さよなら未明
――日本近代童話の本質――
1
童話イコール児童文学という錯覚ほどおそろしいものはない。未明に始まる日本の近代童話の主流をぼくは今までの諸論文のなかで、未分化の児童文学と定義してきたが、これは同時に擬似児童文学という側面を備えている。その性格はひと口にいえば、近代人の心によみがえった呪術・呪文とその堕落としての自己満足である。
未明童話のモティーフは生命の連続である。「金の輪」の太郎にとって死ぬことは夕焼け雲のかなたにはいっていくことである、「牛女」は死んでもなお子どもを見まもっている。生命はただ形態の差があるだけで宇宙に遍在している。暴風雨にもいのちがあり、少女は胡蝶となる。
この未明の世界は原始の世界である。カッシーラーは次のように述べる。「原始人は、決して物の経験的差異を把握する能力を欠いているのではない。しかし、彼が、自然及び生物について考える場合には、これらの差異は、すべて強い感情――自然及び生物の個々の形態の多様と多彩を埋めるような、根本的で厳存する生命の連帯についての強い確信――によって抹消されているのである。」
未明童話のうち、すぐれた作品はこのような世界を、その短い表現のなかに圧縮している。作品は氷山の頂点に過ぎないのであって、その根は深く広く原始世界の生命とつながっている。一編の童話のなかに全世界がこめられており、だから坪田譲治は未明童話をさして「宇宙の生命」を体現したものと言った。このようなものこそ象徴であり、象徴は置きかえやたとえではない。
広介の「砂山の松」は人間といすかの物語である。神は人間といすかを作り、「最後のひとつは残しておけ」と言って地上にやる。いすかの住む松林にやってきた人間は、その木を切るが、一本の松だけは残す。いすかはひとつの松の実を食べ残して死ぬ。実は松となり、海を渡る鳥がその木で翼を休める。
広介のいわゆるヒューマニズムはこの作品に現れているように、生の連続がその底にかくれている。ますを育てたおじいさんは死ぬが、かわりにますはうろこをきらめかして川をさかのぼってくる。
坪田譲治にとっても生命の社会が彼の根元的なものである。「サバクの虹」を例にとれば、三日続く空の祭り、七日七夜の雨、一夜のうちに花をつける巨木、そしてサバクは緑の野となり、野はまたサバクに帰っていく。あらゆるものが生命を持ち、ただ生命の消長だけが、描かれる作品である。
与田準一・佐藤義美・関英雄などを経て、生命の連続というモティーフは1958年度児童文学者協会新人賞を受けた立原えりかにまで及ぶ。彼女の「シラカバのゆめ」では、冬が来てくさひばりやちょうやあかとんぼが行きだけあって帰りのない切符をもらって汽車に乗る。彼らが行くのは眠りの国、月の光の向こうの国である。また「ほしのでんわ」では流れ星が落ちたところに白い花が咲く。
日本児童文学の中心部はこの生命の連続という原始的感覚によって構成されてきた。生活童話の発想も実は原始的感覚によっている。生の連続の世界は調和の世界にほかならない。生活童話の日常的調和の世界の根元は原始心性である。しかし、この感覚は思想としては確立されない。行雲流水ということばに現われる東洋思想として、未明童話のうちにやや明確なまとまりがあるに過ぎない。
これは思想とはいえない思想、世界観とはいえない世界観として意識の下に埋もれてきた。未明以下立原えりかに至る日本の児童文学者たちにとって、社会を生命の連続と見ることはいわば肉体的感覚であって、愛と正義、善意とか子どもの代弁とかという表面的主張は、この埋もれた感覚との自覚的つながりは持っていない。
このような原始的感覚の持ち主は特殊な存在であって、従来の日本児童文学の作品世界が一種特殊な世界を形成しているのは、ここにその理由がある。この感覚をぼくは童話的資質と呼ぶ。
一般におとなはおとなのことばでものを考える。だから、その表現はおとなのことばで行なわれるのがふつうであって、子どものことばで表現しようとすればむりが生じる。しかし、社会を生命の社会と見るような原始的感覚の持ち主にとっては、原始的なことばの使い方がもっともぴたりとしてくる。
内容として生命の社会、その表現としての原始的なことば、このようなものを書くことのほうが、原始的感覚の持ち主にとっては、一般的な内容とことばによるものを書くことより、自然あるいは容易である。未明は、いわゆる童話宣言、「今後を童話作家に」のなかで次のように言う。「多年私は小説と童話を書いたが、いま頭の中で二つを書き分ける苦しさを感じて来ました。(中略)過去の体験と半生の作家生活に於いて、那辺に多少の天分の存するかを知った私は、更生の喜びと勇気の中に、今後童話作家として邁進をつづけようと思っている。」決定的なものは天分、つまり資質であったのだ。
