『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

幼い子のための創作児童文学

「幼い子のための文学と思想」ということから話をはじめましょう。まず『子どもと文学』という本−この本は現在福音館から出ていますけれどもそれ以前は、昭和三十五年に中央公論社から出ました。石井桃子・いぬいとみこ・瀬田貞二・鈴木晋一・松居直・渡辺茂男、この六人のひとによって書かれました−この本は六〇年代の幼児・幼年の文学の発展に大きな役割をはたした本ですが、その中に児童文学とイデオロギーというようなものは関係がないということが述べられています。
「時代によって価値のかわるイデオロギーは−たとえば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが−それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです」
 と、こう書いてありますが、はたしてそのとおりなのだろうかと、ぼくははなはだ疑問に思っています。いったい<時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値>とはどういうものなのでしょうか。
 ぼくの高学年向きの作品の中に『宿題ひきうけ株式会社』というのがあります。これなどは宿題がなくなったらいらなくなる本です。宿題がある世の中では存在理由のある本だろうとぼくは思っています。この本の場合は時代の変遷と大いに関係があるわけです。だいたいぼくの作品は時代の変遷とかかわりすぎるほどかかわりすぎていると思います。
 そこで「変わらぬ価値」ということですがそれについてもいくつも考え方があるのではないかと思います。

 石井桃子さんの『くいしんぼうのはなこさん』という絵本があります。中谷千代子さんの絵です。この本は、ぼくは人に「良い本だよ」とすすめますし、子どもにも「おもしろい本だよ」といいます。でもこの作品の評価は読者の思想によって変わるだろうと思うのです。
 この話は、顔のまん中にはなが突きでていたのではなこさんとよばれている牛の物語です。はなこは、牧場へいってほかの牛と角の突きあいをやって女王になります。それからのち、はなこは水を飲む時もひとりじめし木かげもひとりじめし、ほかの牛はおあまりの水を飲み、おあまりの木かげで休みます。するとある日のこと、百姓がおいていった、いもとかぼちゃをいつものようにはなこさんがひとりで全部たべてしまいます。そして翌日アドバルーンのようにふくらんでしまい、医者がはなこのおなかのガスを抜いてスマートにする。そののちはもうひとりじめにしないでいい牛になるということで終わります。中谷千代子さんの絵で、この絵もぼくは非常に好きです。
 ところで、この絵本をよんでもらった幼稚園の子どもが、「どうしてほかの牛ははなこさんひとりに何でもやらせておくの?」といったそうです。
 先生が、「けんかに負けたから」といいますと、「それじゃ、けんかに負けたらいつまでもそうしていなければならないの?」ときいてきます。
「くいしんぼうのはなこさん」は、なんでもひとりじめした結果、アドバルーンのようになってしまったので、それからはひとりじめしなくなったということになりますが、これ自体ひとつの思想だと受けとれます。自分で自分を律していくという市民的考えがこの本の中にあるのだと思います。
 この本は教訓的だという人もありますが、ぼくは、これは単なる教訓ではないと思うのです。たとえばはなこがアドバルーンのようにふくらむといった、非常にユーモラスなところがあちこちにあるわけで、内から出てくるユーモアに支えられている作品ですから、外がわからのおしつけである教訓ではないと思うのです。
 ところで、この内から出てきたもので自分を律していくという考え方、これは近代市民の考え方だと思うのです。非常に個人というものを大切にする考え方です。
 このお話では、幼稚園の子どもが、「ほかの牛たちはどうしているの?」と指摘するように、はなこだけが前面に出ていて他との関係の中でとらえられていません。あるいは牧場での牛の生態がそうなのかもしれませんが……。
 子どもたちは、「ほかの牛たちが、みんなではなこひとりにそうさせないようにするのが、ちゃんとしたやり方じゃないか」と思ったので前の質問をしたわけなのでしょう。そうしますと、そういう子どもたちは、「みんなの中のひとり」という考え方を持っているわけで、それもひとつの思想ということになります。そして作品にも思想があるわけです。
