4 転換期の主張
先にいった、伝統批判の三つの評論・研究は、児童文学の質をどのように転換させようとしていたのか。それをここで考えたい。
その第一は「子どもの立場に立つ」ということであった。強弱の差はあれ、この主張は三つの評論・研究に共通している。佐藤忠男は自分の少年時代に『少年倶楽部』を読んだ実感からものをいい、ぼくは一例をあげると、次のように書いている。「子どもと児童文学者の共通項を、ぼくはエネルギーと基本的行動への欲求および飛躍的な想像力と考える。子どもがそれを求めており、ぼくたち自身のうちにもそれを要求する芽ばえが多少なりともある以上、ぼくたちはその芽ばえを育てて子どもの要求に合致するものを作りだし、作りだすことによってまた子どもをエネルギッシュな人間にしなければならぬ。」(「さよなら未明」)このうち「作りだすことによって」以下は不十分であることを、いま痛切に感じるが、今日も基本的には以上の考えはかわっていない。
そして『子どもと文学』はもっとも明瞭に「子ども」を主張した。何度も書いてきたことだが、いぬいとみこは小川未明の幼年童話『なんでもはいります』について、次のようにいった。「子どもはじぶんたちを、『かわいらしい』と思っているでしょうか。それは、大人の感情ではないでしょうか。もし、この同じテーマをつかって、子どものお話を書くとしたら、主人公の子どもが、ポケットにはなんでもはいります、という『発見』をしたところから、何か事件がはじまるべきなのです。」
ぼくはいまもこの文章に非常な力強さを感じる。子どもの立場に立つこと、子どもの目で見、子どもの心と体で感じることがいわれているのであり、また「発見」から事件がはじまる──それはいままでの「童話」ではなく「物語」になるだろう、と当時のぼくは感じた──ということが主張されたのであった。
そして、十年後松谷みよ子はいった。
>幼児が部屋へかけこんでくる。その子にとって机の上はみえない。みえるのは裏側である。大人にとって階段は足の下でふみしめてのぼるものだけれど、幼児にとってははいあがり、よじのぼらなくてはならない。そびえたつ峰の如き存在である。テーブルの上のすき焼きがぐつぐつ煮えていても、幼児は燃えるガスの焔と鍋の底しかみえない。(昭和四五・七『文学教育』二号)
この松谷みよ子のことばでは創作のありようは述べられていないが、子どもの目の高さでものを見ることが的確に述べられている。子どもの立場に立つ文学──これをぼくは現代児童文学の基本精神と考えたい。
主張の第二は、いぬいとみこが前記引用に続いて、『なんでもはいります』を「幼児のもつ空想力を、外にむかってのばそうとしない」「幼年童話」といったところにあらわれている。つまり、いぬいは「幼児のもつ空想力を外にむかってのばそうとする」方向を主張したのであった。そして、佐藤忠男はいう。
我々は、洗練された老人趣味のデテイルをもつ、善意の児童文学が、子どもたちに喜ばれないことを嘆く前に、日本にはかつて、一篇の『ハックルベリイ・フィンの冒険』も『十五少年漂流記』も『クオレ』も『飛ぶ教室』も創作されなかったことをこそ究明すべきだろう。(「少年の理想主義について」)
また鳥越信は瀬田貞二と共に編集にあたった『新選日本児童文学・大正編』の解説の中で、未明の作品が『牛女』のほかはことごとく落ちたことをあげ、その理由を次のようにいった。
>なぜ未明が残らなかったか。答は至極簡単である。一口でいえば、そのテーマがすべてネガティヴなもの──人が死ぬ、草木が枯れる、町がほろびる等々──であり、その内包するエネルギーがアクティヴな方向へ転化していない点で児童文学として失格であること、従って読物としての面白さも全然なく、加えて晦渋な文章に大きな抵抗を感じたことである。(昭和三四・三)
この三人の主張の底にあるものは、「ひらかれた世界」への要求といっても、不当ではあるまい。
「ひらかれた世界をつくり出すこと」──それがこの時期の主張の第二であった。
