『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

7 児童文学史の時期区分

 いままで現代児童文学出発の時期ということばを何度もつかってきた。そのはじまりは昭和三十四年だが、そこからどこまでが出発の時期なのかということはいっていない。ここで現代児童文学史の時期区分を考えると、その第一期に先立つ前期とでもいうものがある。児童文学史は子どもの本の歴史と重なりあうところが多く、その考えを取り入れてみると、前期のはじまりは昭和二十五年一二月の岩波少年文庫の発刊であろう。この文庫で紹介された新しい外国作品は新しい刺激を日本の創作に及ぼし、また日本の子どもたちの財産となった。日本の作品では木下順二『日本民話選』が、その後の民話再話の質を高める役割をはたした。なお岩波書店は二十八年一二月から絵本「岩波の子どもの本」を発行し、これまたその後の絵本の創作と享受に多大の影響を与えた。
 現代児童文学の先駆的作品としては、いぬいとみこの『ながいながいペンギンの話』(昭和三二・第一部初出は昭和二九・一 一 同人誌『麦』5号)がある。ただ『ながいながいペンギンの話』を現代児童文学史の起点にしないのは、その時期ではまだそれに続く新しい作品群が生まれず、流れが形成されないからである。
 前期はこうして慢性的不況の時期と重なりあいながら、外国児童文学と、その『ながいながいペンギンの話』や『赤毛のポチ』、また「童話」批判の評論を生み出した同人誌の時代であり、やがては石森延男『コタンの口笛』(昭和三二)などによって創作児童文学の出版が用意された時期であった。
 そして、現代児童文学史の第一期は昭和三十四年の『だれも知らない小さな国』にはじまり、三十七年のおわりごろか、三十八年のなかばごろから第二期がはじまる。第一期を<可能性の時期>とするなら、この第二期は<混迷と模索の時期>である。そして、第三期は四十二、三年から現在に至る時期で、かりに児童文学の<社会化・商品化の時期>と名づけておこう。<社会化>というのは熟していないことばだが、いまのところ、適当な表現が見あたらない。なお、”現代に至る”といったが、四十七、八年には一つの転機がおとずれているようで、今、現代児童文学は新しい時期に踏みこみつつあるらしい。
 第二期のはじまりを告げる作品を、ぼくは那須田稔『ぼくらの出航』(昭和三七・一二)石川光男『若草色の汽船』(昭和三八・六)『子どもの家』同人の童話集『つるのとぶ日』(昭和三八・七)と考える。これらはいわゆる戦争児童文学のはじまりであるとともに、古い方法・形態の復活であった。『ぼくらの出航』は戦前の『少年倶楽部』誌上の作品中、少年の生活を書いたもの(その代表は佐藤紅緑である)と、ほぼ同様のパターンを持っている。すなわち正義感にみちた少年がおり、その少年が苦難に出あうが、なかまと共にそれを切り抜けていくというパターンである。そして、『若草色の汽船』『つるのとぶ日』はあきらかに「童話」である。
 この古い方法・形態の復活によって、ぼくは第二期がはじまると考えるのである。ただ『ぼくらの出航』は、第一期の大きなわく組である「散文によって人間の成長を書く物語」にはいるものであり、考え方によっては第一期に属するものかもしれない。いずれにしても第一期と第二期の境は、現代児童文学のはじまりのようにはっきりとしているものではない。
 だが、「童話」批判があれほど盛んであったにもかかわらず、なぜ「童話」が復活してきたのだろうか。その原因は一つは第一期にすでに内在している。第一期はさまざまな方法・形態の作品を生み出した。そこでは当然「童話」の再生もあるはずであり、事実おおえひで『南の風の物語』(昭和三六)は「童話」と呼ぶ方がふさわしい作品であった。「童話」はほろびたのではなく、のちの神宮のことばを借りれば「本来の機能への縮小」を行なったのである。『若草色の汽船』は海底に沈む兵士への鎮魂歌として、「童話」を再生させたのであった。
 「童話」復活のもう一つの原因は、せまい児童文学の世界では「童話」批判は盛んではあったが、世間にはひろがらず、またその「童話」批判の内容が不十分であったことである。「童話」イコール児童文学という、世間一般の錯覚を「童話」批判は打ち破ることができなかった。『つるのとぶ日』はその批判のとどかないところから生まれてくる。この童話集の作者たちのひとりは次のように語った。「わたしは、ヒロシマの原爆体験を、なんとかして民族のあとつぎである子どもたちに語りかけもしたい。そのために童話という表現の技術を身につけたい」。(『つるのとぶ日』解説)
 そして、このことばはまた書き手と戦争との関係について、第一期の人びととはちがった関係を『つるのとぶ日』の書き手たちが持っていたことを示している。第一期の人びとは戦争によって失われた自己を形成し直さなければならなかったが、『つるのとぶ日』の人たちはそうではない。彼女たちは原爆体験を伝達しようと考えたのである。第一期では戦争体験は書き手によって変化させ得るものであった。斉藤了一は和人のアイヌ侵略の物語の中に太平洋戦争を書き、いぬいとみこは太平洋戦争に限定されず、戦争に対してあるべき人間の態度をつくり上げようとした。だが、『つるのとぶ日』の書き手たちは事実としての戦争を前面に押し出したのである。そして『若草色の汽船』もまた事実としての戦争を書く。第二期を特徴づけるものは、第一期の社会批判的作品群にかわって、戦争の事実を書く戦争児童文学が多数出てきたことである。
 なぜ社会批判の作品群が少なくなり、事実としての戦争が書かれるようになったのか。いままでにも引用した神宮輝夫の「戦争児童文学の位置づけ」の中に、それを説明する発言がある。この発言は昭和四十二年十月のことだが、神宮は「最近の創作にはテーマが矮小化したものが多い」ことを前提として次のようにいった。