 大げさと受けとられるかも知れませんが、さきほどの子どもの疑問は、集団の思想対個人の思想のぶつかりあいから生まれたものです。

 では、この作品の思想が時代とかかわりがあるのかないのか、また「みんなで」という考え方も時代とのかかわりがあるのかないのかということですが、前にもいいましたように、この作品に近代市民の思想があるとするなら、もうその「近代」というところで時代とかかわっています。そして、時代とのかかわりあいというのは、いいかえれば社会の在り方とのかかわりあいです。
 作品が、どういうふうなかたちで出てこようと、実は、作者の中に世の中をどう見るのか、人間をどう見るのかということがある限り、幼児の文学であっても、思想は当然出てくるものだと思うのです。むしろその際の現われ方の問題なのではないかと思うのです。
『龍の子太郎』の場合も、『おおきなかぶ』の場合もそうですが、生産への願いというものが最初に出てきます。その願いがかなえられた時にそれを収穫する労働が必要になります。『おおきなかぶ』では、ひとりで穫り入れることができなくなり、おじいさんはおばあさんをよんでくる、おばあさんはまごをよんでくる。まごは犬をよんでくるというぐあいに続きます。そこで<みんなで力をあわせて>というふうになってきます。
 最初に生産への願いがあり、次に労働があり、その労働は集団というかたちをとっているというわけです。
 人間が未開から現代まで発展してきたと考えるなら、人間をここまで発展させてきた原動力ともいうべきものはより多くの生産への願望であったでしょうし、それに伴う労働、みんなの力をあわせるということ、こういう最も基本的な三つの事柄が、ここにははいってきます。これこそ「変わらぬ価値」ですが、これと思想と関係ないかといいますと、ぼくはやはり大いに関係があると思うのです。
 幼い子のための話に、子どものしつけ話がありますが、これらは、子どもの心を大きくゆさぶりません。というのはしつけ話というものはおとなが一段上から子どもを見おろすというところから生まれていて、子どもをひとりの人間としてみていないからです。
 思想というものをひとつのイデオロギーとしてみないで、もっと広く考えると、<人間とはどういうものか>ということに還元されてきます。それは小さい子のものにも出てくるわけなのです。
 それがはっきり出ている本として『目をさませトラゴロウ』があります。
 この本は、山の竹やぶに住んでいるとらのトラゴロウの話の連作です。この中の最初に出てくる「一つが二つ」という話をみてみましょう。
 きつねが一つのものが二つになる機械を発明すると、動物たちが集まってきます。さるはりんごを、うさぎはにんじんをもってきてこの機械で二つにします。ところがトラゴロウは何ももっていない。考えて、自分を二匹にしてもらいます。二匹のとらになって出てくると、一匹はもう一匹に、「自分はねているからおまえが肉まんじゅうを探してこい」と命令します。ところがもう一匹の方も、「自分が本物なんだから……」といってけんかになります。そこできつねがあわてて二つのものを一つにする機械をつくります。そして、どたんばたんやっている二匹のとらをいっしょに機械に入れてまわすと、一匹のトラゴロウになって出てくるという話です。そこでほかの動物が、「おまえはほんとうのトラゴロウかい」とたずねると、トラゴロウは、「ぼくはほんとうのトラゴロウさ。トラゴロウはぼくだけさ。だからひるねしているあいだは肉まんじゅうをさがしにいけないし、肉まんじゅうをさがしているあいだはひるねができない。でももう一匹ぼくがふえれば、一日中、ぼくとぼくとでけんかばかり。やっぱりぼくは一匹だけの方がいいなあ」といって竹やぶの中にかえっていった、とあります。
 このトラゴロウについて、こんなふうにいった人がいます。「このトラゴロウは全体を通じて飢えた若きプロレタリアートである」と。
 ぼくはこれに同感です。このトラゴロウというとらは何ももっていませんが、他の連中はさるにしろ、うさぎにしろ、りんごやにんじんをもっているわけです。そしてそのもっているものを機械にかけてふやすことができるのです。ところがトラゴロウのもっているのは、肉まんじゅうをさがしにいくという労働力だけなわけです。それだから、自分が主人になって片方のトラゴロウを使おうという気を起こしたわけですが、やはり主人にはなれないので、やるべきことは自分でやらねばならないということになります。