第三には、「散文による物語を」ということである。もっと限定すれば、「一貫した論理にしたがって展開し、はっきりしたイメージをもつ、散文による物語を」ということになる。ここで「散文」ということばを持ち出したのは、それが「童話」の呪文──イメージよりもふんい気をつくり出すありかたに対して、ぼくが主張したことばだからである。そして、『現代児童文学論』ではいわばのどもとまでこみ上げてきていながら、ついにいい得なかったイメージと、物語展開の論理は『子どもと文学』で明瞭にされた。ぼくは「童話」の硬直した方法に対して、「環境と共に人間を描くこと、人間と人間、人間と事件、事件と事件の相関関係の中で、人間を描くこと」(「近代童話の崩壊」)ということばで主張したのであった。
以上が当時の伝統批判の評論・研究に共通した主張であったと思う。そして、それらの評論・研究が相互のあいだではほとんど何の関係もなく出てきたということは、簡単に偶然の一致ということではすまされないだろう。それは時代の精神・時代の動きであったのである。
しかし、一方、相互の主張間のみぞも大きい。おなじく〈ムードではなくイメージを、論理に沿った物語を〉といっても、『子どもと文学』とぼくとのあいだでは大きなひらきがある。『子どもと文学』はプロレタリア児童文学的なものは「幼い子どもたちにとって意味のないこと」だとし、「社会の不平等をなじったものなど」は「ストーリイ性のない観念的な読物になっていることが多く、どうしても子どもたちをひきつけることはできません」といった。一方、前記『あすもおかしいか』は社会批判の作品であり、ぼくの『あすもおかしいか』批判はその主題批判ではなく、方法批判である。むしろ、『あすもおかしいか』の主題を追求するための有効な方法を求めた結果が、
〈散文によって人間・事件との関係を書く〉主張になっている。
このひらきは、児童文学と社会批判・変革の思想との関係についての考えのひらき、というだけではない。それはある人がなぜ児童文学に惹かれ、児童文学を書いていくのか、ということにかかわる問題であった。「象徴童話」的なものが昭和三十四年以前の児童文学の中心になっていたということは、未明を模倣し、また未明を継承したというだけのことではない。未明的な発想の人びとが童話作家になっていったのである、とぼくは考えていた。これをぼくは「資質」と呼んだが、この資質から生まれる発想・方法と重なりあって、童話作家の姿勢・態度・作品内容として善意、またヒュ―マニズムということがある。童話作家たちはなぜ現実世界を「願いの世界」に変化させたのか。それは世の中に不正があり、善意が踏みにじられているからである。「願いの世界」の実現を幻想的に書くことと、社会批判とは実に表裏一体である。児童文学へのモチーフ──ある人びとを児童文学にかり立てていくその内的必然性は、わが国の場合、社会環境とわかちがたく結びついている。この内的必然性を『子どもと文学』は無視してはいなかったか。
しかし、ひらきはあっても共通の主張はあった。そして、いままで述べてきた三つの主張のほかに共通または単独の主張がいくつかあった。ぜんぶをあげつくすことはできないが、そのうち重要と思われるものをいくつかあげておこう。前に続いて番号をふっていけば、第四として、さきにいった〈子どもは本をたのしみで読む〉ことがあり、第五として、〈児童文学者は子どもそのものに関心を持つべきだ〉という主張がある。第四は『子どもと文学』、第五はぼくの主張である。この第五について説明を加えておくと、児童文学者と子どもといえば一般には親近関係あるものと受けとられがちだが、「童話」への関心は実は子どもへの関心ではない。子どもという人間そのものに関心を向けなおすところから、ぼくは「童話」からの転換をはかったのであった。また第六として、〈大衆児童文学の創造〉ということもつけ加えておくべきかもしれない。
以上、この時期の評論・研究の主張をふりかえってみたのは、その後この主張がどのように深められ、また変化していったのか、その道すじが現代児童文学史であるともいえるからである。というより、そのようにして現代児童文学史をとらえるやりかたがある。そして、それが可能になるのは、この時期、"児童文学はいかにあるべきか"の主張の共通項は、評論どうしのあいだにあっただけではなく、創作と評論・研究のあいだにもあったからである。
