『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

3「童話」とは何か
 本田和子が「転機は、昭和28年に訪れた。早大童話会による『少年文学宣言』が新しい季節の訪れを告げたのである」という、その「少年文学宣言」は一般には「童話」か「小説」かという二者択一的なものとして受けとられた。この宣言は一口にいえば、「童話」を克服し、「少年小説を主流としたもの」を目指すという表現をとっていたからである。
 その結果について、神宮輝夫は昭和42年に次のようにいっている。「戦後すぐに出たこうした作品と、『誰も知らない小さな国』(以下作品名省略)などの間には、34年以後を真の戦後とよべる決定的なちがいがあっただろうか。一つ明瞭なちがいがある。物語の展開の中で人物が浮きぼりにされ、成長しつつテーマを語る点、つまり主題が抽象化されず、主題に至るプロセスが語られた点がそれである。日本の児童文学の大勢が童話という形式から小説にうつったのである。(中略)だから、わたしは、昭和34年を、童話形式の破綻と本来の機能への縮小及び小説の誕生という児童文学の画期的変化の年と考えたい」(昭和42年・10『日本児童文学』)
 その翌年、神宮は「物語の展開の中で人物が浮きぼりにされ」、「主題に至るプロセス」がほんとうに語られたかどうかについて、意見変更を行ない、決定的な疑いをさしはさむのだが、その意見変更も「童話形式の破綻と本来の機能への縮小及び小説の誕生」という、現代児童文学の動きについての変更ではない。どこまで実現したかどうかを別にして、神宮は「童話」「小説」の動きをこのように見たのである。
 大勢は神宮のいう通りだが、もう一歩つっこんで、では「童話」とは何か、「小説」とは何か、ということになると、ことはめんどうになる。『誰も知らない小さな国』は一般感覚では「小説」ではなく、むしろ「童話」に近い。さかのぼると、これは「少年文学宣言」以来の問題であり、したがってそれにつながる『現代児童文学論』の問題の一つでもあった。
 現在、「童話」ということばは、ほぼ次のように使われていると思う。(1)児童文学の総称(2)児童文学の一ジャンル(3)おとなと子ども、両方の文学に通じる一ジャンル(4)民話・説話が子どもむきに語りなおされたもの(5)寓話が子どもむきに語りなおされたもの(6)幼年対象の物語である。
 そして、児童文学の一ジャンルのなかの実体としては、日本児童文学にかぎっていうと、ほぼ次のようにわかれるだろう。(1)民話・説話に素材を求め、その形態が昔話に近いもの。宇野浩二『春を告げる鳥』や芥川龍之介『蜘蛛の糸』など、大正期文壇作家の童話の多くや、新美南吉『ごんぎつね』などがこれにはいる。(2)非現実の世界で話が展開し、象徴性に富んだもの。未明・広介の童話に代表される。(3)宮沢賢治の童話 (4)千葉省三の作品中、『虎ちゃんの日記』に代表される、子どもの現実生活を書いたもの (5)塚原健二郎・槇本楠郎・川崎大治などの集団主義童話と生活童話(6)坪田譲治の善太三平物 (7)与田準一の作品 (8)おとなの生活をいわば世間物ふうに語ったもので、新美南吉『牛をつないだツバキの木』などに代表される。壺井栄の短編もこれにはいるものが多い。(9)現実生活を書いたもので、塚原健二郎の戦後の作品、平塚武二・関英雄・岡本良雄などの作品。この特徴はリアルな世界を書きながら、現実感よりも作者の感情で作品全体が色づけられている、とでもいおうか。(10)現代の童話。斉藤隆介の諸作や、それとは質がちがうが今江祥智の短編に代されるもの。また安房直子・あまんきみこの作品。
 この分類は一応の目安にしかすぎないが、現代の児童文学研究では神宮の『童話への招待』(日本放送出版協会)をのぞいては、まだ「童話」の概念規定・内容規定が不十分なので、とりあえず出しておく。なお(1)から(10)に至る順序は日本の「童話」発展の順序にほぼ沿っている。