 この本はずっとそういう物語で続いていて、題名になった『目をさませトラゴロウ』だけがちょっと違っているのです。この作品以外のトラゴロウの物語(一つが二つ」のように)は、ひとりでこんなふうに考え、行動し自覚したというところで終わっています。
 前述の『くいしんぼうのはなこさん』は、市民的立場からとらえられ、「トラゴロウ」は現代的なプロレタリアートという立場でとらえることができますが、そのどちらも他とのかかわりあいが出てこないのです。ところが最後の「目をさませトラゴロウ」だけは、いろいろなかたちで他の連中が出てきます。
 この最後の話以外は「皆で力をあわせて」ということは出てこないで、数年前流行語としていわれた、いわば人間疎外、つまり疎外されたトラゴロウとして出てきています。
 この疎外をどのように回復していくかということになりますが、トラゴロウは、自分ひとりでやっていくわけです。いちばんはっきりするのはこの中の「きばをなくすと」という物語です。
 トラゴロウは、きばを一本なくしたのでさがしにいきます。にわとりがいたのできいてみると、「みみずをたべたら教えてあげる」というので、きばの一本しかない口でたべます。にわとりは、きばは人間の男がもっていった、そのあとはぶたにきけ、というのでぶたのところへいきます。ぶたはトラゴロウに腐ったじゃがいもをくえというので、腐ったのをたべるというふうに続きます。
 こうしたことをのりこえていくわけですが、形としては、幼い子のための物語の形を実によく踏まえています。たとえば、したきりすずめのおやどはどこだというふうにさがしていく場合に、松谷みよこ文の「したきりすずめ」でしたら、途中で、牛あらいどん、馬あらいどんに会うわけです。牛の洗いじる七桶と馬の洗いじる七桶を飲んで、おじいさんはすずめをさがしにいきます。この作者の小沢正さんはおそらくこの「したきりすずめ」を知ってはいなかったと思います。「トラゴロウ」はこの「したきりすずめ」よりずっと前に書かれた物語ですし、小沢さんがそこまで民話を勉強していたとはぼくには思えません。
 結局、トラゴロウはきばを取り戻して帰るのですが、それはとらとしての自分を取り戻したということです。つまり、右のきばがないということは、自分が自分であるにもかかわらず、何かを失っている状態です。自分を取り戻したトラゴロウは、こんどは、きばをむき出すトラゴロウになっているわけで、これはとらがとらであることの強さを取り返してくるという形になっているわけです。
 これを人間にかえしていいますと、かいならされた人間が本来の人間性を失っていくいま、その人間性−この作品ではそれがとらのきばという強烈なものとして出てきていますが、それをとりかえさなければいけないということが、この物語の中に含まれているのだとぼくは思います。
 もっとも、作者自身はどう考えているのか、そこのところは何ともいえません。けれども外側からはそのような解釈を可能にする作品、といえるでしょう。
 しかしながらぼく自身は、このように人間が人間であるための何ものかを取り戻す時、ひとりではできないのではないか、もっと違うやり方なのではないか、という気持ちを非常に強くもっています。
 だが、文学作品はいわゆる思想だけでは評価できないもので、『目をさませトラゴロウ』中の「目をさませトラゴロウ」は、この本の中の作品では一番弱い作品です。
 このいわば集団の思想がはっきりと出ているのは『ながいながいペンギンの話』です。
 これは、くしゃみのルルとさむがりやのキキというふたごのペンギンがでてきます。ルルは冒険好きで、キキの方はおとなしいということになっています。そしてルルがひとりで出ていって迷子になり、捕鯨船の人間に連れていかれます。そうすると一方ペンギンたちの方では、今まで捕鯨船のやってきたくじらをうつなどのおこないをみて、人間たちを信用していない。そこで母親をはじめペンギンたちは、捕鯨船めがけておしよせていきます。
 このような場面が生まれてくるのは作者の思想と関係があることでひとつのある場面を考えつくということ自体、作者の思想のいちばん根底と結びついているのです。そうしたひとつひとつの設定とか情景すべてが、実は非常に広く深く作者の思想とかかわり合っているわけです。それの成功したかたちとして、このペンギンの母親集団の場面が出ているのではないかと思われます。
