七月 日
腰痛で新幹線に乗れず、飛行機で広島へ。ホテルのベットやわらかくて腰にひびくので、腰の下に本をしいて寝た。
昨日の評論分科会の「おとなの文学と子どもの文学」はやはりむずかしいテーマだった。
きょうはパネル・ディスカッション。『太陽の子』(理論社)の中の原爆叙述について発言した。
去年の静岡セミナーのパネル・ディスカッションでもやはり『太陽の子』についてしゃべった。わが日本児童文学協会はなぜ『太陽の子』に協会賞を出さなかったのか、ぼくは出してほしかった、ということをしゃべったのだった。その理由は一言につきる。今、この現実に存在する深い大きい問題を取り出してみせた、こうした作品が七〇年代にいったいどれほどあったのだろうか。体験に即した戦争児童文学は多いが、かつての戦争と現在の問題を重層化してとらえた作品は、ほかにどれだけあるのだろうか。『でんでんむしの競馬』、さねとうあきら『神がくしの八月』(偕成社)にそれはあることはあるが、その正体はかならずしも明瞭ではない。
というより、ことに『でんでんむしの競馬』と『太陽の子』は方法を異にする。『でんでんむしの競馬』には重層化された核心がたしかにありながらその周辺部はおぼろ気であり、その読み取りは読者の想像力や生活体験・知識等に任されている。それに対して『太陽の子』は現実生活を書くという狭義のリアリズムの作品であり、その重層化されたものを現実の一点にしぼって明らかにしなければならぬ方法をとっており、成果をあげている。質はちがうが、後藤竜二『天使で大地はいっぱいだ』(講談社)『おれたちのきょう』(毎日新聞社)などとともに、この作品は現代日本児童文学のリアリズム(狭義の)到達点、あるいは出発点の一つともいえるのではないか---ぼくはうすうすとそう思っている。
もちろん『太陽の子』にさまざまの欠点があることはいうまでもない。しかし、児童文学とは何かということを再び考えざるを得ないものも、この作品はぼくたちにつきつけた。『いないいないばあや』に賞を出したのがよくないとは思わない。二点授賞でもよかったのではないか。今しるしたことすべてではないが、その半分程度はぼくは静岡セミナーでしゃべった。
『太陽の子』を大きくはそうとらえた中で、ぼくにはずっとその原爆叙述の部分が引っかかっていた。梶山先生が「古いグラビア雑誌をとり出して」、みんなにみせる。
女性とも男性ともわからない人が、医師の治療を受けていた。
「広島に落とされた原子爆弾の放射能で、皮膚がずる剥けになった人だ。男とも女ともわからなくなっているだろう。女の人だ。頭の毛が、いっしゅんにして抜け落ちてしまったんだね。」
ぼくは今日、この叙述はあやまりだと発言したのだ。「放射能で皮膚がずる剥けになった」のか。ちがう。原爆症とは「爆風・熱戦・放射線の綜合的効果」(庄野直美・飯島宗一編『核放射線と原爆症』日本放送出版協会・一九七五)である。『世界大百科事典』(平凡社・一九七三年版)の『原子爆弾症』の項(都築正男執筆)は「熱」「爆風」「放射能」の「三威力が合併して作用する」と述べ、その三つに分けて原爆による障害を記述する。「熱の障害作用」は「爆風とともに作用するときには爆熱作用を示し、焦熱した衣服を吹き飛ばすとともに、焼けただれた皮膚をもはがしてしまう」。つまり皮膚の剥離現象は「放射能」によるものではなく、熱線で皮膚が焼かれ、それを爆風が吹き飛ばすことによる。
「脱毛は、放射線の作用によって、毛根の母組織がおかされた結果」(『核放射線と原爆症』)おこるが、それは「いっしゅんにして抜け落ち」たものではない。「頭髪の脱毛は(中略)、大多数のものでは第二週の終りか第三週の初めに現われた」(同上書)のである。
従って『太陽の子』の原爆叙述はあやまりであり、またこれが広島の書き手たちによって指摘されなかったことにぼくは怒りさえ感じる、といった。
ここの原爆記述についてのぼくの引っかかりというか、こだわりはぼくの中では一種のいらだちとなっている。原爆による被害・障害研究の現時点における到達---それを灰谷は使わず、「古いグラビア雑誌」を梶山先生に持ち出させた。パネルではいわなかったことだが、「広島の被爆者は三十万六千人だったという」梶山先生のことばにぼくはやはりいらだつのである。「被爆者」とはどういう人をさすのだろうか。広島・長崎の原爆被爆は一般の空襲による被爆とは違う性質を持つ。一般の空襲では直接被爆者が「被爆者」だが、原爆の場合翌日、翌々日等の入市者で残留放射能による被害を受けた人々も「被爆者」である。ここはことばの意味を限定して正確に使うべきところだったのだ。