 ここで「童話」成立の時期に目をむけてみると、ぼくはやはり昭和34年、次のように書いた。
「およそ、いかなる国でも子どもの読物は、まず伝承されてきた説話であり、その説話の子ども向け再話から児童文学がはじまる。ベロー・グリム・アファナーシェフ、そしてアンデルセンの初期のものが、民話に取材していることを考えあわせよう。日本では、巌谷小波がまずそのしごとをやったわけだが、(中略) 大正初期の児童文学は小波の江戸小説的なものをすてて、彼のしごとのやり直しという面を持っている。未明・広介、また宮沢賢治のしごとを除く当時の作品を見れば、それらは、ほとんど説話的なものである」。「内容のめずらしさを越えて、説話は発展していこうとした。宇野浩二・芥川龍之介の作品は説話発展の方向に向かっており、それとはちがった角度から、秋田雨雀・浜田広介は説話の変革を行い、それは広介において完成された、とぼくは思っている」。
「雨雀が広介の『花びらの旅』を読んで、日本にもこういう童話を書く人が出たかと感嘆したということは、象徴的な意味がある。物語そのもののおもしろさを失った詩的メルヘンが、以後、日本の児童文学の主流に置かれるようになる。」「大正期児童文学は説話文学の発展の時期であり、説話は十分な開花を見ないうちに、未明を中心とする詩的メルヘンの敗北する。それと共に、空想と物語への可能性も、芽生えのまま立ち枯れたのである」(以上「童心主義の諸問題」『児童文学の思想』所収)。
 神宮輝夫は児童文学の発展段階として、「神話・伝説・昔話の子ども向け再話からリテラリイ・フェアリイ・テイルズへ、そしてファンタシーやリアリスティックな小説へ」(『童話への招待』)というパターンを提示した。この第二段階がわが国ではじまる時、二種類のリテラリイ・フェアリイ・テイルズがあった。いま述べた宇野浩二的なものと、未明・広介的なものであり、このうち後者の方、ことに未明的なものが主流となっていく。“主流”ということの意味は、その後の創作者たちの
多くが未明童話の内容・形態・方法を継承・発展させていった。また継承問題ではないが(具体的には与田準一に代表されると思うが)、未明とほぼ同様の発想で創作する人たちが童話作家となった、ということの意味である。
 では、なぜ未明的なものが主流となったのか。意外にその原因は究明されていないが、それは説話のあとを明瞭に残した作品群とはちがって、未明童話が新しい形態と内容とを持つ魅力的なもの
であったからではなかろうか。神秘的なものを奥にたたえて、社会主義思想や憧憬が象徴的に美の世界で語られる−未明は昔話風童話とは異質の新しい「童話」を創作したのであった。
 もとにもどると、昭和34年当時ぼくが問題にしたのは、この未明童話を中心とし、部分的に広介に及び、前期「童話」分類の(5)の「生活童話」、(9)の戦後の「童話」にまたがるものであった。問題意識としては、(9)から出発して(2)に至っている。50年代の児童文学のいわゆる慢性的不況の原因を児童文学の内部に求める時、まだ目の前にあるものはHであり、それは読者に受け入れられず、またぼくたちにとってもあきたりないものであった。その原因をたずねて、ぼくはAにさかのぼる。(9)は現象的には(2)とはちがうが、本質的にはちがっていないのではないか、という疑いからである。そして、(2)(5)(9)は日本の児童文学のいわば主流であった。
 のち、神宮輝夫はその著『児童文学への招待』で次のようにいう。
(日本の児童文学)は、空想の童話においては、理想の子どもを読者と予想して、作者の思想を美の世界でかたって提出した。リアルな童話においては、理想の子どもたちが活躍する、現実より可能性の多い世界を読者に提示した。ともに作者の理想を表現しようとする一種の夢の世界であり、それを最初に創造したのは小川未明である。だから、終戦までの日本の児童文学は、小川未明のヴァリエーション、つまり、メルヘンのヴァリエーションということができる。換言すれば、終戦までの日本児童文学は、小川未明の傘の下にあったといえる。

