『現代日本児童文学への視点』(古田足日 理論社 1981)

作者と児童文学との関係の固定化を破りたい

 問題はあまりにも多すぎて、いったい、どこからどう手をつけていったらよいのか、わからない。
 今日の児童文学について、ある男はこういった。「おれはいまの児童文学をニセモノ時代と名づけている」。
 なるほど、と思ったが、それをそのまま肯定できないのは、たとえばぼく自身が、ぼくの作品のなかでつくり上げようとしてきた世界を思うからである。自作の結果は作者にはなかなかわからないが、意図したところ、それもニセモノだったのだろうか。
 今日の児童文学の多様化は、児童文学の多様化というだけではなく、文学の多様化という面を持っている。母親たちが斎藤隆介の『ベロ出しチョンマ』や『花さき山』を読む。この彼の世界は、たとえば古井由吉の『杳子』とはるかに遠い。しかし、まぎれもなく『花さき山』は実在し、母親たちは子どもを抜きにして、その世界にはいりこむ。
 今日の児童文学の時代はこういう時代なのであろう。ニセモノもまかり通るし、ほんものも浸透していく。いや、ひとりの作者、ひとつの作品のなかにもニセモノ、ほんものが同居しているのかもしれない。
 もっとも、いつの時代にも、ニセモノ的な群小無数の作品が存在していることはまちがいないし、そういう群小無数の作品の書き手であるぼくとしては、むしろニセモノに徹する道をさがすほうが、てっとりばやいかもしれない。
 しかし、凡夫の悲しさ、その道もわからない、ただ、ニセモノともつかず、ほんものともつかないものを書くようになってきた道すじだけは、おぼろげながら見当がつく。
 松谷みよ子は次のようにいう。「私がはじめて童話を書きはじめた頃、私にとって童話というのは心象世界の滴りであり、その形式がもっとも自分の書きたいものにあっているというふうに考えたからだった。だから戦後澎湃として起こった児童文学運動の中で『子どもの為に』という叫びを聞くと私は困惑した。(中略)それが下町に住みついて子ども会をやるようになったり、その上自分に子どもが生まれてくると、いつのまにか子どもの為にというより子どもといっしょになって書いている自分に気がついた」(『文学・教育』第二号)。
 彼女が述べているのは、なぜ児童文学にかかわるのか、というモチーフの変化のことである。最初は、児童文学という表現形態の魅力、のちに「子ども」である。
 この彼女とおなじ歩みを、ぼくも歩んだように思う。それはたぶん今日の児童文学の書き手たちの多くが歩んだ道であり、今後もくりかえされることだろう。もちろん、「その形式がもっとも自分の書きたいものにあっている」という姿勢を一生持ち続ける人もいるにちがいないのだが。
 この表現形態の魅力から「子ども」へ、といううつりかわり、松谷みよ子が「いつのまにか」というその「いつのまにか」のところに問題があったのではないか、とぼくは思う。
 それは作者と児童文学とのかかわりあいの固定化である。そして、ここには今日の児童文学の書き手たちの特殊事情も加わることになる。特殊事情というのは、昭和三十四、五年に今日の書き手たちがいっせいにスタートし、それに続く人びとがかならずしも多くないことである。というより、その後の新人たちもたちまち固定化の道を歩んだ、ということになろうか。
 つまり、それぞれの作者たちは児童文学と自分とのかかわりあいを、ある時期の作品において発見した。その発見を作者にその次の作品、またその次の作品を通じて深めていく。発見までは急速だが、その後の歩みはおそい。ここをつい、せっかちな評者たちは見落としてしまうのだが、一方、作者のほうでも深めることよりも、その発見によりかかることがある。
 ことに創作児童文学が急速に量産の場に組みこまれ、といっても一点の発行部数はやはりたいしたことなく、しかも雑誌発表というワンクッションもなしに本になってしまう、という時代の到来で、作者は一度つかんだ児童文学との関係を再生産していくことが多くなる。
 そしてまた、さまざまな児童文学の出現は、一方では、作者と児童文学とのかかわりあいを考えたい、という結果ももたらしたようである。たとえば『五色の九谷』(小納弘)は、やきものの秘法を手に入れる加賀藩士の物語だが、これはおとなのものともなり得る。それを児童文学としてだしてくるのには、そうせざるを得ない作者のモチーフがあるはずだが、ぼくにはそれが伝わってこないのである。
 では、そこで書き手はどうしたらよいのか。児童文学はまだ成熟しないうちに商品化されてしまったという感じはのこるが、そうそう何もかもタイミングよくやってくるものではない。なんとか抜け出る道を考えなければならないので、その手がかりを、ぼくはさきにいった、「児童文学という表現形態の魅力から子どもへ」のうちの「子ども」に求めたい。