 このように思想は作品に現われてくるわけですから、イデオロギーというようなものもその中に含まれてくる場合もあるでしょうし、また、思想のない作品といわれているものの中にも思想があるのです。
 思想がないといういい方をしますと、たとえば寺村輝夫さんの作品がそういわれたことがあります。ぼくも何人かからきいたわけですけれども、問答しているうちにその人びとが到達した結論は、やっぱり思想はあるということでした。
 寺村さんの作品はいわゆるナンセンスものといわれていますが、子どもを、しばられているものから広く解放するという働きがあるわけです。『くいしんぼうのはなこさん』と『目をさませトラゴロウ』はどちらも思想をかなり強く出していると思うのですが、寺村さんの場合は、その思想ももっと広がったかたちで作品そのものを支えているという感じがします。
 寺村さんの『ぼくは王さま』の「王さま」というのは子ども自身のことと考えることができて、子どもが読んでいて自分自身を笑っていく、というようなこともこの中に含まれてくるわけです。『ぼくは王さま』の中の「ぞうのたまごのたまごやき」の中には、たまごやきの好きな王さまが出てくる。王子が生まれるお祝いにたまごやきを国中の人々にたべさせようとする。その際に、国中の人が食べられるほど大きいのは、ぞうのたまごのたまごやきだということで見つけにいきます。するとさいごに子どもに、「ぞうはたまごをうまないんだよ」と教えられるわけです。そこのおもしろさで、子どもがいままでとじこめられていた世界からわっと解放されるということになります。

 日本の幼児・幼年文学の場合を考えてみますと、戦前の幼稚園の教育をみてみましても必ずたとえ話が出てきます。どうしてもしつけ的なことが多いわけです。そうでなければただ単に情緒的であるというようなもの、この二つが多かったのではないかと思うのです。寺村さんの作品は、こうしたものから子どもを解放するのです。
 そして日本の児童文学の歴史を図式的にみますと、『ながいながいペンギンの話』は別として、昭和三十五年頃まで、戦後十年間あまりは、戦前からの延長ではなかったかとぼくは思います。そこでは子どもをちゃんとしたひとりの人間としてみていないのです。
 民主的児童文学という言葉が戦後の最初の頃、よくいわれました。いわゆる良心的児童雑誌というのが出てきて、そこに発表されたわけです。ところがその作品の多くがぼくにはおもしろくなかったのです。確かにいいことは言っているのですが、ものわかりのいいおとなが子どもにお説教しているという感じのものが多かったように思います。
 そうではなくて、子どもと同じ立場で子どもに対しているというものがでてくるわけですが、これが「近代」というものではないかと思います。それがでてきたのが昭和三十四、五年です。
 この『ながいながいペンギンの話』が同人雑誌に出ていたのが昭和二十九年のころです。これは初め宝文館から本になって出ましたが、それは昭和三十二年のことでした。その後、理論社から大判の本で出て、その後今の判になったわけです。そのころから寺村さんも王さまを主人公にした物語を書いていて、それが本になって出てきたのは三十六年でした。そういう中で子どもというものが、新しい立場で見直され、人間としてとらえられたとぼくは思っています。
 前述の『くいしんぼうのはなこさん』と『ぼくは王さま』とは、両方とも市民的な考えというものをふまえていますが、現代の幼児・幼年文学の発展は、いままで述べた作品をあいだにはさみながら、『ながいながいペンギンの話』からこの話をしている現在では神沢利子さんの『くまの子ウーフ』までの発展ということになると思います。
『ながいながいペンギンの話』をはしりとして、そのあと、三十四、五年からいろいろな作品が続いて出てきます。幼い子のためのものでは、たとえば中川李枝子さんの『いやいやえん』(これは昭和三十七年の本ですが、もともと三十年代前半に、いぬいさんや中川さんのやっていた同人誌に発表されたものです)、それから『ももいろのきりん』が出てきます。幼児のものでは、いぬいとみこさん・寺村輝夫さん・中川李枝子さん・小沢正さん・石井桃子さん・神沢利子さん・松谷みよこさんという人々が今の幼児の児童文学を担ってきたと思っています。また渡辺茂男さんも幼児絵本をかいています。この渡辺さんの作品をどう考えるかという問題も残っています。