 神宮がこう書いたのは昭和45年のことであり、いわゆる未明論争よりざっと十年後のことだから
冷静な観察がある。ここで神宮が指摘しているのは、未明童話のひろがりと、その本質が「作者の理想を表現しようとする一種の夢の世界」であったことである。
 ぼくは昭和34年当時こういった。「つまり、童話の本質は呪文であり、未明以下立原えりかに至る童話作家群は呪術者の群れである。」「共同体との交流を失った彼らは、密室においてひとり呪文を唱える。この私的な呪文には過去の呪術の跡が残っている。日常性の世界を越えて行く高揚したことばと、陶酔である。人びとを共感の世界にさそいこむには、まず呪術者自身の呪術への没入が必要であった。はげしい精神集中が行なわれ、彼をとじこめている暗い壁を変容してくる、みじめな現実は胡蝶の飛ぶ月夜となり、赤いろうそくが波間をただよう。すべてことばが呼びおこしたものであった。彼自身、呪文にかけられたのである」。「調和の世界・願いの世界は呪文によって現出した・(中略)あるべき場を失った私的な呪文・自己完結的なシンボルの世界として日本近代童話は性格づけられる。佐藤紅緑が理想実現のための少年像を描くのに対して、童話作家はそれ自身完了し、とじられた世界を書いたのである。紅緑の少年小説はいわば手段であったが、童話は目的そのものと化してしまう。美が書かれ、あこがれが書かれたゆえんであった。」(「さよなら未明」『現代児童文学論』所収)。
 外部の事象を内面世界に還元し、呪文によって、願いの世界に改変し、その世界を現出させること−これが当時のぼくのとらえた(2)の「童話」(これをぼくは「詩的メルヘン」と呼び、また「象徴童話」と呼んだ)の本質であった。
「象徴童話」は密室−とじられた世界の呪文である。と当時のぼくは考えた。呪文のことばは日常のことばとはちがう。ぼくは「赤い蝋燭と人魚」の書き出しの部分についてこういった。「ここでは『北方』は『海』を限定することばではない。逆に、その日常的な意味を離れて、無限定な広がりを見せている。そして、海も波も人魚に対して敵意を持つように書かれているのである」(「さよなら未明」)。
“童話は詩である”ということばをだれがいいはじめたのか知らないが、それはいまいったようなことばの使いかたにおいて詩である。そして、「詩」は往々、情緒的、感傷的なもののように受けとられる。密室の呪文が堕落し、強烈な主体の支えを失った時、情緒的ムードに自ら陶酔してしまう自己満足の「童話」が生まれる。50年代後半、ぼくは婦人雑誌の投稿童話を見る機会があったが、この投稿童話にはそうした作品が多かったし、現在にもこのありかたは尾を引いている。「象徴童話」の末流が情緒的自己陶酔におちいってしまうところには、あきらかに”子ども不在”がある。その“子ども不在”の原因はやはり「象徴童話」にさかのぼることができる。「未明に始まる日本の近代童話」はその出発の時期、「人類の永遠の童心に訴えるもの」で、「かならずしも子どもを対象としたものではない」とその作者たちも唱え、その実質もそうだったからである。
 その実質というのは、暗いさびしい海の底での人魚の孤独、また広介の『一つの願い』中の街灯の孤独、これらがどこまで子どもに理解できるのか、むしろ、これらは人生経験を重ねたおとなにこそ理解できるのではないか、ということである。もちろん、そうしたことを子ども読者も感じることはできる。しかし、なかなか意味理解には至らない。
 作品のこの実質と、作者たちの「かならずしも子どもを対象としたものではない」という自覚的主張、この二つをあわせ考えた時、大正期の「象徴童話」は「未分化の児童文学」であり、むしろ大正期の文学全体の中の一つの動きと見るべきであろう。稲垣足穂を児童文学史の射程にいれなければならないのは、一つにはこの理由による。