個人のひたむきな生き方や小さな不正とのたたかいや現実のありのままの抽出などということがテーマや素材になることが多くなった背後には、不安の中の平和、個人の喪失、革新思想の混乱などがあると思う。つまり戦後に多くの児童文学者たちが持った変革の意志と変革のプログラムが社会主義陣営の四分五裂や帝国主義力の一時的優勢の前にくずれ去り、自己の経験の領域にしかたよれなくなったのである。
 神宮は直接、戦争児童文学には言及していないが、六〇年安保以後の混乱と、この社会を突破していく出口のつかみにくさが、多くの人が事実としての戦争を書くようになった背景にあると思う。第一期と二期の境目にある吉田とし『巨人の風車』(昭和三七)は国外の事件にその突破口を求めたものであった。そして戦争児童文学に限定していえば、観念的な民主主義ではなく、民主主義を個人の内部に深めていこうとする動きが、戦争児童文学を生み出す一つの力になっていたのではなかろうか。
 だが、この時期を<戦争児童文学の時期>ではなく、<混迷と模索の時期>とするのは、この時期が経済のいわゆる高度成長の時期であり、神宮のいうように「変革のプログラム」はくずれ、書き手たちは第一期とはちがった方向を求めて模索せざるを得なかったからである。その混迷の象徴は小沢正『目をさませトラゴロウ』(昭和四〇)であり、おなじ年のいぬいとみこ『うみねこの空』はこの混迷を打ち破ろうとする実験であった。また体験にたよること多い戦争児童文学の中で、乙骨淑子『ぴぃちゃぁしゃん』(昭和三九)は戦争のメカニズムをとらえようと試み、今江祥智『海の日曜日』(昭和四一)は自由を求めて裏切られる、まさしくこの時期の作品であった。大石真『チョコレート戦争』(昭和四〇)は子どもの興味に密着しようとし、ぼく自身の『宿題ひきうけ株式会社』(昭和四一)は子どもの立場から現在の社会を見直そうとし、後藤竜二『天使で大地はいっぱいだ』(昭和四二)は一歩さがって、労働と人間との関係をとらえようとし、長崎源之助『ヒョコタンの山羊』(昭和四二)は戦争前夜をふりかえって、朝鮮人のいる庶民の町の姿を描き出した。
 この時期、創作の出版点数もふえ、また第一期では創作児童文学の出版は理論社・講談社・東都書房の三社を中心としていたが、実業之日本社がそれに加わった。そして、四十三年二月ポプラ社とあかね書房が低・中学年対象の創作シリーズを出しはじめたのち、各社こぞって創作出版に参加し、やがて創作を手がけない社の方が少なくなった。現代児童文学は第三期に突入したのである。


    8 第三期

 この第三期のはじまりをどこに置くか。それには三つの起点が考えられる。その第一はポプラ社が「むかしむかし絵本」シリーズをだしはじめた昭和四十二年四月であり、第二は斉藤隆介 文・滝平二郎 絵の絵本『八郎』が出たやはり四十二年の十二月であり、第三にはポプラ社とあかね書房の両社が低・中学年対象の創作シリーズを出しはじめた四十三年二月である。
 この起点をどう考えるかという前に、この時期の一般的特徴をいっておこう。その第一の特徴は児童文学作品の商品化である。この商品化は児童文学の自律的発展の結果、形成されたものではない。外部の条件によって急速に形成されたものである。その外部の条件とは、六〇年安保以後の経済の高度成長がもたらしたゆがみと、そのゆがみに対して子どもたちによい本をと願う人々の動きと、企業----ここでは児童出版社だが----が宿命的に持っている利潤追求の論理である。その結果、児童文学の作品そのものの多くは、たとえてみると促成栽培の野菜、あるいはむりに着色された果実に似てきた。
 商品化は必然的に多様化を招いた。多様化の現象は<混迷と模索の時期>にはっきりその姿を見せはじめたが、その芽生えはすでに第一期の『龍の子太郎』と『とべたら本こ』とのちがいに出ていた。そして、そこに見られるように、多様化の原因はもともと思想の多様化、児童文学観の多様化であった。しかし、第三期ではそのほかに新しい原因が二つ加わる。その第一は商品としての多様化であり、この現象は絵本の価値を持たない絵本の生産に代表される。第二は新しい読者層への対応である。
 そして、全体的傾向としての着色果実生産の裏がわでは、やはりすぐれた作品も生み出されており、これも多様化現象の一つを形成する。そして、この作品群は本質的にはやはり<混迷と模索>の中からの産物であろう。ただし、これを<ほんもの>とし、新しい読者層に対応する作品を<にせもの>とすることはできない。そこには新しい芽生えがあり、さらには評価の規準そのものも多様化しているからである。
 以上のように、この時期には商品化・多様化という特徴がある。では、<社会化>といったのはどういうことなのか。そこで第三期起点の問題に帰って、前にしるした三つの起点のうち、絵本『八郎』について<社会化>ということを考えてみたい。
 斉藤隆介の『八郎』は最初、昭和二十七年『人民文学』四月号に発表された。だから、絵本『八郎』および、この物語『八郎』もおさめた単行本『ベロ出しチョンマ』(昭和四二)は十五年ぶりの復活ということになる。二十七年は慢性的不況のはじまりのころだから、『八郎』が本になる条件はほとんどなかった。それが十五年ぶりに本になると、多くの読者を獲得した。この現象は、慢性的不況の十五年前には児童文学の読者層はまだ形成されていなかったが、十五年後には形成されていた、と解釈することができる。
 では、読者層形成の原因は何なのか。それには次のようなことが考えられる。まず経済の高度成長は日本の家庭にわずかだが、経済的余裕をもたらした。その経済的余裕は文化的欲求も呼びおこした。子どもには本が必要と考えるおとながふえてきたのである。
 一方、テレビ・児童週刊誌の増加は、うちの子はテレビだけを見て、マンガだけを読んで、という母親の不安をつくり出した。その不安は、一方では本を読まない、読めない子は将来の受験競争におくれを取るのではないか、という不安ともつながる。またテレビだけ、マンガだけへの不安は、学校教育の内容に対する不安ともつながる。たとえば教科書から太平洋戦争の記述がけずられていく。これでは人間としての成長が望めないのではないか、という不安である。また創造力・想像力の減退等の不安がある。
