の一つとなったぼくの時期区分もやはり三期である。
 第一期 敗戦の年から、昭和二十六年(一九五一)の『少年少女』の廃刊まで。
 第二期 以後数年間。
 第三期 昭和三十四年(一九五九)八月、『だれも知らない小さな国』出版から。
 これは昭和三十七年一一月発刊の『解釈と鑑賞』臨時増刊に書いたもの(『戦後児童文学史ノート』『児童文学の思想』所収)で、その当時のぼくの考えである。その時期区分の基準について、菅と争う気持ちはいまのぼくにはない。ここではとりあえず二つの考え方があること知っておいてもらえばよいと思う。
 いま示したぼくの時期区分はその後修正されていく。その修正の最大のものは、戦後児童文学史の第三期としたものを、現代児童文学史の第一期と考えるようになったことである。ぼく自身の評論史の上ではその時期は「昭和の児童文学」(成瀬正勝編著『昭和文学十四講』所収)を書いた昭和四十年ごろのことである。以後ぼくは戦後児童文学ということばと、現代児童文学ということばをまぜこぜにして使いながら、現在では昭和三十四年以降の児童文学を指すことばとしては現代児童文学を使っている。
 すなわち、現代児童文学史の起点はぼくにとっては昭和三十四年である。そして、それはおそらくぼくだけの意見ではないだろう。菅忠道のいった「戦後の過程を大きく二つに区分する」考えを持つ人びとは、今日ではやはり昭和三十四年を現代児童文学の起点と考えているのではないだろうか。
 では、昭和三十四年以前の戦後児童文学は日本児童文学史の中で、どのような時代区分にはいることになるのだろうか。それについては、ぼくは前記「昭和の児童文学」の中で、「保護された時代」という見出しの下に、戦中と戦後を一括して扱った。昭和十三年(一九三八)十月、内務省のいわゆる児童図書浄化措置が行われた時から昭和三十四年までを、一続きの時代としてぼくはとらえたのである。
 「保護された時代」ということばは、児童図書浄化措置ののち、文化統制・用紙統制が外因となっておこった戦中の児童文学の"隆盛現象"から生まれている。昭和十七、八年ごろの児童文学創作単行本の出版点数・部数はその後二十年間のどの年度よりもずばねけて量が多いはずである。その中には戦意高揚物も多いが、同時に平塚武二・関英雄・岡本良雄・新美南吉たちの最初の単行本出版もこの時期であった。なくなった新美をのぞいて、この昭和十七、八年組の児童文学者たちはそのまま戦後の児童文学の主役となっていく。そして、戦争直後はまた国民が文化に飢えていた時代であった。
 簡単にいうと、以上のような理由でぼくは戦中・戦後を一続きの時代としてとらえるのだが、それは同時に近代日本児童文学史全体の時代区分とかかわりあっている。児童文学は子どもの読む文学作品の総称だが、明治の時代、その主要なジャンル、または主要な呼称はお伽噺であった。それから童話、そして児童文学と呼称は変化していく。この呼称の変化が時代の変化であり、お伽噺は明治から大正前期、童話の時代は『赤い鳥』の創刊(大正七年・一九一八)から昭和三四年に至るまで、児童文学はそれ以降とぼくは考えている。
 そして、その童話の時代はたぶん四つの時期にわけられる。第一期は前期『赤い鳥』の休刊までで、童話・童謡の出発とその黄金時代である。ただこの内容としては童話の出発を『赤い鳥』と小川未明に代表させる従来の考えではなく、宮沢賢治を包みこんでの童話の出発の時代と考えたい。いままでの児童文学史ではふれられていないが、稲垣足穂の『星を売る店』の中の数編や、『一千一秒物語』などは童話、あるいはそれに近いものである。賢治童話は大正期児童文学の中で孤立しているものと見られているが、足穂の童話をあいだに置いてみると、孤立とはいい切れない。
 どうして孤立といい切れないのか。その実証が必要だが、ここではぼくがそう感じているということにとどめ、次に進むと、第二期は前期『赤い鳥』休刊以後、内務省「児童図書浄化措置」までで、坪田譲治のいう「冬の季節」であり、また宮沢賢治と『少年倶楽部』の時代である。『赤い鳥』の目標「子どものための芸術家」はこの時期、風雪に耐えた人びとのあいだからやがて出現する。