例をあげると、『だれも知らない小さな国』は個々のイメージ明瞭な、〈散文による物語〉であり、その物語は一貫した論理にしたがって展開している。また『赤毛のポチ』はまさしく人間と事件との相関関係の中で、人間をとらえていた。さらに敗戦後十年間、「心の中の世界」をまぎれもない「象徴童話」として表現していた松谷みよ子は、昭和三十五年にそれまでのものとはちがった『龍の子太郎』を出す。
この創作の実状と、児童文学のありかたについての評論・研究の主張とがほぼ一致していたこと
──それはこの時期の特徴の一つである。そして、児童文学とは何か、いかにあるべきかについて、創作もまた創作そのものとして答を出しているわけだが、それは評論・研究の方に集中的にあらわれる。そこで、いまいった、巨視的に見ての創作と評論研究の主張の一致、これを前提として、評論・研究に出てきた集約的な主張を時代の主張としてとらえることが可能になるのである。
なお、この時期の評論・研究の特徴として、それらが"児童文学はいかにあるべきか"というテ―マに集中していることをあげておきたい。それには二つの原因が考えられる。児童文学のいわゆる慢性的不況の中で、従来の「童話」が子どもに読まれないということがはっきりしてきた。子どものがわからそれを考えようとしたのが、『子どもと文学』である。この本のIIの章「子ども文学とは?」がカナダの図書館員L・H・スミスの『児童文学論』によっているのは、子どものがわからの児童文学規定である。一方、『現代児童文学論』が「童話」の方法の分析を中心とし、新しい方法を模索しているのは、書き手の立場に立って書きたいことを可能にする方法の追求であった。
そして、その書きたいことの中心は、前にもいったように自分たちの『あすもおかしいか』である。いわゆる社会批判の児童文学はこののちも次々と生まれてくる。戦争児童文学もまた社会批判の側面を持っているものであり、この両者はその内容においては、『赤い蝋燭と人魚』『夕焼けの雲の下』『あすもおかしいか』の伝統に属するものである。
すなわち、『子どもと文学』の社会批判不必要の主張にもかかわらず、というよりその主張とは無関係に、この時期生みだされてきた作品群はその伝統的な「変革の意志」によって「童話」をつき破った。過去の「童話」にくらべて、いっそう社会に密着したものが三十四年以後は生み出されていく。これは戦前とくらべて天皇制のくびきを脱却したことが最大原因だが、またそれを可能にする方法を獲得した結果でもある。
5 新しい価値の創造と出発の中の矛盾
いままでこの時期──六〇年前後の現代児童文学の出発の時期──を扱った評論・研究には、その叙述による印象もふくめてのことだが、理論先行そして創作というパターンが芽生えようとしている。実際はそうではない。理論と創作とが同時にあらわれたのが、この時期である。
では、実作者をつき動かしたものはいったい何であったのか。その根源は評論・研究では部分的にしか述べられていないが、人間と社会の追求を可能にする、自由な表現を求める意欲だったと思う。「もんぺの子同人」作の『山が泣いている』(昭和三五)を例にとれば、彼らが書こうとしたのは山形の米軍基地そのもののことであり、佐藤義美のように抽象化しては書くことそのものの意義が見失われてしまう。また米軍基地を書くということは、基地闘争の中での諸人物の成長・変化を書くことである。それはもう従来の「童話」の象徴化・抽象化・観念化の方法では表現できない。新しい書き手たちの意欲はついに童話を内がわから突き破った。
この際、柴田道子『谷間の底から』(昭和三四)と『山が泣いている』が、共に生活記録ふうな書きかたをしていたことは、ぼくにとっては象徴的なできごとであった。ぼくはのち、次のように書いた。
>生活記録は散文であり、万人が書き得るものである。童話創作は作家の資質によっていて、だれでもが書き得るものではない。『谷間の底から』はいまや児童文学がかぎられた童話作家のものではなく、万人のものであることを示した。童話は決定的に児童文学に席をゆずりわたしたのであった。