 つまり一方には、子どもの生活には空気があるようによい本がなくてはならいものだ、と思っている親・教師・図書館員の増加があり、一方には子どもの成長に不安を持っている人たちがいる。この両者はかならずしも別々の存在ではないが、自然成長的に児童文学の読者層を形成してきたのは前者であった。前者にはおとなであるその人自身、児童文学の愛好者----とまでいかなくても、義務的にではなく、児童文学を自分の読書の範囲に入れる人が多いのである。
 そのゆるやかに進んできた児童文学の読者層形成に、絵本『八郎』、また二年後のおなじ作者たちの絵本『花さき山』は一つの転機をもたらすことになる。後者の層も包みこんで読者層は急速にひろがり、多様化していくのである。作品としては絵本『八郎』がそのきっかけをつくったということで、ぼくはこの作品を第三期の起点の一つとして考えるのである。
 では、絵本『八郎』はなぜそういう役割をはたすことができたのか。さかのぼって考えると、絵本は「岩波の子どもの本」のあと、福音館書店の月刊絵本「こどものとも」、また「世界傑作絵本」や「日本傑作絵本」のシリーズが、外国絵本の移植と共に創作絵本の世界を切り開いてきた。ある時期、すぐれた絵本といえばほとんどこの両社発行のものであった。だが、福音館書店の弱点の一つは日本民話の絵本であった。絵ではなく文の方の問題だが、この社の民話再話は『子どもと文学』の考えによる技術的再話とでもいうものが多い。
 その弱点をつくことになったのが、ポプラ社の「むかしむかし絵本」シリーズである。松谷みよ子・大川悦生、このふたりは直接民話を採集し、民衆の生活の中で民話をとらえようとしてきた。このふたりを再話者の中心にすえ、また画家に全力を発揮させることによって、このシリーズは成功した。成功したというのは、すぐれた作品をつくり出すことと、売行きとの両方のことである。
 当時、民話はひろく待ち望まれていた、といってよい。核家族化した都市の家庭では子どもに昔話を話してやろうにもその話の細部を忘れている親がふえ、また経済の高度成長の中で変貌していく社会は、かえって日本とは何かということを強くふりかえる気持ちをおこさせる。さらには経済成長のひずみが出てきた社会の中で、人間の生き方はこれでよいのかという不安も生まれてきたが、民話は先祖の生き方を語ってその不安にも答える。そして、民話絵本は、かつての生活からはなれて民話のイメージ形成の手がかり少ない子どもたちに、絵によってその手がかりを与えた。
 こうして「むかしむかし絵本」が進行している途中、絵本『八郎』が出現した。『八郎』は民話風の創作であり、語りの口調と豊かなイメージを持ち、それに民話よりもはっきりと人間の生き方を示していた。そして、白黒の切り絵が物語をより単純化し、絵に表現された主人公八郎の姿は迫力にみちていた。実はその迫力と単純化が斉藤『八郎』の持つこまやかさをこわした面もあるが、新鮮であったことはまちがいない。そして、何よりもこの絵は多数の人の心をつかむ大衆性を持っていた。
 一口にいえば、この絵本は文・絵共にいままでの絵本とはちがっていた。日本民話や世界名作のあらすじだけを抜書きして、銭湯のペンキ絵風の絵をつけた通俗絵本類ともちがうし、またそれまでの福音館書店の絵本とも異質であった。異質であるというのは、この絵本が実はその大衆性において通俗絵本とおなじ基盤の上に成り立っているものだからである。
 こうして絵本『八郎』は、ふつう作品が読者に対してはたす役割をはるかに超えた社会的役割をはたすことになる。その一つは、通俗絵本類と明瞭に対立する絵本があるということを、人びとにしらせる役割である。もう一つは、おとなに、おとなも感動する絵本があるということを認識させる役割である。
 もちろん、絵本『八郎』は独自でその役割をはたしたわけではない。そのころやはり急速に進行しはじめた読書運動の中に組みこまれて、その役割をはたす。当時組織化されはじめた読書運動は、この絵本『八郎』、また二年後の『花さき山』を有力な武器にして、先にいった読者層の後者、子どもの成長に不安を持ち、子どもの本に関心を持ちながら、具体的には子どもの本を知らず、当時はまだ読者層になっていない層にむかって、子どもの本をひろげていくことになる。その結果、現代児童文学は一つの社会的存在としての位置を占めるようになった。
  もちろん、絵本『八郎』だけがその役割をはたしたわけではない。さまざまの本が運動の中で使われたことはいうまでもない。ただ絵本『八郎』はその一例とだけいうより以上の役割をはたしたのである。ここで重要なのは、いま「社会的存在としての位置を占めるようになった」といった、それが日本の現代児童文学である、ということである。外国児童文学の古典名作はすでに社会的存在になっており、また岩波少年文庫以来二十世紀の外国児童文学もほぼ同様といってよい。また賢治・未明・譲治・南吉など、日本の近代の作家たちもそうである。だが、日本の現代児童文学全体はそうではなかった。それが全体として浮かび上がってきた。それにはおとなも感動する絵本『八郎』の役割が大きかった、ということである。
 現代児童文学が社会的存在としての位置を占めるようになったということ、この状態が児童文学の<社会化>だが、この現象だけが<社会化>ではない。それ以外にもう一つ、<商品化>も<社会化>の一つだが、この状態を出現させた条件もまた児童文学<社会化>の中にはいるだろう。その条件の第一は、児童文学に対するおとなの意識の変化である。つまり現代児童文学の価値をまだ少数でしかなく、またその認めかたはさまざまだが、おとなたちが認めるようになったことである。