 その出現の時期が第三期である。これは「児童図書浄化措置」から敗戦に至る時期であり、出現したものは賢治・足穂の方向とはちがい、未明・『赤い鳥』の童話の系譜をつぐものであった。そして、この方向はそのまま第四期・戦後に流れこむ。
 もっとも、以上の時期区分もぼく自身のなかで、まだゆれ動いている。例をあげると、第二期のあとに"善太三平と生活童話の時代"を設定すべきかもしれない、という疑問がぼくのなかにある。この場合、内務省の「図書浄化措置」が時期区分の柱になるのではなく、昭和十年(一九三五)の坪田譲治『お化けの世界』から昭和十五、六年ごろまで、『少年倶楽部』の昭和一けた代の主要執筆メンバーが、誌上からほとんど姿を消すところに至ることになる。基礎になる資料がもっと整備され、研究が進むにつれ、いま述べた時代・時期区分も訂正されていくにちがいない。
ただ現在、ぼくは以上のように児童文学史の時代区分・時期区分を考えているのであり、児童文学の戦中・戦後が一続きの時代であるのは、ぼくにとっては両方とも"童話の時代"に属し、保護された時代とおなじ創作方法によって戦後の童話も書かれたからである。
 2一九六〇年前後の現象
 本田和子著『児童文化』(光生館)は、昭和三十四年〜三十五年の時期、日本の児童文学に二つの伝統批判があったことをしるしている。一つは昭和二十八年(一九五三)の早大童話会によるいわゆる「少年文学宣言」の趣旨の深まりであり、本田はそれをぼくの『現代児童文学論』に代表させている。もう一つは石井桃子・瀬田貞二たちの『子どもと文学』である。
 ぼくはこの二つのほかにもう一つの伝統批判をあげておきたい。それは佐藤忠男の「少年の理想主義についてー『少年倶楽部』の再評価」である。この「少年の理想主義について」は『思想の科学』(昭和三四・三)に発表されたが、同年九月、「さよなら未明」を主評論とするぼくの『現代児童文学論』が出ている。翌三十五年四月『子どもと文学』刊行。
 この三つの伝統批判はそれぞれ、よって立つ立場がちがっている。『子どもと文学』は「西欧の児童文学をモデルとして」(『児童文化』)の立場、「少年の理想主義について」は『少年倶楽部』の大衆児童文学こそ日本児童文学の主流であった。あるべきだとする立場から、それぞれ過去の日本の児童文学に批判を加えた。では、『現代児童文学論』の立場は何であったかといえば、これは伝統内部からの伝統批判であったと思う。そのためもあって『現代児童文学論』は他の二者のように、具体的なモデルないしはモデルに近いものを提出し得なかった。もっとも、ぼくはそのことをあやまちとは思わない。むしろ当然のことなのであって、悔いが残るのは、『現代児童文学論』中の矛盾錯綜した主張をもう一つ高めた形で出し得なかったことである。
 ぼくは先に『子どもと文学』と「少年の理想主義について」が、「それぞれ過去の日本の児童文学に批判を加えた」と書いたが、これだけでは表現が不正確である。三つの伝統批判は、当時の児童文学と児童文学観の質的転換を主張し、またその実現をはかったのである。
 そのほか、もうすこし昭和三十五年前後の現象をあげておきたい。三つの伝統批判は評論・研究のかたちをとってあらわれたが、昭和三十四年はいうまでもなく『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる)『木かげの家の小人たち』(いぬいとみこ)ほか、新しい創作出版の年であった。
 この年刊行の創作の中に塚原健次郎の『風と花の輪』がある。この本は最初予約注文によって塚原個人が刊行する計画であった。五〇年代後半のいわゆる児童文学の慢性的不況の時代は徐々に過ぎ去ろうとしていたが、それでも創作出版はまだなお困難であった。そこで塚原は予約制・個人出版という計画を立てたのである。それを知って理論社社長小宮山量平は『風と花の輪』を同社から刊行することにした。三十四年十月、『風と花の輪』は斎藤了一『荒野の魂』と共に、理論社の創作児童文学シリーズの第一冊めとして出版されたのであった。この年、創作出版は可能になったのである。