 寺村さんが、『ながいながいペンギンの話』にはじまった新しい幼年文学の世界を広げた、ととらえるならば、もう少し年齢の低いところで、寺村さんのものと重なりあいながら中川さんの果たした役割は非常に大きいと思います。
 中川さんの作品は、幼児が自分の生活を認識していくという面を強くもっています。しかも、たいへん楽しみながら認識していくわけです。
 それに、このように幼児の生活というものをちゃんととらえた作品が他にあまりないものですから、いまだに人気があります。
 たとえば、絵本『ぐりとぐら』(大村百合子絵)の中で、のねずみのぐりとぐらは、森で大きなたまごをみつけ、それをカステラにしようとします。そこでうちからおなべとかバターとか牛乳とかいっぱい台所のものをはこんでくるわけです。ここには、はっきりと生活というものが出ています。『いやいやえん』の中の「おおかみ」という短編では、おおかみがしげるという子をたべようとします。ところがしげるの口のまわり、目のまわり、ほっぺた、はなの頭のきたないことでおおかみは目をまるくします。しげるの口のまわりには朝ごはんのたまごからおしょう油、ジャム、ビスケットの粉、キャラメル、牛乳、お昼にたべたさかなまで、みんなこびりついています。ほっぺたにはクレヨンで絵が描いてあります。おでことはなの頭には泥がついています。そこでおおかみは、こんなのをたべたらおなかに回虫がわくのではないかと考え、もっと衛生的に洗ってたべようということになります。
 このおおかみは、子どもの生活と心理に対応して出てくるわけです。洗ってたべようということも確かに生活とくっついていることで、これはファンタジーというよりむしろ、生活的な物語、空想的なものというより、幼児の心理と生活とをからみあわせたものだと思うのです。
 松谷みよこさんの『ちいさいモモちゃん』(昭和三九年)もやはり、幼児の生活の認識です。しかし、これは中川さんのとおなじような認識ではありません。この本は、モモちゃんが生まれたときからはじまってざっと三年間の物語で、いくつもの短編からできています。
 そこではっきりするのは、『いやいやえん』の読者は作中人物とおなじ年齢層の子どもですが、「モモちゃん」の読者はモモちゃんより年齢の高い子です。『いやいやえん』は読者に現在の自分自身の生活を認識させる、という働きがありますが、「モモちゃん」の場合は、過ぎ去った自分、自分の小さい妹や弟、近所の赤ちゃんなどを認識することになります。
また、母親やネコのプー、家庭生活、「あかちゃんのうち」というように、自分の生活の周辺の人や、自分の生活の場−過ぎた時間の上でですが−を認識することになります。
 しかし、この作品は母親の愛情に密着しすぎているのではないか、という感じもします。中川さんの場合はもっとつきはなしています。松谷さんは母親、中川さんは保母というそれぞれの目のちがいによるものかもしれません。

 いずれにしろ、六〇年代の前半、日本の幼い子の文学はさまざまの世界を開いていき、この数年のあいだには幼児・幼年のものが非常に多く出版されるようになりました。そして、いままであげたような人たちのものをふみ台にして、空想のかたちをとった物語がいっぱい出てきます。するとこれはひとつのきまったかたちのようになってしまいました。
 さっきの『子どもと文学』の中ではっきりいっているように、幼児のものの場合、まず発端があって展開があって終わりがあれば物語になります。これは単純なようであって本当であって、こういう一つの公式ができるわけです。
 そうしますと、いわばその公式に沿って物語を書けば幼児は喜ぶということになってきました。これを思想を抜かした浅いところでだけ書くと、かたちだけのものになってしまいます。
 そこで、その作者自身の何か言いたいこと(それは思想というものと深く関連しているわけですが)出ているかいないかということが、作品の価値というものにかかわってくるわけです。その価値のあるものが最近の幼児・幼年ものでは少なくなっていると思います。
 そのなかで、最近ぼくがじつにおもしろいと思ったのは、神沢さんの『くまの子ウーフ』です。ぼくはたいへんこの作品が好きです。この作品はこれまでに開拓されてきた幼児のものの中の、また新しい芽ばえのひとつだと思います。