 条件の第二は読書運動の発展である。その運動の中で取り上げられた本としては、現代児童文学の本が一番多いだろう。奇妙ないい方だが、児童文学はそれまでつねに児童文学として存在しているだけであった。それがここで読書運動にも所属するようになったのである。
 第三には商品の領域に所属するようになった。<社会化>の一つとして<商品化>がある、といったのはそのことである。現代児童文学は固有の領域で社会とふれあうだけでなく、他の領域、それも直接社会とふれあう領域の二つに位置づけられたのである。
 先に四十二年二月にポプラ社・あかね書房両社の低・中学年対象の創作シリーズが出たことをいった。これは出版社にとっては新種の商品であった。それ以前、創作は商品としては特殊なものであった。利潤の薄いものであることがはっきりしていた。だから、創作を出すことはその出版社の良心の証とさえ見られていた。したがって計画的に創作を依頼し発行するというシステムよりも、作者が自発的に書いた創作を出版社に持ちこみ、出版社は検討の結果それを出すということの方が多かった。だから、販売の都合上、できあがったものがシリーズの形式を取ってはいても、実情はかならずしもそうではなかった。
 昭和四十三年の創作シリーズでは事情がかわった。依頼による執筆・計画的な刊行が行なわれた。出版社は最初からこのシリーズを商品として考えていたのである。出版社もつねに新しい商品を開発しなければならない。創作もその開発商品の一つである。それがこの時期、日程にのぼったのは、学校図書館がさまざまの全集・シリーズをそなえたあと、不足しているのは低・中学年対象の創作であるという見通しがあったからではなかろうか。またある程度進行していた読書運動もその条件になったろう。
 しかし、それでもなお不安は残ったはずである。そこを踏み切らせたのは、全国学校図書館協議会主催の青少年読書感想文全国コンクールの課題図書の存在であろう。このコンクールには対象自由の部類もあるが、図書を指定しての募集もあり、それに指定された図書が課題図書である。課題図書に指定された本は、感想文を書くために学校図書館が何冊も用意し、また児童・生徒個人が買うために、売行きがよい。課題図書の方式は昭和三十七年にはじまったが、年々売行きが増し、昭和十二年では推定部数、低学年では十五万であろう。この数字はもしシリーズ十冊中の一冊が課題図書に指定されたら、シリーズ全体としては採算のとれる数字である。
 商品としての創作シリーズ発行の事情はこのように推察されるが、ぼくは商品すなわち悪とは考えていない。創作が市民権を持つことを児童文学者はながらく夢見てきたのであり、また編集者の中にもそういう人が多い。さらに読書運動の中にもより多くの創作を望む声があり、こうした望みと企業としての出版社のソロバンが合った時、商品としての創作シリーズが実現したのである。だから、ポプラ社のシリーズの中には、神沢利子『くまの子ウーフ』(昭和四四)のように幼児の成長を書いたすぐれた作品が生まれ、あかね書房のシリーズでは子どもが楽しめる物語が何冊か出現した。
 しかし、課題図書という制度がなければ、この創作シリーズの実現はもっとおくれていただろう。その後の各社の創作出版についても同様である。児童文学と、それに対応する読者の意識が自然に成長して、創作が流通機構すなわち商品販売の機構に乗ったわけではない。課題図書という変則的なものを実現の鍵とし、読書運動が切り開いた市場の上で今日の創作出版は展開している。児童文学そのものの成長よりも外部の条件が強く働いたのであった。
 着色果実風創作が生まれてきたのはその結果である。ただ一口に着色果実風創作といっても、作者にとっては主観的には誠実な作業によって生まれてきたものも多い。これは総体としての現代児童文学の水準の問題であろう。その水準が商品の品質の最低線をきめるのである。そして、その水準は、個々の作者の児童文学によって表現し、追求しようとする内容と、どこまで表現し、追求し得るかという方法との総和の中から自ら導き出される。ひとりの作者に還元するなら、その作者が児童文学をどこまで自分のものとしているか、という問題である。そのように見ると、大石真の次の発言には、主観的には誠実な着色果実風創作が生まれてくる原因の一部が姿を見せているのではなかろうか。彼はいう。
 そのうち、ぼくは童話というものは、いちばんに、子どもにおもしろくなくては駄目であると考えるようになった。子どもにおもしろく、しかも、大人が読んでも、おもしろくなくては駄目であると思った。(中略)こうしてぼくが意識的な方法で試みた作品といえば、『チョコレート戦争』『見えなくなったクロ』『ふしぎなつむじ風』などが挙げられるだろう。
 これらの作品を書いているとき、ぼくは、ぼくの心に巣喰ういたずら心(子どもの心にひそむあれ----そして童話作家にとって、それはたいへん大切なことだと思うが)を満すことができ、また、書きながらもたいへん楽しかった。
 ところが、そのような作品ばかり書きつづけて来ると、なぜか、ときどきぼくは妙ないらだちを感じて来るのである。
 つまり、ぼくの体の中に、次第におりのようなものがたまって来て、どうしても、それを吐き出さずにはいられないように衝動が湧いて来るのだ。
 そうしたとき、そのぼくを満足させる方法といえば、やはり、日常に忠実な作品を書くことしかないのであった。最近でいえば、『教室二〇五号』がそうした仕事である。(昭和四四・一 一『日本児童文学』)
 この大石発言では大石個人の内部で分裂している児童文学のあり方が語られている。そして、これは大石ひとりだけの問題ではない。多くの書き手の問題である。現代児童文学の水準はこの分裂を反映している。子どもの興味をそそることに焦点をしぼった『チョコレート戦争』は、児童文学の<社会化>のいわばはしりの一つであった。その<社会化>と書き手の内部とが統一されていないのである。
(『講座・日本児童文学 5 現代児童文学史』 一九七四年明治書院)