>しかし、それはまた新しい堕落の可能性も示していた。『谷間の底から』が生活記録ふうであったということは、この作品の強みが児童文学の新しい試みというような強みではなく、疎開学童を書いた素材の強みであった。素材がよければ本になる。それは一転しておもしろければ本になる。という方向へかわっていく可能性を持っていた。しかも、その本はいまやだれでもが書けるのである。昭和三十四年以後の児童文学史は、凡百の作品と新しい方法・新しい内容の作品とがいりみだれる歴史となっていった。(「昭和の児童文学」『昭和文学十四講』所収)
「童話」という形態はくずれ、いままで「童話」のわくの中にとじこめられて形成できなかった、新しい思想・新しい価値観が〈散文による物語〉という自由なありかたの中でつくり出されることになった。それは当然さまざまな形態も生む。『だれも知らない小さな国』『木かげの家の小人たち』(昭和三四)はファンタジーであり、神沢利子の『ちびっこカムのぼうけん』(昭和三六)は上記二作とちがう質のファンタジーであった。またぼく自身の『ぬすまれた町』(昭和三六)は現実とその裏がわの世界が境目明瞭ではなく交錯するものであり、砂田弘『東京のサンタクロース』(昭和三六)は新しい大衆児童文学への試みでもあった。
内容からいえば、今江祥智『山のむこうは青い海だった』(昭和三五)は新鮮な感覚の子どもを創造し、『龍の子太郎』は民話を素材として民話の精神を現代に生かそうとした。中川李枝子『いやいやえん』(昭和三七)、寺村輝夫『ぼくは王さま』(昭和三六)は、現代児童文学の先駆であったいぬいとみこ『ながいながいペンギンの話』(昭和三六)のあと、新しい幼児・幼年の世界を切り開く。また、こうした動きからはなれたところで出てきたものだが、木下順二文・清水崑絵の絵本『かにむかし』、阿川弘之文・岡部冬彦絵の絵本『きかんしゃやえもん』もこの時期三四年に生まれ、その後長く子どもたちの財産となっていく。
以上のようにこの時期の創作をふりかえってみると、この時期は児童文学が新しい方法を獲得しつつ新しい価値を創造していった時期という特徴を持っている。そして、その価値を多くは、大きなわくとしては戦後民主主義のわくの中にはいるだろう。そのことについて、もうすこしくわしく述べると、上野瞭は『だれも知らない小さな国』についていう。「このコロボックルの提示は、作者によって、主人公の探し求める人間的価値に与えられた一つの形だが、これは、同時に、戦後民主主義が提示してきた理念の具体的な姿である」(「児童文学における戦後価値の問題」『戦後児童文学論』所収)。またそれより以前、もともとは初版『だれも知らない小さな国』の帯のすいせん文であったと思うが、与田準一は「矢印の先っぽのコロボックル小国『だれも知らない小さな国』は、戦争を経て生まれかわろうとする、日本そのものを暗示しているかのようです」(初版『星から落ちた小さな人』巻末広告)といっている。
上野のいう「戦後民主主義が提示してきた理念」は「人間の内在的価値」だが、戦後民主主義には貧しさからの解放という理念があり、民衆という理念があった。その理念は『赤毛のポチ』そのほか社会批判の作品群に見られるが、『龍の子太郎』にもそれははっきりとあらわれている。『龍の子太郎』はその第一ページで、やせた自然と、鬼の搾取による貧しさとを明瞭に語り、その環境の中に楽天的な主人公の龍の子太郎を登場させる。そして、『龍の子太郎』が鬼をやっつけ、自然を切り開いていくところ、『だれも知らない小さな国』について与田準一がいうのと同様に(上野もまたこの物語の主人公の行動として「『矢印の先っぽの国』の建設」といっている)、新しい国・建設の理念があらわれている。
新しい「国・建設」の理念は個人の生き方とかかわりあう。龍の子太郎は建設者であり、『だれも知らない小さな国』の「ぼく」もまた建設に積極的に参加する。そして、『谷間の間から』の千世子は、「わたしは自分で正しいと思うこと、自分の良心にだけ服従します」といい、『木かげの家の小人たち』のアイリスとロビンは故国へ帰る父母とは別れて、アマネジャキと共に暮らす自分の生き方を選択する。国・社会の建設、個の自立、貧しさからの解放──こうしたものが作品中で相互にからみあい、また独立して存在しながら、この時期、新しい価値として創造されようとしていた。この時期は、戦後の民主主義が児童文学の上で一せいに花をひらき、新しい可能性が生まれようとしていた時期であった。