また「三十万六千人」という数字は「昭和二十年十一月三十日現在で広島警察部がおこなった」「調査結果」(『広島原爆戦災誌』第一巻・広島市役所)の三〇六、五四五人によるものだろう。これ以外に近接した数字を持つ資料はないからである。そして、『広島原爆戦災誌』は他の資料もあげていき、『原爆三十年』(広島県)は「今日までにわかっている限りの資料にもとづいて推定すると」「広島の原爆爆発時に市内にいた日本人は約四二万人」とする。「日本人」というのは、当時広島市にいたおそらく数万の朝鮮人と、少数だがビルマその他からの留学生等を含まないからである。つまり広島では四二万プラス数万の外国人が直接被爆者であった。
『太陽の子』の原爆記述についてのぼくのいらだちの正体は、いったい何なのだろうか。灰谷健次郎は今までにあきらかにされてきた科学的到達点において原爆被害を語らなかった。むしろあやまりとさえ思える記述をした。そして、原爆を書いてきた人もこれについて批判しなかった。これがぼくのいらだちのある部分をつくっている。しかも、それだけではない。それはいったい何なのだろう。
七月 日
周防大島の砂田弘のうちへ行く。広島セミナーの流れで、細谷建冶たちが来ていた。広島のパネル・ディスカッションの話が出て細谷がいった。「古田さんの発言を聞いて、ぼくもそこに気がつかないで読んでいったんだな、と思った。ぼくも評論やってるんだから読み過ごしてはいけなかったんだがな。」
ぼくははっとした。細谷の感想にぼくは、ぼくは壇の上から会場の人々にものをいったのではないか、と思った。ぼくにとってこの問題は、戦後三十五年たっての日本の社会全体の原爆認識の問題であった。この大きなわくの中にさまざまなレベルでその問題が存在している。ぼくはそのさまざまなレベルをつらぬくことばを持たなかった。いや、怒りといらだちならそれでもよい。どちらにしてもぼくはおなじ床の上でものをいったか。
八月 日
講談社新人賞選考委員会。選考終了後、佐藤さとるに『スイートホーム殺人事件』について聞く。「あれは児童文学だね」という答えが返ってくる。
隣席の三木卓と戦争児童文学の話になる。彼はいう。「今、戦争児童文学を書くのに、なぜ書くのかというはっきりした認識なしに書かれたんじゃこまる」。候補作中に体験的な戦争児童文学があったことからの話である。もちろん体験的なものにも、その一般的な認識、一般的な「なぜ」はあるだろう。しかし、一般的な反戦・平和、あの戦争のときはこんなにつらかったではどうしようもない。三木の『ほろびた国の旅』(盛光社・六九年)には三木という個のなまなましさがはっきりと出ていた。七○年代ではさねとうあきら『神がくしの八月』が単なる戦争反対を越えて現在の問題に迫ろうとしていたが、木敏子『ガラスのうさぎ』(金の星社・七七年)にはその力があるのだろうか。七○年代の戦争児童文学をたどり直してみなければならない。ぼくの中では体験的戦争児童文学と民話のことが奇妙に重なりあっていて、三木との話も最後には民話のこととなっていた。
帰る途中、戦争児童文学の別の側面のことを思い浮かべる。教育の方でいう平和教材のことである。戦争児童文学個々の作品には大きな落差があるうえ、短編の弱さの問題がある。現代児童文学は書き下ろし長編を中心に発展してきた。それには必然性があったが、藤田圭雄がいつもいう雑誌のないことが短編の発展をさまたげてきた。そして、国語教育の教材は教科書であれ、民間教育の自主教材であれ、短編である。国語教育の文学教材全体にこの弱点は投影している。
だから、戦争児童文学の長編の到達点に、おなじ戦争児童文学の短編は及んでいない。その短編をいわば良心的な先生方は平和教材として評価する。土家由岐雄『かわいそうなぞう』(金の星社)は子どもに戦争を考えさせるきっかけは提供する。しかし、将来の戦争はどういうかたちであらわれるのか、大臣たちの靖国神社参拝の裏に静かに進んでいるかもしれない戦争、それをどのようにして見抜き、どのように立ちむかうかが問題だ。『かわいそうなぞう』の事態がきた時にはもうおそい。そして、『かわいそうなぞう』にはどれほどの文学性があるのだろうか。文学教材ではなく、戦争を考えさせるきっかけとしての位置づけが必要なのではないか。
さらにもう一つ、平和教材とは戦争児童文学にかぎられるのか。豊かな感受性と、科学的な認識を身につけていく教材全体の中で、さらに平和教材というのはどういう教材なのか。
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