テキストファイル化7 児童文学史の時期区分

 いままで現代児童文学出発の時期ということばを何度もつかってきた。そのはじまりは昭和三十四年だが、そこからどこまでが出発の時期なのかということはいっていない。ここで現代児童文学史の時期区分を考えると、その第一期に先立つ前期とでもいうものがある。児童文学史は子どもの本の歴史と重なりあうところが多く、その考えを取り入れてみると、前期のはじまりは昭和二十五年一二月の岩波少年文庫の発刊であろう。この文庫で紹介された新しい外国作品は新しい刺激を日本の創作に及ぼし、また日本の子どもたちの財産となった。日本の作品では木下順二『日本民話選』が、その後の民話再話の質を高める役割をはたした。なお岩波書店は二十八年一二月から絵本「岩波の子どもの本」を発行し、これまたその後の絵本の創作と享受に多大の影響を与えた。
 現代児童文学の先駆的作品としては、いぬいとみこの『ながいながいペンギンの話』(昭和三二・第一部初出は昭和二九・一 一 同人誌『麦』5号)がある。ただ『ながいながいペンギンの話』を現代児童文学史の起点にしないのは、その時期ではまだそれに続く新しい作品群が生まれず、流れが形成されないからである。
 前期はこうして慢性的不況の時期と重なりあいながら、外国児童文学と、その『ながいながいペンギンの話』や『赤毛のポチ』、また「童話」批判の評論を生み出した同人誌の時代であり、やがては石森延男『コタンの口笛』(昭和三二)などによって創作児童文学の出版が用意された時期であった。
 そして、現代児童文学史の第一期は昭和三十四年の『だれも知らない小さな国』にはじまり、三十七年のおわりごろか、三十八年のなかばごろから第二期がはじまる。第一期を<可能性の時期>とするなら、この第二期は<混迷と模索の時期>である。そして、第三期は四十二、三年から現在に至る時期で、かりに児童文学の<社会化・商品化の時期>と名づけておこう。<社会化>というのは熟していないことばだが、いまのところ、適当な表現が見あたらない。なお、”現代に至る”といったが、四十七、八年には一つの転機がおとずれているようで、今、現代児童文学は新しい時期に踏みこみつつあるらしい。
 第二期のはじまりを告げる作品を、ぼくは那須田稔『ぼくらの出航』(昭和三七・一二)石川光男『若草色の汽船』(昭和三八・六)『子どもの家』同人の童話集『つるのとぶ日』(昭和三八・七)と考える。これらはいわゆる戦争児童文学のはじまりであるとともに、古い方法・形態の復活であった。『ぼくらの出航』は戦前の『少年倶楽部』誌上の作品中、少年の生活を書いたもの(その代表は佐藤紅緑である)と、ほぼ同様のパターンを持っている。すなわち正義感にみちた少年がおり、その少年が苦難に出あうが、なかまと共にそれを切り抜けていくというパターンである。そして、『若草色の汽船』『つるのとぶ日』はあきらかに「童話」である。
 この古い方法・形態の復活によって、ぼくは第二期がはじまると考えるのである。ただ『ぼくらの出航』は、第一期の大きなわく組である「散文によって人間の成長を書く物語」にはいるものであり、考え方によっては第一期に属するものかもしれない。いずれにしても第一期と第二期の境は、現代児童文学のはじまりのようにはっきりとしているものではない。
 だが、「童話」批判があれほど盛んであったにもかかわらず、なぜ「童話」が復活してきたのだろうか。その原因は一つは第一期にすでに内在している。第一期はさまざまな方法・形態の作品を生み出した。そこでは当然「童話」の再生もあるはずであり、事実おおえひで『南の風の物語』(昭和三六)は「童話」と呼ぶ方がふさわしい作品であった。「童話」はほろびたのではなく、のちの神宮のことばを借りれば「本来の機能への縮小」を行なったのである。『若草色の汽船』は海底に沈む兵士への鎮魂歌として、「童話」を再生させたのであった。
 「童話」復活のもう一つの原因は、せまい児童文学の世界では「童話」批判は盛んではあったが、世間にはひろがらず、またその「童話」批判の内容が不十分であったことである。「童話」イコール児童文学という、世間一般の錯覚を「童話」批判は打ち破ることができなかった。『つるのとぶ日』はその批判のとどかないところから生まれてくる。この童話集の作者たちのひとりは次のように語った。「わたしは、ヒロシマの原爆体験を、なんとかして民族のあとつぎである子どもたちに語りかけもしたい。そのために童話という表現の技術を身につけたい」。(『つるのとぶ日』解説)
 そして、このことばはまた書き手と戦争との関係について、第一期の人びととはちがった関係を『つるのとぶ日』の書き手たちが持っていたことを示している。第一期の人びとは戦争によって失われた自己を形成し直さなければならなかったが、『つるのとぶ日』の人たちはそうではない。彼女たちは原爆体験を伝達しようと考えたのである。第一期では戦争体験は書き手によって変化させ得るものであった。斉藤了一は和人のアイヌ侵略の物語の中に太平洋戦争を書き、いぬいとみこは太平洋戦争に限定されず、戦争に対してあるべき人間の態度をつくり上げようとした。だが、『つるのとぶ日』の書き手たちは事実としての戦争を前面に押し出したのである。そして『若草色の汽船』もまた事実としての戦争を書く。第二期を特徴づけるものは、第一期の社会批判的作品群にかわって、戦争の事実を書く戦争児童文学が多数出てきたことである。
 なぜ社会批判の作品群が少なくなり、事実としての戦争が書かれるようになったのか。いままでにも引用した神宮輝夫の「戦争児童文学の位置づけ」の中に、それを説明する発言がある。この発言は昭和四十二年十月のことだが、神宮は「最近の創作にはテーマが矮小化したものが多い」ことを前提として次のようにいった。
