『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

6 変化をもたらしたもの

 この時期、児童文学の新しい方法・態度を生み出した原動力は何であったのか。その原動力をいままで抽象的に「変革の意志」や「人間と社会の追究を可能にする、自由な表現を求める意欲」といってきたが、もうすこしくわしく考えたい。
 昭和三十四年に出た書き手たちの新しい創作『谷間の底から』『荒野の魂』『木かげの家の小人たち』、いずれも太平洋戦争と深いかかわりのある作品である。また『だれも知らない小さな国』もそのように解釈することができる。そして、その後二、三年のあいだに出てきた新しい書き手たちの多くは、大正十年代、昭和一けた生まれであり、太平洋戦争中に少年少女期、また青年期をすごした人びとである。
 彼らの戦争体験と戦前・戦中に出発した童話作家たちの戦争体験とでは、「決定的とでもいえる質的差違がそこにはよこたわっていた」と横谷輝は指摘した。横谷は「良心的・芸術至上主義な児童文学者の多くは戦争を傍観的に通過した」が、昭和三十四年以後の作家たちにとっては、戦争は「傍観者的にやりすごすのではなく、すべてをあげてたたかうものであった」という。だから、「戦争体験との徹底的な対決を戦後派の作家は必然的に背負わされていた」のであり、「それは同時に、戦後において新しい自己確立の道をさぐることでもあった」し、「戦時中支配体制が強制する聖戦イデオロギーをうけいれた戦後派の作家は敗戦と同時にそのイデオロギーがくずれ去り、あらためて内発的な思想とのかかわりをもたなければならなくなった」のである。(以上引用は「戦後児童文学とはなにか」『児童文学の思想と方法』所収)
 そして、横谷は「そのたたかいの成果」として『だれも知らない小さな国』と『木かげの家の小人たち』をあげるのだが、一方神宮輝夫はいう。「戦中・戦後体験がほとんどはじめて作品化されたという意味で真の戦後がここ(昭和三四年─筆者注)にはじまるとは、必ずしもいえないのではなかろうか。なぜなら塚原健二郎の『風船は空に』にしても、関英雄の『三本のロウソク』にしても、岡本良雄の『アンクル・トムさん』にしても、抽象的あるいは象徴的にではあるが戦中・戦後体験をバックにしなくては創作できなかったからである」。(昭和四二・一〇『日本児童文学』)
 神宮・横谷両説のちがいは見方によっては決定的なちがいだが、また単なる次元の相違と見ることもできる。作品中の戦争体験の有無、また戦争に対する態度を示した作品といえば、すでに壺井栄『二十四の瞳』(昭和二七)もあり、竹山道雄『ビルマの竪琴』(昭和二二〜二三)もある。この次元で考えるなら神宮説は妥当である。そして、『二十四の瞳』といわゆる戦争児童文学、たとえば長崎源之助『あほうの星』(昭和三九)との決定的な差は、ほとんどないのではなかろうか。
 しかし、横谷説は作品中の戦争の問題ではなく、昭和三十四年以後の書き手たちの自己形成を問題にしている。そして、彼のいう道すじを柴田道子・斉藤了一・いぬいとみこ・松谷みよ子など、多くの人たちが歩んできている。松谷みよ子を例にとれば、戦争末期「心像世界の滴り」を書くことから児童文学にはいった彼女は、昭和二十年代、自らの生き方を模索するものを書き、米軍基地や朝鮮人に目をむけ、その後民謡を媒体として『龍の子太郎』に至り、この作品によって自己形成の旅に一応の終止符を打つ。短編を積み重ね、十年あまりの時間をかけての模索・自己形成であった。この時期に出てくる多くの書き手たちにとって、戦争体験は自己の全存在と深くかかわりあうものであった。
 そして、松谷の『龍の子太郎』以前の短編を見直すと、戦争体験といっても、太平洋戦争の事実そのものより、戦争がもたらした心の荒廃の方が前面に押し出されている。『花びら』のサンコには人の顔がけだもののように見えるようになり、やがて自分もけだものになっていくようであり、『はと』のナオキの太陽は凍って緑色になる。この不信の世界から脱出して新しい道をひらくのが、彼女の自己形成であった。
 この自己形成という次元から見れば、戦争体験と現代児童文学の出発との関係は、作品中の戦争の問題ではない。神宮のいうように三十四年以前と以後との決定的なちがいは、「童話」の方法と<人間と事件の相関関係の中で人間の成長を語る物語>の方法とのちがいであり、その後者の方法を必然的にしたものが戦争がもらたしたものとの対決であった、と構造的にとらえるべきものだと思う。
