『現代児童文学論』(古田足日 くろしお出版 1959)

 5

 モティーフの変質の方向として、ぼくはエネルギーへの関心をもっとも重要なものと考えている。
 児童文学をその主要なモティーフによって分類すれば、およそ次の四つに分けられよう。(1)人間の根本的エネルギーに対する関心から生まれたもので、「宝島」や「ジャングル・ブック」「十五少年漂流記」などに代表される。(2)子どもという人間存在に対する関心から生まれたもので、「次郎物語」。(3)子どもに話したい、伝えておきたいという気持から生まれたもので、「君たちはどう生きるか」。(4)資質から生まれたもので、未明、広介。この四つのモティーフはそれぞれからまりあい、たとえば「トム・ソーヤーの冒険」は(1)と(2)の合したものと考えられる。またファンタジーは(1)と(3)とによっているものと思う。
 この第一のエネルギーだが、日本の児童文学にはこれが決定的に欠けている。しかし、おそらく児童文学にとっては(1)と(2)がもっとも重要なもので、元来おとなのものであったロビンソン漂流記が子どもの財産になっていくのは、そのなかにあふれているエネルギーのためなのだ。だからといって、エネルギーに満ちたあらゆる作品が、すべて子どもに喜ばれるということにはならない。たとえば「白鯨」はどうだろうか。もっと手近な例で言えば「森と湖のまつり」はエネルギーにあふれているが、子どものものにはなり得ない。
 ロビンソン漂流記は、いわば原始に近い状況に置かれた人間の戦いの記録である。しかし、彼は文明人である。彼は銃を持ち、大工道具を持ち、耕作し、家畜を飼うことを知っている。彼はそのわずかの道具と、それまでに蓄積された知識によって生きていく。彼は野蛮人や猛獣や雨をさけるために半穴居式の家を作り、がんじょうなへいをめぐらす。シャベルを作り、すきを作り、ランプを作る。人間の生存に最低限必要なものを彼はすべて作り出すのだ。
 この最低限ということは重要だ。彼は余計なもの、いわば消費的なものは作らない。その結果、自然と戦いながら進歩してきた人間の各時代と社会によるさまざまのまざりものが切り捨てられる。
 また、彼は木に登って一夜をあかす恐怖ののちに、船に物を取りにいく。物を持ってこなければ生きていけないなからだ。だが、厳密にいえば、船の荷物はロビンソンのものではない。彼のような環境ではなく、東京のある町で貧しさの恐怖のために、人のいない店のなかから品物を持ちだしたとすれば、これは完全な犯罪である。今日の社会では、生きていくのに必要なものを手に入れるには、さまざまの複雑な手続きをとらなければならない。ロビンソンはこうした複雑な手続きをはぶいたところで生きている。神がどうこうというお説教をのぞけば、残るものは人間生存の基本的な行動だけである。
 あるいは次のような意見が出るかもしれない。人間は時代と環境に支配され、ある土地、ある時代のモラルが、ちがう社会、ちがう国では悪徳である。人間に基本的行動があるはずはないという考えだ。そのように考える人のためにつけ加えれば、原始以来、人類をここまで発展させてきた行動には、やはり基本的なものがつらぬかれている。その形態は変わっても、人間は常に雨露をしのぐために家を作り、自分の生存をおびやかす者と戦ってきたのである。
 子どもの一日一日は未知の世界との戦いである。ロビンソンの物語のテーマもそれである。かつて原始の人間たちもやはり未知と戦った。人間の基本的行動そのものがテーマになっているのである。
 ロビンソン物語が子どもの財産になったのは、ひとつにはこの基本的行動――行動の原型によっている。子どもたちは熱心に自分たちの行動のしかたをさがし求めている。彼らがもほう好きなのはいうまでもない。そのもほうによって彼らは行動のしかたを身につける。彼らは未熟であると同時に、やはり一人前の人間として彼らの社会およびおとなの社会のなかで生きてゆかねばならず、現在と将来のために行動のしかたを身につけねばならないのだ。動物の子どもにもそなわった本能的なものである。
 そして、子どもは未分化の存在であり、その単純さは未来の豊かな分化を含んでいる。一方、原型の単純さは状況に応じて変化し、発展する豊かさを内に含んだ単純さである。
 この単純さはまた原始の人びとの行動の単純さにさかのぼることができる。火をたやさず、動物を追うという単純な行動のなかに今日の人間の生命維持の諸方法の源泉が宿っている。
 ポール・アザールはロビンソン漂流記について、次のようにいう。「人間の祖先は、原始的本能で、気のむくままにはげしい生活力で生きていた。この本に描かれているのが、まさしくその本能であり、子どもたちはまっこうからそれに打たれるのである。」
 ぼくには原始人たちが「気のむくままに」生きていたとは思えないが、はげしい生活力で生きていたことには異論はない。行動はエネルギーの発現の主要な形態であり、原型にはそのエネルギーが結集されている。ロビンソンが自分の生命を維持し、さらにより快適な生活を営むためにつぎこむエネルギーの量のおびただしさ――これにぼくたちは驚くのだか、原始の人びとはロビンソンと同様に常に緊張していたにちがいない。そして、子どもたちが現実と切り結ぶ際、たとえば小学校一年生になってはじめて教室にすわり、この教室を支配しようとする時、彼が消費するエネルギーの量はばくだいなものである。
 子どもは一般的にエネルギーにあふれた存在であり、その点からも彼らはロビンソンを歓迎した。そして、エネルギーに満ちあふれた原型は、文明人のいない孤島という原始的状況のなかで形成された。子どもがこの小説にひかれていく理由としては、ぼくは原型とエネルギーをあげたが、三番めには状況の共通性をあげなければならない。ロビンソンも原始人も子どもも、同様に未知の状況のなかに置かれているのである。
 ロビンソン漂流記と似た構造の作品として、ほかに「ジャングル・ブック」「十五少年漂流記」などがあげられよう。ロビンソンが原型であったように(基本的行動を行なう主体もまた原型といえよう)、モーグリも原型である。ジャングルのおきてを守らない者は死に、敵のシャカンを殺さなければ、自分が殺される。実に簡明な原則だ。そして、モーグリが自分を守るのは、そのちえによる。彼はさるの群れにさらわれる時、ジャングルの符ちょうことばを使って助けを呼び、とらのシャカンと戦う時は、水牛の群れを使ってシャカンを踏みつぶす。人間の進歩は実にこのちえによっていた。
 「ジャングル・ブック」や「十五少年漂流記」はロビンソン漂流記にくらべると、その文学的密度は低いものといえよう。ロビンソンの物語には個人の力の全的な発揮という思想性があり、モーグリや十五少年には思想的立場は薄いのだ。
 だが、それぞれ限界状況的な設定をとり、エネルギーに満ちた原型と基本的行動を描く点においてはこれらはすべて同一である。