個人のひたむきな生き方や小さな不正とのたたかいや現実のありのままの抽出などということがテーマや素材になることが多くなった背後には、不安の中の平和、個人の喪失、革新思想の混乱などがあると思う。つまり戦後に多くの児童文学者たちが持った変革の意志と変革のプログラムが社会主義陣営の四分五裂や帝国主義力の一時的優勢の前にくずれ去り、自己の経験の領域にしかたよれなくなったのである。
 神宮は直接、戦争児童文学には言及していないが、六〇年安保以後の混乱と、この社会を突破していく出口のつかみにくさが、多くの人が事実としての戦争を書くようになった背景にあると思う。第一期と二期の境目にある吉田とし『巨人の風車』(昭和三七)は国外の事件にその突破口を求めたものであった。そして戦争児童文学に限定していえば、観念的な民主主義ではなく、民主主義を個人の内部に深めていこうとする動きが、戦争児童文学を生み出す一つの力になっていたのではなかろうか。
 だが、この時期を<戦争児童文学の時期>ではなく、<混迷と模索の時期>とするのは、この時期が経済のいわゆる高度成長の時期であり、神宮のいうように「変革のプログラム」はくずれ、書き手たちは第一期とはちがった方向を求めて模索せざるを得なかったからである。その混迷の象徴は小沢正『目をさませトラゴロウ』(昭和四〇)であり、おなじ年のいぬいとみこ『うみねこの空』はこの混迷を打ち破ろうとする実験であった。また体験にたよること多い戦争児童文学の中で、乙骨淑子『ぴぃちゃぁしゃん』(昭和三九)は戦争のメカニズムをとらえようと試み、今江祥智『海の日曜日』(昭和四一)は自由を求めて裏切られる、まさしくこの時期の作品であった。大石真『チョコレート戦争』(昭和四〇)は子どもの興味に密着しようとし、ぼく自身の『宿題ひきうけ株式会社』(昭和四一)は子どもの立場から現在の社会を見直そうとし、後藤竜二『天使で大地はいっぱいだ』(昭和四二)は一歩さがって、労働と人間との関係をとらえようとし、長崎源之助『ヒョコタンの山羊』(昭和四二)は戦争前夜をふりかえって、朝鮮人のいる庶民の町の姿を描き出した。
 この時期、創作の出版点数もふえ、また第一期では創作児童文学の出版は理論社・講談社・東都書房の三社を中心としていたが、実業之日本社がそれに加わった。そして、四十三年二月ポプラ社とあかね書房が低・中学年対象の創作シリーズを出しはじめたのち、各社こぞって創作出版に参加し、やがて創作を手がけない社の方が少なくなった。現代児童文学は第三期に突入したのである。


    8 第三期

 この第三期のはじまりをどこに置くか。それには三つの起点が考えられる。その第一はポプラ社が「むかしむかし絵本」シリーズをだしはじめた昭和四十二年四月であり、第二は斉藤隆介 文・滝平二郎 絵の絵本『八郎』が出たやはり四十二年の十二月であり、第三にはポプラ社とあかね書房の両社が低・中学年対象の創作シリーズを出しはじめた四十三年二月である。
 この起点をどう考えるかという前に、この時期の一般的特徴をいっておこう。その第一の特徴は児童文学作品の商品化である。この商品化は児童文学の自律的発展の結果、形成されたものではない。外部の条件によって急速に形成されたものである。その外部の条件とは、六〇年安保以後の経済の高度成長がもたらしたゆがみと、そのゆがみに対して子どもたちによい本をと願う人々の動きと、企業----ここでは児童出版社だが----が宿命的に持っている利潤追求の論理である。その結果、児童文学の作品そのものの多くは、たとえてみると促成栽培の野菜、あるいはむりに着色された果実に似てきた。
 商品化は必然的に多様化を招いた。多様化の現象は<混迷と模索の時期>にはっきりその姿を見せはじめたが、その芽生えはすでに第一期の『龍の子太郎』と『とべたら本こ』とのちがいに出ていた。そして、そこに見られるように、多様化の原因はもともと思想の多様化、児童文学観の多様化であった。しかし、第三期ではそのほかに新しい原因が二つ加わる。その第一は商品としての多様化であり、この現象は絵本の価値を持たない絵本の生産に代表される。第二は新しい読者層への対応である。
 そして、全体的傾向としての着色果実生産の裏がわでは、やはりすぐれた作品も生み出されており、これも多様化現象の一つを形成する。そして、この作品群は本質的にはやはり<混迷と模索>の中からの産物であろう。ただし、これを<ほんもの>とし、新しい読者層に対応する作品を<にせもの>とすることはできない。そこには新しい芽生えがあり、さらには評価の規準そのものも多様化しているからである。
 以上のように、この時期には商品化・多様化という特徴がある。では、<社会化>といったのはどういうことなのか。そこで第三期起点の問題に帰って、前にしるした三つの起点のうち、絵本『八郎』について<社会化>ということを考えてみたい。
 斉藤隆介の『八郎』は最初、昭和二十七年『人民文学』四月号に発表された。だから、絵本『八郎』および、この物語『八郎』もおさめた単行本『ベロ出しチョンマ』(昭和四二)は十五年ぶりの復活ということになる。二十七年は慢性的不況のはじまりのころだから、『八郎』が本になる条件はほとんどなかった。それが十五年ぶりに本になると、多くの読者を獲得した。この現象は、慢性的不況の十五年前には児童文学の読者層はまだ形成されていなかったが、十五年後には形成されていた、と解釈することができる。
 では、読者層形成の原因は何なのか。それには次のようなことが考えられる。まず経済の高度成長は日本の家庭にわずかだが、経済的余裕をもたらした。その経済的余裕は文化的欲求も呼びおこした。子どもには本が必要と考えるおとながふえてきたのである。
 一方、テレビ・児童週刊誌の増加は、うちの子はテレビだけを見て、マンガだけを読んで、という母親の不安をつくり出した。その不安は、一方では本を読まない、読めない子は将来の受験競争におくれを取るのではないか、という不安ともつながる。またテレビだけ、マンガだけへの不安は、学校教育の内容に対する不安ともつながる。たとえば教科書から太平洋戦争の記述がけずられていく。これでは人間としての成長が望めないのではないか、という不安である。また創造力・想像力の減退等の不安がある。