 神沢さんに中級向きの『ちびっこカムのぼうけん』という作品があります。これは幼児・幼年ものの骨組みを強く残しながら、だいたい中級のものとして完成させているわけです。ところが『くまの子ウーフ』の場合は、幼児・幼年ものとして出てきています。この本は『ちびっこカムのぼうけん』よりはもう少し下の年齢、つまり幼稚園の上級からわかるのではないかと思っているのです。
 この作品の中の短編のひとつ、「ウーフはおしっこでできているか」をみてみましょう。
 ウーフの朝ごはんは、パンとはちみつと目玉やきでした、と始まります。そして、ウーフはおかあさんに、「ぽんとたまごを割ったでしょう。そしたらぽんとたまごがでてきたでしょう。きのうもその前もそうだったね」というと、「たまごがどうかしたの?」とおかあさんがいいます。「たまごってどうかしないんだね」とウーフはためいきをつきます。「ぽんと割ったらいつもきまったものがでてくるんだ。ぼくならなんでもよくまちがえるのに、たまごの中からはビー玉やマッチなんかでてこないね」といいます。
 ここのところは、幼児のものの考え方を実に的確につかんでいると思うのです。子どもはよくまちがえるものです。おとなはたまごをぽんと割ったらたまごが出てくるのは当たり前という感覚にならされていますが、幼児はこの不思議さに気がつくことができるのです。
 そうしてこんどは、じゃあそれは何でできているかということになるわけです。たまごは黄身と白身でできている、座ぶとんは布とウレタンだ、というふうにいろいろ考えていくわけです。このウーフは、それから外へ出ていって、めんどりは何でできているかという問答をします。ウーフは毎日たまごを生んでくれるめんどりにたまごがいくつはいっているのか疑問に思い、いくつたまごが入っているかという話になります。めんどりは「百より多い」と答えるのでウーフは、<めんどりはたまごでできているのではないか>と考えます。ここに挿し絵もあり、実際にこの本を読んだ子どもは、このめんどりの中のたまごの数を数えていました。
 次にきつねのツネタにあったウーフは、「ウーフ、おまえは何でできているんだ?」ときかれます。そこでウーフはちょっと困るわけですが、「けさはパンとはちみつとたまごをたべたから、ぼくは、パンとはちみつとたまごでできているのかな」と思います。すると、ツネタは「めんどりはたまごを生むからたまごでできている。だけどウーフはたまごを生まない。からだから出てくるのはおしっこだ、だからウーフはおしっこでできている」といいます。
 けれどもウーフは、自分がおしっこでできているはずがないのに……と心配です。ウーフはころんで血が出ます。痛いと泣きながらウーフが考えるのには、「ぼくのからだからでるのはおしっこだけじゃない、血も出るし涙も出るよ、きつねのツネタなんかうそつきだ!」ということになります。草の上にねころんで、「ぼくがおしっこでできているなんて変だよ。ぼくがおしっこならおしっこが足が痛いなんて思うかな」と思うわけですが、ここも幼児がせいいっぱいの分析をやっているようすが出ています。そしてころころころがって家へ帰るわけですが、「ぼくはくまの子ウーフだ。痛いと思ったり、たべたいと思ったり、おこったり喜んだりするんだ、おしっこなんかそんなこと考えないさ。ころがって帰るなんてすてきなこと、涙も血も考えつかないさ」と思うのです。さいごに、「おかあさん、ぼくわかったよ。ぼくは何でできているかといえばね」とウーフはうれしそうにいいます。「ぼくでできているの! ウーフはウーフでできてるんだよ。ね、おとうさん、そうでしょう」ということで終わっています。
 ここにあるのは、ウーフはウーフである。自分は自分である。人間は人間であるということの自覚、それの発見ということです。
 おなじ本の中の「さかなにはなぜしたがない」という話でも、ウーフがさかなっていいなあ、水の中っていいなあということを考えています。それがさいごになって、「ぼくはしたがあってはちみつがなめられる。手があるからおかあさんにだっこもしてもらえる、くまの子でよかったなあ」ということになります。ここにも、自分がくまの子であるという自覚・発見があるわけです。
 前述の『いやいやえん』は子どもが生活を認識するといいましたけれども、この『くまの子ウーフ』の場合は、子どもが、自分の認識過程を認識するわけです。ここで一歩前進したわけです。