 ここでの「子ども」がいったいどのような子どもであったのか。この「子ども」は現実の子どもではなく、人間の原型としての子どもなのだが、人間の原型としての子どもはまた現実のなかから帰納される。そして、この「子ども」はたぶん、ぼくにとっても、多くの書き手たちにとっても、小市民の子どもにとどまっているように思う。
 また、なぜその「子ども」がどうしてぼくに必要であったのか、そこのところをもう一度考えてみたい。一昨年のことであったか、ある編集者から、戦中から戦後にかけての価値の転換期にどのように対処したのか、ときかれたことがある。
 そのときはその問いの意味がわからなかったが、しだいにその問いの重みは増してきた。一般的にいって、今日の書き手たち=六〇年代初頭に出発した人びとは太平洋戦争を書くことによって、自分と児童文学との関係をつくりあげた。戦争を主要な契機としなかったのは山中恒ぐらいである。ぼくの場合は『うずしお丸の少年たち』がそれにあたる。
 だが、問題は戦争にあっただけではない。戦後の混乱期をどのように切り抜けてきたのか、そこのところにもう一つの問題があった。いぬいとみこ、佐藤さとる、山中恒の三人が、今日の書き手たちの先発グループであったことは偶然ではないだろう。いぬいも佐藤も戦中から戦後にわたって、そのファンタジーの世界を展開し、山中は戦後浮浪の少年の姿にその出発点をおいたのである。
 ぼくもふたたびそこに目をむけてみたい。心の中の天皇を失ってのちの物語である。もちろんその物語が具体的にはどのようなものとなるのか、その見当もまるっきりついていないが、これが時間をさかのぼってのことだとするなら、空間にも書くもののはばをひろげたい。
 前にもいったように、「子どもといっしょに書く」その「子ども」は、現実の子どもから帰納される。いや、正確には相関関係を持っていて、それがなければ現実の子どもも見えてこない。
 そして、いままでぼくが書いてきたのは、東京都の都市部・団地のある住宅地域の子どもたちであった。ここにとどまっていては、ここの子どもたちを見る目さえも失いかねない。
 おなじ団地でも都心の高層団地では、子どもはいったいどのようにして一日をすごしているのか。その高層団地から見おろされる家いえのかたまりのなかの子どもたちは、どのようにしているのか。
 ここでは貧しさの問題がもう一度ふりかえられなければならないだろう。十数年前、児童文学のいわゆる慢性的不況の時代、ぼくたちの勉強会では、「また貧乏童話」かということばが出るほど、貧しい生活の物語が多くでてきた。いま考えれば、それらはほとんど観念的にしか貧しさをとらえていないものであったが、今日、貧困の問題はぎゃくに影をひそめてしまった。『まがった時計』(吉田とし)がちょっと目につく程度でしかない。
 もちろん、こうしたしごとを計画したところで、児童文学との新しい関係をつくり出せず、手馴れた関係で処理してしまう危険はつねにある。
 だが、問題は一挙には解決しないし、ぼくは群小無数の作品の書き手のひとりである。一歩ずつ進んでいくよりほかない。
 しかし、それにしてもなんと問題の多いことか。読書運動との関係では、書き手は子ども・親・教師からさまざまの要求を受ける。その要求にいったいどのように対していけばよいのか。
 また一方では、この四月から小学校の国語科に読書指導がはいってくる。その結果が読者や出版の上にどのようにあらわれてくるのか。これはもう、書き手の問題の範囲をこえるが、今後の大問題として注視していかなければならないだろう。(『思想の科学』一九七一年四月号)

日本児童文学・現在の問題点をさぐる
―あとがきにかえて―

 この評論集は本来七五年、おそくとも七〇年代後半には出しておかなければならなかったものである。この本におさめた評論のほとんどは七〇年代前半に書いたものなのだ。つまり七〇年代の中間報告として出しておかなければならなかったものを今ごろ出す、というぶざまさを胸に刻みつけたい。何しろゲラが出てから二年半の月日がたっている。
 理論社編集部の後藤洋一氏とのあいだでも、後続のものを加え、書き足し、来年以降の本にするかという話も何度か出てきた。でも、書き足りないところが多すぎる。それを待っていたらまたまたおくれる。それ以前に現代日本の児童文学についてのぼくの考えを人々にしらせ、また批判してもらいたいと思ったので、やはり出させてもらうことにした。

テキストファイル化上森典子