 つまり一方には、子どもの生活には空気があるようによい本がなくてはならいものだ、と思っている親・教師・図書館員の増加があり、一方には子どもの成長に不安を持っている人たちがいる。この両者はかならずしも別々の存在ではないが、自然成長的に児童文学の読者層を形成してきたのは前者であった。前者にはおとなであるその人自身、児童文学の愛好者----とまでいかなくても、義務的にではなく、児童文学を自分の読書の範囲に入れる人が多いのである。
 そのゆるやかに進んできた児童文学の読者層形成に、絵本『八郎』、また二年後のおなじ作者たちの絵本『花さき山』は一つの転機をもたらすことになる。後者の層も包みこんで読者層は急速にひろがり、多様化していくのである。作品としては絵本『八郎』がそのきっかけをつくったということで、ぼくはこの作品を第三期の起点の一つとして考えるのである。
 では、絵本『八郎』はなぜそういう役割をはたすことができたのか。さかのぼって考えると、絵本は「岩波の子どもの本」のあと、福音館書店の月刊絵本「こどものとも」、また「世界傑作絵本」や「日本傑作絵本」のシリーズが、外国絵本の移植と共に創作絵本の世界を切り開いてきた。ある時期、すぐれた絵本といえばほとんどこの両社発行のものであった。だが、福音館書店の弱点の一つは日本民話の絵本であった。絵ではなく文の方の問題だが、この社の民話再話は『子どもと文学』の考えによる技術的再話とでもいうものが多い。
 その弱点をつくことになったのが、ポプラ社の「むかしむかし絵本」シリーズである。松谷みよ子・大川悦生、このふたりは直接民話を採集し、民衆の生活の中で民話をとらえようとしてきた。このふたりを再話者の中心にすえ、また画家に全力を発揮させることによって、このシリーズは成功した。成功したというのは、すぐれた作品をつくり出すことと、売行きとの両方のことである。
 当時、民話はひろく待ち望まれていた、といってよい。核家族化した都市の家庭では子どもに昔話を話してやろうにもその話の細部を忘れている親がふえ、また経済の高度成長の中で変貌していく社会は、かえって日本とは何かということを強くふりかえる気持ちをおこさせる。さらには経済成長のひずみが出てきた社会の中で、人間の生き方はこれでよいのかという不安も生まれてきたが、民話は先祖の生き方を語ってその不安にも答える。そして、民話絵本は、かつての生活からはなれて民話のイメージ形成の手がかり少ない子どもたちに、絵によってその手がかりを与えた。
 こうして「むかしむかし絵本」が進行している途中、絵本『八郎』が出現した。『八郎』は民話風の創作であり、語りの口調と豊かなイメージを持ち、それに民話よりもはっきりと人間の生き方を示していた。そして、白黒の切り絵が物語をより単純化し、絵に表現された主人公八郎の姿は迫力にみちていた。実はその迫力と単純化が斉藤『八郎』の持つこまやかさをこわした面もあるが、新鮮であったことはまちがいない。そして、何よりもこの絵は多数の人の心をつかむ大衆性を持っていた。
 一口にいえば、この絵本は文・絵共にいままでの絵本とはちがっていた。日本民話や世界名作のあらすじだけを抜書きして、銭湯のペンキ絵風の絵をつけた通俗絵本類ともちがうし、またそれまでの福音館書店の絵本とも異質であった。異質であるというのは、この絵本が実はその大衆性において通俗絵本とおなじ基盤の上に成り立っているものだからである。
 こうして絵本『八郎』は、ふつう作品が読者に対してはたす役割をはるかに超えた社会的役割をはたすことになる。その一つは、通俗絵本類と明瞭に対立する絵本があるということを、人びとにしらせる役割である。もう一つは、おとなに、おとなも感動する絵本があるということを認識させる役割である。
 もちろん、絵本『八郎』は独自でその役割をはたしたわけではない。そのころやはり急速に進行しはじめた読書運動の中に組みこまれて、その役割をはたす。当時組織化されはじめた読書運動は、この絵本『八郎』、また二年後の『花さき山』を有力な武器にして、先にいった読者層の後者、子どもの成長に不安を持ち、子どもの本に関心を持ちながら、具体的には子どもの本を知らず、当時はまだ読者層になっていない層にむかって、子どもの本をひろげていくことになる。その結果、現代児童文学は一つの社会的存在としての位置を占めるようになった。
  もちろん、絵本『八郎』だけがその役割をはたしたわけではない。さまざまの本が運動の中で使われたことはいうまでもない。ただ絵本『八郎』はその一例とだけいうより以上の役割をはたしたのである。ここで重要なのは、いま「社会的存在としての位置を占めるようになった」といった、それが日本の現代児童文学である、ということである。外国児童文学の古典名作はすでに社会的存在になっており、また岩波少年文庫以来二十世紀の外国児童文学もほぼ同様といってよい。また賢治・未明・譲治・南吉など、日本の近代の作家たちもそうである。だが、日本の現代児童文学全体はそうではなかった。それが全体として浮かび上がってきた。それにはおとなも感動する絵本『八郎』の役割が大きかった、ということである。
 現代児童文学が社会的存在としての位置を占めるようになったということ、この状態が児童文学の<社会化>だが、この現象だけが<社会化>ではない。それ以外にもう一つ、<商品化>も<社会化>の一つだが、この状態を出現させた条件もまた児童文学<社会化>の中にはいるだろう。その条件の第一は、児童文学に対するおとなの意識の変化である。つまり現代児童文学の価値をまだ少数でしかなく、またその認めかたはさまざまだが、おとなたちが認めるようになったことである。
 条件の第二は読書運動の発展である。その運動の中で取り上げられた本としては、現代児童文学の本が一番多いだろう。奇妙ないい方だが、児童文学はそれまでつねに児童文学として存在しているだけであった。それがここで読書運動にも所属するようになったのである。