 この未分化の児童文学は、時代のうつりかわりとともに、子どものがわに近づいていこうとする。 
それは子どもの現実への接近をともない、昭和10年前後に坪田譲治の善太三平ものや、川崎大治の『夕焼けの雲の下』を生むことになる。川崎大治について神宮はいう。「彼の作品はリアリズムの短編小説といえるはずなのだが、やはり童話がふさわしい。というのは、底に抵抗精神をひめた彼の作品にも、譲治や朝彦などと同様の抒情がながれているからであり、登場人物が、リアルでありながら、やはり一種の理想像だからである。」(『童話への招待』)。
 これについてぼくは大すじでは賛成であり、部分的には譲治を抒情とするところには賛成できない。譲治ははるかに複雑な存在であり、たとえば短編「魔法」の背後にぼくは死を感じている。譲治の特質はぼくにとっては、むしろ私小説的観察者である。
 もう一つ、これは賛同できないというのではなく、ここに出てきた神宮の意見を手がかりにもう一歩進みたいということになるのだが、登場人物を「一種の理想像」とするところは、先に引用した「作者の理想を表現しようとする一種の夢の世界」という方が正解なのではないか。「像」ということばの解釈にもよるが、理想像というのを、理想の人物であることと、その人物像がくっきり出ていることの結びつきを考えると、『夕焼けの雲の下』の辰たちは「像」を結ぶには至っていない。世界児童文学の中で見れば、ハイジも小公子も理想像であった。このふたりの人物がりんかくあざやかに作品中から立ちあらわれるのに対して、辰や末治たちはそうはいかないのである。
 この「像」を結ぶに至らない原因を、川崎大治個人の才能に帰結させるわけにはいかない。一つの「像」に近づいた善太三平は別として、わが国のいわゆる「童話」の中にセドリックやトム・ソーヤーというように、名前を示しただけであれかとうなづける人物は存在しないのである。なぜそうなのか。それは「象徴童話」に端を発する創作の方法が、原因の一つになっていると思う。
 では、象徴童話の方法とはどういうものであったのか。上笠一郎はその著『未明童話の本質』の中に、ぼくの「近代童話の崩壊」(『現代児童文学論』所収)中の文章を引き、「古田足日の以上の指摘は、未明の方法論に関するかぎり、正鵠を射たもの」といった。上が引用した文章は次の通りである。
   そして、このふたつ、人魚のすがたとあらしは、もともと異質のものである。前者は外部世界の反映であり、後者は未明の心象である。この異質のものが統合される場は、後者の場、未明の心の中である。人魚をめぐっておこる事件は、人魚、その娘を初めとして、まったく架空の事件である。人魚そのものには意味はなく、人魚の背後の事象にこそ意味がある。そして事象は、農村にも、都会にも、小市民にも、労働者にも共通する事象である。あらゆる個別性はすてられ、共通性だけが取り出されたのであった。つまり、形象化されたものは、事象そのものではなく、事象の共通の要素である。
 こうして、作品となって現われたものは、その創造の基礎となった事象とつながりながら異質のものである。これを単純化といえばいえないことはなかろう。そして、この単純化の操作は、もちろん未明の心の中で行なわれる。だが、この単純化は、外部の事象のもつ個別的な条件を切り落して行なわれたのであり、その切落された条件こそ、越えることができない矛盾として人間を苦しめ、あるいは幸福にしているものであって、ひとりの人間は、その条件によって他と関連していたものである。未明童話の単純化は、社会的存在としての人間を規定する条件をすてることによって行なわれた。これは真の単純化とはいえないものである。未明にとって外部世界の反映とは、外部世界から出発して、別世界を自らの内面に構成することであった。