しかし、新しい価値はどこまで創出できたろうか。『谷間の底から』が出た当時、ぼくは先にしるした主人公千世子のことば、「わたしは自分の正しいと思うこと、自分の良心にだけ服従します」について、「『自分の正しいと思うこと、自分の良心』を信じられる作者を、ぼくはうらやましく思った」と書いた。思えば戦争中、ぼくはぼくの「良心」にしたがい、「正しいと思うこと」によって行動したのである。しかし、それは正しくなかった。「自分」はそう簡単に信用できないものであり、千世子の自覚は実は物語のはじまりでしかない。「正しいと思うこと」の実体が創造されなければならないのである。『谷間の底から』は新しい価値創造の芽生えではあったが、価値創出までには至っていない。
そして、『谷間の底から』は一例でしかない。ぼくがこの作者を「うらやましく思った」のは、ぼく自身、「正しさ」──新しい価値創出をはたし得ないでいたからである。前にもちょっとふれたが、『現代児童文学論』は矛盾錯綜していた。先に名をあげたこの時期の作品群も同様、完全な価値創出をとげるには至っていない。成功したといえるのは『だれも知らない小さな国』一編だけなのではなかろうか。
この時期生まれて、その後もっとも多数の読者を獲得したのは『龍の子太郎』である。なぜそうなったのか。その理由の一つとして、『龍の子太郎』が戦後民主主義をもっともよく代表する作品であったことがあげられるだろう。三びきのイワナではなく百ぴきのイワナを、という問題解決のあり方は、三つの保育所ではなくポストの数ほど保育所を、ということと照応する。その意味で『龍の子太郎』は戦後民主主義の公約数的な作品なのであった。
龍の子太郎が湖を田に変える時、すでに搾取者はいないが、権力はそう簡単に引き下がるものではない。搾取もなく、権力もなく、人みな平等、おたがいに殺しあうこともない世界に至る道のはてしなさと、その世界を願う強烈な気持ちを書いたのは、いぬいとみこ『北極のムーシカミーシカ』(昭和三六)であった。これは戦後民主主義の楽観性をついた作品である。
この時期、出発したばかりの現代児童文学はたちまち、六〇年日米安保条約成立をめぐる思想の激動にぶつかり、新しい可能性が実を結ばないうちに方向転換せざるを得なくなる。ただし、ぶつかった結果が出てくるのはそれから二、三年後のことになるが、六〇年安保によって顕在化してくる矛盾は、すでにそれ以前に芽生えていた。『北極のムーシカミーシカ』はもともと昭和三十二年、『婦人公論』に連載されたものであった。この物語の白クマの子は、生きるためには友だちであるアザラシの血をすすらなければならないことを知る。人間、実はおたがいに喰いあっているものという認識が、この作品にはあった。
現代児童文学出発期のなかにある矛盾は、山中恒によっていっそうはっきりと示される。彼の『赤毛のポチ』と『とべたら本こ』は、共に新安保の年昭和三十五年に出版された。『とべたら本こ』は四月であり、『赤毛のポチ』は七月である。しかし、その執筆時期は『赤毛のポチ』の方が早く、昭和二十九年七月から同人誌『小さい仲間』に連載され、三十一年六月に完成した。一方『とべたら本こ』の執筆時期は昭和三十四年ごろと推定される。
現代児童文学史研究の困難の一つは、ことにこの出発の時期、それぞれの作品の執筆時期と単行本出版時期とが一致しないことである。この二作のように執筆時期が離れている場合も多いので、単行本出版時期と執筆時期を同一視すると、作者の思想の変化などをたどるのにあやまちをおかすことがある。本稿では一応単行本出版時期を目安にしているが、いままでの記述のうち、実はこの出発の時期には属しにくい『いやいやえん』にふれたのは、この作品が同人誌に発表されたのが昭和三十四年七月のことだからである。『子どもと文学』の成果が『いやいやえん』にあらわれた、とかつてぼくもうっかり書いたことがあり、他にも同様のあやまりをおかしている人がいるが、これは単行本出版時期の方に目をうばわれた結果である。