 松谷みよ子の道すじに見られるように、戦争がもたらしたものの一つに、どのように生きたらよいかということの見失いがある。松谷の『花びら』『はと』にある傷ついた心の世界とはちがうが、『谷間の底から』で柴田道子は昭和二十年八月十五日直後を「いきなり、生活の目的がなくなってしまった現在」と書くのである。またぼく自身は敗戦直後をふりかえって次のように書いたことがある。「外がわが修羅のちまた。その人間の内がわはどうなっているのか。天皇という原理はあっけなく消えた。ぼくの心の中にはぽかんと大きな穴があいている。他人の心に空洞はないのか。ぼくには天皇にかわる原理が必要であった」。(「実感的道徳教育論」『児童文学の思想』所収)
 この失われた原理にかわるもの、新しい価値を求めての模索が、ぼくたちの世代には必要であった。先に当時の評論の主張の中に、<ひらかれた世界を>という主張があったことをいったが、それは少なくとも鳥越やぼくの場合には天皇制下のとざされた時代に生きた体験から生まれてきている。『谷間の底から』の第一部は「とざされた世界」というタイトルがつけられているのである。また『花びら』のサンコは氷の世界に迷いこんで必死に希望を求めている。
 この『花びら』その他、松谷の模索の作品群はおおよそ昭和二十五年から三十年のあいだに書かれている。この背後には朝鮮戦争がありはしなかったか。ぼくは「少年文学宣言」の当時、行きなやむ朝鮮休戦会談に黒雲がいつも頭上にあるような感じを受けていたことを覚えている。この朝鮮戦争の不安に照応して、松谷は太平洋戦争をもう一度見直そうとしたのではなかったか。そのことを自覚するとしないとにかかわらず、である。「少年文学宣言」はぼくにとっては不安への反動という個人的かかわりあいを持っている。『現代児童文学論』は、「少年文学宣言」にはじまるぼくの原理模索のあとなのである。この新しい原理模索という点で、太平洋戦争そのものにはほとんどふれていないこの評論集は、戦争と深い関係を持っている。
 佐藤さとるは松谷みよ子のような模索のあとは残してはいない。しかし、戦争にはほとんどふれなかったぼくの評論が、実は戦争によって育てられ、失われた自己を新しく求め直す意味と役割を持っていたように、『だれも知らない小さな国』にもやはり戦争との深いかかわりがあったのではなかろうか。佐藤さとるは新しい自己を、戦争以前の自分の少年時代を媒体にして形成した、と解釈することが可能なのである。ただし解釈可能ということは実証されたということではない。評論と研究未分化の児童文学の世界では、解釈可能が実証と混同されていることがあるので、つけ加えておく。
 いま、佐藤さとるは戦争以前の自分の少年時代を媒体にして自己形成をとげた、といったが、これは一般的には次のような意味である。まだなお価値体系を持っていない自分が、価値体系を獲得した自分にかわる。これが自己形成だが、この変化は意識的にか無意識的にか、何かをなかだちにしなければ生じない。この”何か”を媒体といったのであり、このことばを使うと、『谷間の底から』は自分の少女時代を媒体とし、『龍の子太郎』は子どもと民話とを媒体にして自己形成を行った。ただすべての人のすべての作品に、自己形成とその媒体が見られるというわけではない。文学とはちがう場で自己形成をとげた人が書くことも多く、また自己形成のあとが見られる作品は多くの場合その人の出発点の作品と、その後その人がある転換をとげる際の作品である。
 ところで、いま”媒体”ということばを使ったのは、”媒介”ということばと区別するためである。児童文学は多くの場合、おとなによる表現だが、そのおとなによる表現がおとなだけにむけているのではなかろうか。「童話の時代」の初期、その媒介となるものが「童心」といわれるものであった。それはやがて「子ども」となり、七〇年代の今日では「子ども」をこえて人間の根源的なものをさぐろうとするものや、現実の裏がわにかくれている世界を見ようとするものもふくみこもうとしている。
 この媒介となるものは作品にあらわれている場合もあり、また作品の背後にかくれている場合もある。前者の場合では媒介は二重にはたらき、作品中と作品の背後の両方に存在している。そして、先にいった”自己形成の媒体”は、『だれも知らない小さな国』や『谷間の底から』の場合、その作品を児童文学として発現させた”媒介”と重なりあっている。両者は共に「子ども」なのであった。