心中の別世界、これが観念世界である。心中の世界であるために、怒りという心中の気持も統一された場で描かれるのである。今日から見れば、この文章にはやはり不十分なところがある。「人魚そのものには意味はなく」と当時のぼくは書いているが、その数年後、ぼくは幼稚園教諭養成学校の児童文学講師として、アンデルセンの『人魚姫』と『赤い蝋燭と人魚』との比較を毎年くりかえしていた。その比較の中心になるものは二つで、一つは人魚姫が声を失い、足を得たかわりにナイフの刃の上を踏む思いをしても王子の愛と永遠の霊魂を手に入れようとする姿に対して、未明の人魚の娘は影薄く、ろうそく屋夫婦、生みの母親から自立していないことであった、またもう一つは、人魚の母、その娘というように『赤い蝋燭と人魚』の二人の人魚は共に女性であることであった。ここでは人魚に意味がある。未明は海の底、もっとも下積みのところに住む者を女性としてとらえたのである。
 こういう不十分さはあっても、ぼくはいまも「象徴童話」の方法として、ある部分をのぞいては、前述の分析はやはりまちがっていないと思う。前述の「真の単純化とはいえない」としたところ、これを「やはり単純化の一つである」とし、本質のうちの「願いの世界」をたとえば「心象の世界」とでも修正すれば、これはほとんど評価を加えない「象徴童話」の規定になるはずである。そして、矛盾錯綜した『現代児童文学論』の中でも、ぼくは「『象徴童話』を不必要なものとは決して思っていない」ともいい、現在ではいっそうはっきりそう思っている。
 神宮のあげた児童文学発達のパターン、これもけっして後代のものが前代に勝ると神宮はしているわけではなく、各国において発達の不均衡があることを述べ、またのちになるにつれて児童文学の新しい表現形態が次々と生み出されて豊かになることを語っているのである。
 ところで、「童話」の方法と関係のあることとして佐藤義美から次のようなことをきいたことがある。彼は、童話は一つの事件を書くものではなく、いくつもの事件に共通するものを取り出し、新しいかたちを与えて書かなければならないから小説より大変だ、「童話は原理だからね」といったのである。ぼく自身の記憶の中で変型もあるかもしれないが、「童話」とは何か。ということに関連してしるしておく。ただ佐藤義美はその方法を分析的にいったが、未明ではそれは直観的なものであったにちがいない。
 未明から佐藤義美につながる方法 − これは「外部の事象のもつ個別的な条件を切り落して」、別世界を構成することであった。これはある程度、アンデルセンの作品にもあてはまる。この象徴化された世界ではリアルな「像」は結びにくい。アンデルセンの人魚姫にしても、目に見えるような「像」としては書かれていない。「像」の形成の方法がリテラリイ・フェアリイ・テイルズと、小公子やハイジとではちがうのである。
 長いまわり道をしてきたが、ここで『夕焼けの雲の下』にもどると、この結果、三人の子どもが夕焼けの雲の下を、ゆうげの煙が立つ里にむかって帰っていくところは、抒情をたたえた象徴的風景である。この作品がリアルな子どもを書きながら「像」を結ぶに至らないのは、この象徴的風景に帰結していく方法に最大の原因がある。三人の登場人物辰・末治・庄太は、それぞれ農村の最下層の労働者・貧農・地主の子どもであるとともに、それぞれの階層を代表していて、この代表性を取り去ると、個性はほとんど残らない、この三人の子どもは実は各階層から抽出された象徴的人物なのであった。
 
 「童話」についての問題はまだまだ多い。「象徴童話」は「象徴童話」そのものとして、その後なぜ発展しなかったのか。また、なぜリアルなものにまでそのありかたが及んでいったのか、いいかえればなぜ「童話」がそこまで肥大したのか等々である。これらの問題は別の機会にゆずって、ここでは「童話の時代」がいつおわったかということについてだけ述べておきたい。