 チュコフスキーの『2歳から5歳まで』という本があります。(以前三一書房から抄訳が出ていましたが、現在理論社から完訳本が出ています。著者は最近死んだソ連の児童文学者ですが、空想想像力ということについて言いながら、二歳から五歳までの子どもがやったことや言葉を集めています)この本はよく幼児・幼年の想像力ということで児童文学者達のあいだで話にのぼりますが、ぼくは、幼児の想像力というよりもむしろ幼児だからこそできる思考認識過程を記録したものだと思うのです。未発達な幼児が自分の全能力・全経験を動員して、世界を認識しようとする時、おとなからみれば、豊かな空想力と思える発言と行動が生まれてきます。それが実にみごとにこの本にあらわれています。『くまの子ウーフ』では、幼児なりの認識というものがただずらっと並べてあるのではなくて、それが最終的な結果、<人間である>という自覚にまでもってきているわけです。パターン化された作品が多くなってきている中で、これは、これからあとの道筋のひとつの突破口になるのではないかという気持ちがしています。
 ただし、ちょっと欲をいいますと、「ぼくはぼくでできているの。ウーフはウーフでできているんだ」という言葉でしめくくった場合、どのくらいの子どもがどのくらいまでちゃんと<自覚>というものを自覚できるかという問題が残ると思います。
 神沢さんには、この「ウーフ」のような考えが前にもありまして『ヌーチェのぼうけん』という理論社から出ている本の中で、ヌーチェという北方の少年がわしときつねの取りあいをするというところがあります。ヌーチェもわしも、その獲物を自分のものだといいますが、その獲物自身が、「誰のものでもない。おいらはおいらのものなんだ!」といっています。そこをたいへんおもしろいと思ったことがあります。
『くまの子ウーフ』は、この<自分自身の発見>というようなものが幼児・幼年ものの中でもちゃんとできる、ということを示した作品なのではないかと思います。
 さて『くまの子ウーフ』から幼児の認識過程ということをお話しましたが、ぼくたち児童文学を書く者の間では、どうも中級のこうしたものはまだ弱いのではないかという気がしています。上級のものは、書いている自分とわりあい近いところがあり、自分自身を出してもやっていけるものです。そして幼年の方ではいま述べましたように、今まで開拓されてきています。中級のものは、どうもそこまでいっていない感じです。

 幼児・幼年ものの場合、幼児独特の論理、物の感じ方の上に立って物語を展開できます。ところが中級の子どもの物の考え方、論理の筋道というようなもの(いろいろな言葉を使っていますが、認識過程とか論理は同じようなものと考えられます)はどうなっているのかということです。幼児よりもっといろいろなことを知っているわけですし、もっと科学的な合理的な考え方ができるようになってきているわけです。それでいてまだ幼児的なところを残していて空想的でもあります。
 そういうような子どもをつかまえるという作業が、中級のところでは、ちゃんと行なわれていないのではないか。どうも中級というのは陥没地帯なのではないかと思うのです。
 上級や幼年ものは、たとえば、『ながいながいペンギンの話』や『ぼくは王さま』のように作者が書きたくて書いてきたものが多いわけです。
 ところが中級の場合はちょっと違うと思うのです。ここ数年来の児童文学出版の動きというものは以前とはちがって、出版社の依頼で作品を書くことが多くなっていますが、その依頼に応えるだけの中身がまだぼくたちの中にないにもかかわらずやらねばならないということなのです。
 自発的に書きたいものを書くから良いものができるということではなくて、最初に、書こうとしているものがあれば、それを基にしてもう一度、中級の児童文学の世界というものを追求していかねばならない状態が実はあるのではないかと思うのです。
 だいたい幼児・幼年向きのものの単なる延長の上に中級をもってきている、という感じのものがわりあい多いように思われます。
 その中で、ひとつちがったかたちを出しているのは、四、五年向きにもなるものでしょうが、大石真さんの『チョコレート戦争』あたりなのではないかという気持ちがしています。
 ぼく自身のことをいいますと、ぼくの『モグラ原っぱのなかまたち』は、決して幼児のものではなく、小学校二、三年生の年齢−発達段階というところに焦点を当てることを試みたものでした。
(『子どもの本の学校』一九七〇年講談社)
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