 ここで佐藤さとるが、この媒体・媒介である「子ども」をどのようにとらえたかを、『だれも知らない小さな国』で見てみよう。この物語中、戦争について述べているところがある。
   いつか日本は、戦争のうずまきにまきこまれていた。(中略)毎日が苦しいことばっかりだったが、また底ぬけに楽しかったような気もする。家が焼けたことを、まるでとくいになって話しあったり、小型の飛行機に追いまわされて、バリバリうたれたりするのが、おもしろくてたまらなかった。これは命がけのおにごっこだったが、中にはおににつかまってしまう、運の悪い友だちも何人かあった。いまになってみれば、ぞっとする話だ。
 この戦争叙述は、現代児童文学中の戦争叙述とはきわだって異質である。しかし、これは戦争中の少年であったぼく自身の実感である。佐藤は、多くのおとなたちが自分の感情で戦争中の子どもをとらえる、それとはちがって子どもを子どもとしてとらえたのである。佐藤はこの認識によって、どの子どもたちも体験する自分の小さな秘密の世界をとらえ、その世界を発展させていった。佐藤はこの物語の中で少年時代をもう一度生き直し、そのことによって新しい自己を形成した。
 戦争によって価値体系を形成させられ、戦争によって価値体系を失わされた人々、そのうちのごく少数の人たちのことだが、彼らは児童文学にむかい、物語を書くことによってもう一度人生をやり直す。そして、ふたたび人生を生き、成長する作業は象徴的、情緒的、観念的な「童話」では行えなかった。空想の世界であれ、現実の世界であれ、具体的な事件の中でこそ人間は成長する。またその成長の過程をさぐることは短編ではなかなか行いにくい。現代児童文学出発当時の作品の多くが長編であったことも、作者の内発的な理由によっている。
 「童話」を内がわからつき破った原動力は、戦争によって生きることの意味を失った、新しい書き手たちの新しい価値形成への欲求であった。意識的であると無意識的であるとを問わず、新しい書き手たちは戦争が自分にもたらしたものと一度はたたかわなければならなかったのである。
 しかし、それは前にいったように十分に開花しないで終わる。なぜ開花しなかったのか。その原因の一つは、媒介・媒体である子どもについての妊娠が浅かったことであろう。これは「童話」との対決が徹底的なものとなり得なかったことも意味している。一般的にいって、ようやくみつけ出した新しい方法はまだきたえられていなかった。
 だが、そのほかにもう一つの原因がある。それは自己形成そのものとかかわりあう。その問題を『だれも知らない小さな国』と『木かげの家の小人たち』の対比において見てみよう。その前提となるのは『だれも知らない小さな国』の方が成功し、『木かげの家の小人たち』がやや不成功であるということである。だが、それは決していぬいとみこの力量が佐藤さとるに劣るということではない。のちに述べるように、いぬいは『だれも知らない小さな国』より、より「現代的」な問題に挑んだのである。
 一方、『だれも知らない小さな国』は当時のどの作品よりも「近代的」である。ここで「近代的」というのは個の確立のことであり、この物語はいうまでもなくひとりひとりの人間の内に、他のだれもがおかすことのできない世界が存在していることを書いている。まずこの内容において「近代的」であり、次に方法にいて「近代的」である。この世界では作者は神であり、登場人物すべてを支配している。この方法は近代の確立期、一九世紀小説の方法である。この方法をとることができたのは、過去の体験に佐藤が価値を見いだし、その体験を作者が熟知しているという態度をとったからである。
 この作者=神のあり方は『木かでの家の小人たち』にはない。『だれも知らない小さな国』は作者内部の世界だが、『木かげの家の小人たち』は戦争という外部の世界とかかわっている。『木かげの家の小人たち』の主題はひとりひとりの『だれも知らない小さな国』、いぬいによれば「だれもゆけない土地」をどのようにして守るか、ということである。いぬいはこの物語において二つの課題を自分に課した。一つは「だれもゆけない土地」をつくり出すことであり、もう一つはその「だれもゆけない土地」を守ることであった。そして、上野瞭が指摘するように作品そのものは後者の方に傾斜し、前者の方は不十分となった。