 神宮輝夫は前期『童話への招待』の中でいう。「わたしは、関(英雄)の作品あたりが日本でいわゆる<童話>といわれるものの最後ではないかと考えている。第二次大戦をさかいに、すべてはかわり、日本の児童文学から、真の童話とよべるものは消えたと思う」。また岡本良雄の戦前の作品『八号館』について、「リアリスティックでありながら、やはりここにも、善意と希望がつくりだす現実でない小さな世界が感じられた」といったあと、次のように述べる。「だが、戦後、岡本がつぎつぎに発表した作品群 − 迷信打破を訴えた『あすもおかしいか』(中略)などからは、するどい批判と歯切れのよい主張は感じとれても、『八号館』のもっていた一種ののどかな世界はきえてしまっている」。「戦後の岡本良雄の作品からきえた小世界を、わたしは『童話の世界』とよびたい」。
 この意見については異論がある。ぼくは「時代区分・時期区分」の項で述べたように、34年までを戦前とつながる「童話の時代」と考えている。十七、八年に創作活動を活発化させた人びとが戦後になったからといって、すぐにかわるものだろうか。ぼくは「近代童話の崩壊」の中で『赤い蝋燭と人魚』と岡本の『あすもおかしいか』に共通する方法を、「童話」の方法としてあげたのであった。
『赤い蝋燭と人魚』は赤いろうそくが暗い波間をただようイメージに怒りの情念を結晶させ、『あすもおかしいか』は“あすもおかしいか”という観念にいくつかの事象を統合した、この二作品と同様の方法をとった、ぼくにとっての最後の「童話」は昭和28年発表の大石真『風信器』と、昭和30年の岡本良雄『アンクル・トムさん』である。
 ぼくは「象徴童話への疑い」の中で次のようにいった。「作品全体が一箇の観念であるということは、分析不可能な一箇の形象であるということだ。時間的過程を持たないこの形象は平面的であって、絵に似るといえよう。作品のなかの人物も事件も、同時的に画面を構成する一本の樹木・一軒の家と同様な存在である」。
『夕焼けの雲の下』は結末の象徴的風景に集約され、『風信器』もやはり結末の風景に集中していく。そして、『赤い蝋燭と人魚』ももた一枚の絵なのである。『風信器』は観念ではないが、一箇の情念の結晶であり、その情念の内容のちがいはあっても、情念の結晶という点で岡本良雄『太郎と自動車』とに共通のものを持っている。『風信器』は「童話の時代」の終末に光芒を放った最後の「生活童話」であった。
 一方、『アンクル・トムさん』では、作品全体は「トムは、おそらく、じぶんのしらないところへ、あちらこちらと、ひきまわされたのです」というところへ凝縮していく。これまた作者の情念であり、この情念が黒人兵と日本の庶民一家の心の通いあいの中に包みこまれている。しかし、黒人兵トムが「あちらこちらと、ひきまわされていく」プロセスは別に語られない。プロセスを語らずに情念を語る − これは「象徴童話」の方法である。岡本良雄は最後の童話作家であった、とぼくは思う。この作品はあたたかさと、どうしようもない怒りにみちている。
 しかし、情念のかたまりをぶつけただけでどうなるのか。黒人兵トムはペコペコする鹿に石をつけ、野性を要求した。このトムと心通いあった八郎きょうだいは、その後どう生きていったのか。その情念を生かそうとするなら、八郎きょうだいのその後が示されなければならぬ。「太郎と自動車」の太郎についても同様である。岡本良雄はもっとも先鋭に社会批判的なテーマを取り上げただけに、その「童話」の形態と内容との矛盾が目につく。方法がかわらなければもはやその内容は追求できない。『アンクル・トムさん』とおなじ年、平塚武二は『馬ぬすびと』を発表するが、これはもう「童話」とはよびにくい作品であった。
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