こうして童話は誕生する。そこで童話の方法だが、近代のことばは対象を指示し限定し、あらゆる存在のなかからそれを区別し、取り出そうとする。同時に抽象化され記号化されている。これにくらべて原始的なことばは具体的であり、ものそのものに近く、生命力さえも持っている。未明は分化したことばを使って、その指示・限定とは逆に、ことばの意味をふくらませ、指示物に感情を吹きこんだ。この際、ことばは形式であるという見方はまったく成立しない。内容としての連続する生命と等質の生命をことばもわかち与えられているからである。
2
未明童話のことばは、ぼくたちがふつう使う日常のことばとは異質のことばである。
人魚は、南の方の海にばかりすんでいるのではありません。北の海にもすんでいたのであります。/北方の海の色は、青うございました。あるとき、岩の上に、女の人魚があがって、あたりの景色をながめながら休んでいました。/雲間からもれた月の光がさびしく、波の上を照らしていました。どちらを見てもかぎりない、ものすごい波が、うねうねと動いているのであります。
「赤いろうそくと人魚」の書き出しだが、この文章のなかのもっとも重要な語句は「北方の海」である。この北方の海はぼくたちの日常のことばのなかで使われる「北方の海」ではない。ぼくたちは地理的な意味で「北方」ということばを使うが、この文章のなかの「北方」はその一般的な用法のなかの一属性――暗くさびしく孤独であるという属性を強調し、それを強調することによって、暗くさびしく孤独な環境一般を象徴しているのである。ここでは「北方」は「海」を限定することばではない。逆に、その日常的な意味を離れて、無限定な広がりを見せている。そして、海も波も人魚に対して敵意を持つもののように書かれているのである。
広介のことばは次のように使われる。
ひろい野原のまん中に、たいそう古いくりの木が立っていました。木には、ほらができていました。そのほらに、むく鳥の子が、とうさん鳥とすんでいました。
「むく鳥の夢」の書き出しである。この文章の中心は「古い木」である。その「木」の意味のしかただが、この文章のよびおこすイメージは、ただ草ばかり、見わたすかぎりの野のまんなかに、一本だけぽつんとそびえている木である。そして、この文章が「秋もくれて、すすきのほが白くなると……」と続いていくと、その野原は壮大な広がりと生気にあふれた若草の野ではなく、さびしい野であることがはっきりする。このような「さびしい」というムードを呼びおこすものは、さいしょにある「たいそう古い」という「木」にかかることばである。
古い――したがって、野にあるもろもろの生命の動きはとらえられず、しかもその生気のない野が「ひろい」ために最初から「さびしさ」のふんい気がよびおこされようとしているのだ。
もちろん、この「古い」は幹にほらができていることにもかかっていくのだが、たとえば「この帽子は古くなった」という日常のことばにくらべて、「さびしさ」のムードを強調する役割をはたしていることはあきらかである。「ひろい」も「古い」と対応して、ぼくたちが山の頂きから下を見おろして「ひろい」という、そのひろさとはちがって、「荒れはてた」というような意味で使われる。未明にくらべて微弱ではあるが、野はこのむく鳥親子に対してつめたい表情を示しているのだ。そして、この作品を読み終わった読者は「孤独」がこの作品の主調になっていることに気がつくだろう。この作品の「さびしさ」は「孤独」のさびしさである。ふつう、この作品のテーマは親子の愛情、あるいは親を慕う子の気持と理解されているが、全体のムードはこのテーマとは別物である。
だから、この作品の機能はそのイメージ不足の親子の愛情を喚起するものではなく、孤独のムードを喚起させる点にある。「古い木」の「古い」はけっして木を限定することばではない。「さびしさ」「孤独」というふうに無限定にふくれあがっていくことばである。孤独のなかから孤独を抜け出ようとする願いをぼくたちはこの作品から読みとるのだ。古い木もむく鳥の子も、その形態は消え去って、ふくれあがった巨大な孤独とそれを抜けようとする弱々しい努力とが、ぼくたちの心に焼きつけられる。
そして、それはそれなりに調和のとれた世界を形づくっている。むく鳥の子が一枚の木の葉に共感して愛情を注げば、夢に母鳥が出てくる。もろもろの生命力の総和の上に、この調和の世界は成り立っているのである。