もとに帰って、『赤毛のポチ』と『とべたら本こ』だが、この二作のちがいについてぼくは次のように書いた。「『赤毛のポチ』には楽天性と組合主義(?)とでもいうか、集団による行動がさまざまの問題を解決する、という考えがあり、『とべたら本こ』にはそれがない。『とべたら本こ』にあるのは、人間のもっとも基本的な欲望──生存への欲求である。ここには集団への信頼などかけらもない。親子夫婦のあいだにも信頼関係は存在しない。生存のためにはおたがいが、おたがいの敵である」。「『赤毛のポチ』にはまだ民主主義児童文学に通じる要素──ヒューマニズムと団結信仰とがあった。だが、『とべたら本こ』は民主主義児童文学へのあきらかな対立物であり、またそれを乗りこえていた」。(「戦後の創作児童文学についてのメモ」『児童文学の旗』所収) ここでいう「民主主義児童文学」は現代児童文学のことではなく、敗戦直後の「童話」群のことだが、先にいったように方法・態度の転換はあってもその理念は現代児童文学に引きつがれている。その意味では出発時期の現代児童文学は、戦後民主主義の児童文学における到達点であったが、『とべたら本こ』はすでにその戦後民主主義の脇腹に短刀をつきつけるものとして到達点内部に位置していたのである。
短刀をつきつける、というのは次のようなことである。
>現実に『赤毛のポチ』的世界はどれだけ実現され、どれだけの効果をあげたか。生活はやはり楽ではなく、政治は常に望む方向とは逆に動いているではないか。また、たてまえとしては暴力は拒否され、何かといえば「話しあい」ということばが持ち出されるが、現実はやはり生存競争の社会であり、弱い者は敗北しているではないか。(同前)
本能的なずるさとエネルギーとやさしさにみちた少年カズオを主人公にした、この物語はこの時期の作品中もっとも現代的な作品であった。ぼくはこの物語について次のように書いた。
>だが、山中の立つ場所は現代である。ひとりの少年が吉川カズオから山田カズオ・高橋カズオに変身していく世界である。自分が自分でなくなっていくこの世界と、動物的生存の世界とが重ねあわせられる。この世界では『だれも知らない小さな国』にあるような人間の尊厳は存在しない。近代的自我も存在しない。そして、それこそ日本の姿である。一方では自我成立の余裕もなく、一方では自我はつねに解体されていく。
『とべたら本こ』はこの前近代と現代との両面をきっかりとらえたというまでには至っていない。ことに両者の相関関係はふたしかである。にもかかわらず、日本をこの両面においてとらえる可能性がそこにはあり、自我以前、人間以前のところに根ざして、自立の思想の芽生えがある。佐藤さとるは近代を通ろうとし、山中は日本の特殊性のなかで生きようとする。
>そして、この自立の思想と、変身せざるをえない現代という条件のなかで、人間連帯への欲求はどのようにして可能なのか、これが自立の思想と共に『とべたら本こ』の提出した、もうひとつの問題であった。(同前)
いまふりかえってみても、『とべたら本こ』が提出した問題は大きい。だが、それに答える作品は山中自身からも生まれず、他からも生まれていない。だが、この作品と照らしあわせてみる時、たとえば『龍の子太郎』の「国・建設」の理念が、まだ理念でしかなかったことが浮かびあがってくるのである。そして、この出発時にあった矛盾はまだなお解決されていない。
この時期の特徴をまとめていうなら、次のようになるだろう。「童話の時代」の連続であった、いわゆる民主主義児童文学がついえ去ったあと、新しい方法・新しい態度(この態度の中には子どもの立場に立つということと、作者自身の問題を追及するということと、二つがふくまれる)による児童文学が生まれ、民主主義児童文学の理念が実体として創造されようとしはじめた。その中にはすでに戦後民主主義の理念にも疑いをさしはさむものがあった。その疑いは民主主義を豊かにするはずのものであった。しかし、新しい価値がまだなお創造されないうち、歩みはじめたばかりの現代児童文学は、六〇年安保をめぐる渦の中で方向を見失うことになる。
テキストファイル化赤澤まゆみ