 なぜ後者の方に傾斜したのか。それは戦争を防ぎ止めるには人間は何をしなければならないか、という問題に作者が立ち向かったからである。これが先にいった「現代的」ということの意味である。のちの戦争児童文学とはちがってこの物語は、太平洋戦争下の一家と小人たちの交渉を書きながら、太平洋戦争にだけ問題を限定しない。アイリスは、ゆりをしあわせにするためには、森山家中を平和に、森山家をしあわせにするためには、日本中を平和に、そして日本中をしあわせにするためには、世界中を平和にしなければ、と考えてクモの糸のリボンを編み、そのアイリスに象牙の編み棒はささやく。「そうよ、アイリス、編みつづけなさい! ものもいわずに編みつづけなさい! あんなの編んでいるこのリボンが、地球をひとめぐりする長さになったとき、この地上には『戦い』がなくなって、人びとはしあわせになれるでしょう……」
 この平和への願いは戦後の多くの人々の願いである。ぼくは先に”失われた自己”ということをいったが、人間は日々にかわる。朝鮮戦争、「少年文学宣言」当時のぼくは、昭和二十年八月十五日のぼくではない。その間、その後の価値観や生き方を形成する要素は内からも外からも提供され続ける。平和への願い、戦争をどう防ぎとめるかということは、その要素の一つである。そして、ある日、まとまった価値体系がつくられようとする時、この要素はその体系の中にくり入れられる。新しい自己にとってはこの要素はぜひとも必要なのであった。
 しかし、この要素は、『だれも知らない小さな国』にあるだれもが経験する秘密の世界とはちがって、日本の現実ではそれまで実際にはわずかにしか見られないものである。未来に目をむけたいぬいは、この実質材料のないところで反戦の行動を作品中で創造しなければならなかった。そこいぬいは、守られる存在として小人たちを位置すけ、それを守るゆりの苦闘を書く。この物語の最初、小人たちはその実質ではなく、理念として登場するのである。
 だが、後年、小人たちは自分で自分を守るようになり、その中でアイリスはクモの糸でリボンを編みはじめる。ここでこの作品はみごとな二重構造を持つことになった。アイリスの行為は、今後も起きる侵略戦争への抵抗であり、一方ゆりがミルクを小人たちに運ぶのは、太平洋戦争に即してのことである。こうしてこの作品は、太平洋戦争に即しながら太平洋戦争を越えた。しかし、クモの糸でリボンを編むのは、祈りの行為である。この祈りの行為をより実質化することはできなかったのか。ここにぼくはいぬいの苦闘を見る思いがするのだが、反戦の実質材料がないところ、いぬいは祈りの行為で反戦の意志を象徴的に表現するよりほかなかったのである。
 社会批判の作品の場合にも、ある程度事情は似ている。一部の人々にとって社会批判と行動は自己形成の要素であり、そうかといってまだなお市民運動も動き出していない。新しい価値の創造はここでも困難であった。
 この「現代的」問題を包みこむ自己形成の困難さのほかに、もう一つ、新しい価値創造に至らなかった原因ではないかと考えられるものがある。それは価値体系の構造である。ぼくは先に戦前のぼくには「天皇という原理」があったことをしるした。天皇を頂点とする価値体系がぼくの中に築かれていたと思う。これは観念的価値体系である。「天皇の大御心」という原理があり、日常の行動はその「大御心にそうように」展開されなければならない。これは原理の応用である。この最初の観念的原理があり、行動はその応用という価値体系の構造は、現代児童文学出発当時の作者たちの自己形成にもやはり持ち越されたのではなかろうか。何度も例に引くが、『谷間の底から』は「自分の良心にだけ服従します」という原理を提出してしまうのである。『木かげの家の小人たち』では、小人たちは森山家の人々に守られるもの、という位置を最初から占めている。
 こうした構造の価値体系では観念的原理獲得で体系そのものを手に入れた、自己形成の完成と錯覚する場合が多いのではないか。『木かげの家の小人たち』はその例外的存在であろうとしたが、まだなおその構造を脱し切れない面を残していた。そして、佐藤さとるはこの構造とは別種の構造の価値体系を持っているのではなかろうか。
テキストファイル化與口奈津江