 第三には商品の領域に所属するようになった。<社会化>の一つとして<商品化>がある、といったのはそのことである。現代児童文学は固有の領域で社会とふれあうだけでなく、他の領域、それも直接社会とふれあう領域の二つに位置づけられたのである。
 先に四十二年二月にポプラ社・あかね書房両社の低・中学年対象の創作シリーズが出たことをいった。これは出版社にとっては新種の商品であった。それ以前、創作は商品としては特殊なものであった。利潤の薄いものであることがはっきりしていた。だから、創作を出すことはその出版社の良心の証とさえ見られていた。したがって計画的に創作を依頼し発行するというシステムよりも、作者が自発的に書いた創作を出版社に持ちこみ、出版社は検討の結果それを出すということの方が多かった。だから、販売の都合上、できあがったものがシリーズの形式を取ってはいても、実情はかならずしもそうではなかった。
 昭和四十三年の創作シリーズでは事情がかわった。依頼による執筆・計画的な刊行が行なわれた。出版社は最初からこのシリーズを商品として考えていたのである。出版社もつねに新しい商品を開発しなければならない。創作もその開発商品の一つである。それがこの時期、日程にのぼったのは、学校図書館がさまざまの全集・シリーズをそなえたあと、不足しているのは低・中学年対象の創作であるという見通しがあったからではなかろうか。またある程度進行していた読書運動もその条件になったろう。
 しかし、それでもなお不安は残ったはずである。そこを踏み切らせたのは、全国学校図書館協議会主催の青少年読書感想文全国コンクールの課題図書の存在であろう。このコンクールには対象自由の部類もあるが、図書を指定しての募集もあり、それに指定された図書が課題図書である。課題図書に指定された本は、感想文を書くために学校図書館が何冊も用意し、また児童・生徒個人が買うために、売行きがよい。課題図書の方式は昭和三十七年にはじまったが、年々売行きが増し、昭和十二年では推定部数、低学年では十五万であろう。この数字はもしシリーズ十冊中の一冊が課題図書に指定されたら、シリーズ全体としては採算のとれる数字である。
 商品としての創作シリーズ発行の事情はこのように推察されるが、ぼくは商品すなわち悪とは考えていない。創作が市民権を持つことを児童文学者はながらく夢見てきたのであり、また編集者の中にもそういう人が多い。さらに読書運動の中にもより多くの創作を望む声があり、こうした望みと企業としての出版社のソロバンが合った時、商品としての創作シリーズが実現したのである。だから、ポプラ社のシリーズの中には、神沢利子『くまの子ウーフ』(昭和四四)のように幼児の成長を書いたすぐれた作品が生まれ、あかね書房のシリーズでは子どもが楽しめる物語が何冊か出現した。
 しかし、課題図書という制度がなければ、この創作シリーズの実現はもっとおくれていただろう。その後の各社の創作出版についても同様である。児童文学と、それに対応する読者の意識が自然に成長して、創作が流通機構すなわち商品販売の機構に乗ったわけではない。課題図書という変則的なものを実現の鍵とし、読書運動が切り開いた市場の上で今日の創作出版は展開している。児童文学そのものの成長よりも外部の条件が強く働いたのであった。
 着色果実風創作が生まれてきたのはその結果である。ただ一口に着色果実風創作といっても、作者にとっては主観的には誠実な作業によって生まれてきたものも多い。これは総体としての現代児童文学の水準の問題であろう。その水準が商品の品質の最低線をきめるのである。そして、その水準は、個々の作者の児童文学によって表現し、追求しようとする内容と、どこまで表現し、追求し得るかという方法との総和の中から自ら導き出される。ひとりの作者に還元するなら、その作者が児童文学をどこまで自分のものとしているか、という問題である。そのように見ると、大石真の次の発言には、主観的には誠実な着色果実風創作が生まれてくる原因の一部が姿を見せているのではなかろうか。彼はいう。
 そのうち、ぼくは童話というものは、いちばんに、子どもにおもしろくなくては駄目であると考えるようになった。子どもにおもしろく、しかも、大人が読んでも、おもしろくなくては駄目であると思った。(中略)こうしてぼくが意識的な方法で試みた作品といえば、『チョコレート戦争』『見えなくなったクロ』『ふしぎなつむじ風』などが挙げられるだろう。
 これらの作品を書いているとき、ぼくは、ぼくの心に巣喰ういたずら心(子どもの心にひそむあれ----そして童話作家にとって、それはたいへん大切なことだと思うが)を満すことができ、また、書きながらもたいへん楽しかった。
 ところが、そのような作品ばかり書きつづけて来ると、なぜか、ときどきぼくは妙ないらだちを感じて来るのである。
 つまり、ぼくの体の中に、次第におりのようなものがたまって来て、どうしても、それを吐き出さずにはいられないように衝動が湧いて来るのだ。
 そうしたとき、そのぼくを満足させる方法といえば、やはり、日常に忠実な作品を書くことしかないのであった。最近でいえば、『教室二〇五号』がそうした仕事である。(昭和四四・一 一『日本児童文学』)
 この大石発言では大石個人の内部で分裂している児童文学のあり方が語られている。そして、これは大石ひとりだけの問題ではない。多くの書き手の問題である。現代児童文学の水準はこの分裂を反映している。子どもの興味をそそることに焦点をしぼった『チョコレート戦争』は、児童文学の<社会化>のいわばはしりの一つであった。その<社会化>と書き手の内部とが統一されていないのである。
(『講座・日本児童文学 5 現代児童文学史』 一九七四年明治書院)
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