 元来、表現の多くは表現しただけでは完結しない。書いて机のひき出しにしまいこんでおいたのでは表現意欲はみたされない。それが読者の手にわたり、さらにその反応が返ってきて、表現意欲はみたされるのである。ことに児童文学の場合、そうである。出版社の機能の第一は作品の複製を本としてつくることだが、第二にはその複製を読者の手のとどくところまで送ることである。児童文学の創作出版がふたたび可能になったということは、書かれた作品が読者の手にわたるシステムが、ふたたびできあがったということである。
 そして、このシステムはいうまでもなく資本主義社会のシステムであって、ここでは本は商品としての要素を持つ。この社会では本を読者に送りとどけるルートは、本が商品となって商品流通のルートにのることである。それまで、創作児童文学は断続的にそのシステムを手に入れ、また失ってきた。創作児童文学は固有の価値として認められなかったからである。
 だから、創作児童文学が読者の手にわたるシステムを手に入れたということは、一面ではその文化的価値が商品価値として認められはじめたということであり、一面では商品生産のシステムにとり入れられる危機性を持つ道すじを歩みはじめた、ということでもある。この変化は児童文学そのものの変化ではないが、児童文学と直接かかわりあう外部の変化として重要である。
 一方、この三十四年は児童週刊誌創刊の年でもあった。この年四月に『少年マガジン』『少年サンデー』両誌がスタートを切る。創作児童文学の商品価値獲得はいわば"近代的"なできごとだが、大量生産の週刊誌発刊はきわめて"現代"的なできごとであった。
 またこの昭和三十五年前後の時期は読書運動の出発の時期であった。昭和三十四年、当時鹿児島県立図書館長であった椋鳩十は「母と子の二十分間読書」を提唱して、鹿児島の一小学校で一年間その実験を試み、昭和三十五年四月からはそれを全県下で実施する。のちに親子読書・親子読書会運動として発展していくものの芽生えである。
 一方、東京で石井桃子が自宅の一室に家庭文庫「かつら文庫」をひらいたのは、昭和三十三年三月のことであり、昭和三十五年六月にはその中間報告をかねた『子どもの読書の導きかた』(国土社)が出版された。のち、「かつら文庫」の実践は昭和四十年の岩波新書『子どもの図書館』でくわしく報告され、家庭文庫・地域文庫の運動は親子読書・親子読書会と共に読書運動の二本の柱になっていくが、その出発もまたこの時期であった。そして、「子どもの読書の導きかた」は『子どもと文学』と共に、古い児童文学観への挑戦であった。
 この2冊の本は、児童文学の読書である子どもの立場をはっきり主張している。子どもは本をどのように読むのかということが、『子どもと文学』では原則的にしるされ、「子どもの読書の導きかた」では実態として報告された。これは当然、児童観につながるものである。この二冊の本が提示した児童観は、子どもは本をたのしむもの、という児童観であったといえよう。今日でもまだなお、子どもに本を読ませる理由として、読書は子どもの成長に役だつから、ということがあげられる。そこから見れば、子どもは本をたのしむ、という児童観は当時ではいっそう新しいものであった。おとなが小説をたのしむように、子どもも子どもの本をたのしむのであり、これは子どもをおとなと同等の人格として見る児童観であった。ただこの二冊の本の児童観は読書に関係する部分だけにかぎられている。
 阿部進の『現代子ども気質』が出たのは、その翌年昭和三十六年のことであり、いわゆる「現代っ子」のありかたを示して、全面的に子どもの実態と児童観の問題を提出した。だが、阿部自身、子どもの伝統的なありかたでさえも新しい現象としてしまう錯覚があり、またあるべき姿といまある姿との混同があり、「変わり身の早さ」―状況への適応を「現代っ子」とするに及んで、この問題は深められないまま消えていく。しかし、子どもと児童観の問題が出てきたのも、やはりこの時期であり、『現代子ども気質』は新しい児童観をたずねる動きの一つであったといえよう。
 昭和三十五年の日米新安保条約の成立をまん中にして、その前後の児童文学と、児童文学にかかわりあうおもな現象は以上のようなものであった。
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