 6

 子どもが愛読する本の多くはエネルギーに満ちた基本的行動、原型が提出されている本である。この場合の子どもというのは、主として小学上級、中学の少年たちのことである。彼らがそうした本にとびつくのは、その年令においてこそ、もっとも強く行動のしかたをさがし求めるからである。
 まんがであれ、読み物であれ、彼らの好む本はエネルギーに充満しており、行動性に満ちている。語句の意味がわかる、わからないということは彼らの問題ではない。たとえば、ぼくたちの少年時代、佐藤紅緑の愛読者は多かったが、彼の使う単語は実にむつかしい。ルビを振ってあっても、それはただ読めるにすぎないのであって、ことばの意味は通じない。にもかかわらず、ぼくたちはそれを読んできた。
 また、ぼくたちは中学のはじめのころ、いわゆる大衆小説を読んできた。大衆小説のなかでは行動は明確に善と悪との対立によって描かれる。紅緑の場合にも、それと共通の要素をあげられよう。今日のように世界名作の多くが紹介されていない時代、おとなの文学にはまだ手がとどきかねる年令では、吉川英治や富田常雄が適当な読み物だったのである。
 その原因をぼくは大衆小説が持つ様式にだけは還元したくない。もちろん、正邪善悪のタイプを描ききることにも少年たちの心をつかむ理由は求められる。しかし、紅緑の難解な語句を気にせず読んでいったことにも現われているように、その根源は力と力の対立する基本的行動の魅力にある。
 このような子どもの関心、これからだけ児童文学のあるべき姿をもとめることはあやまりであろう。しかし、子どもの関心を無視することはできない。さらに、ぼくたちが児童文学を志す原因はぼくたち自身のなかにかくれているエネルギーへの欲求でもある。
 一般的に童話・児童文学とおとなの小説とのちがいはその幻想性によって区別されている。童話の世界においては「あらゆる事が可能である。人は一瞬にして氷雪の上に飛躍し大循環の風を従えて北に旅する事もあれば、赤い花杯の下を行く蟻と語ることも出来る」のだ。
 日常性のなかでは、ぼくたちのエネルギーは出口を知らず、その発動の形態を知らない。またその現実的発動は幻想の世界での発動にくらべて非常に小さい。それが幻想的世界のなかでは形を与えられ、またその働きは大きい。ここには日常性からの飛躍がある。現実に材料を取った紅緑の少年小説も日常生活では不可能な状況の設定によっている。
 この日常性からの飛躍の根源は想像力にあり、想像力の発動は原始心性のおのずからの表出とかかわるところを持ちながら原始心性とは異質である。原始心性の目に映る世界は生命の調和の世界である。想像力はこの調和をうち破る。エネルギーに満ちた作品が、力と力との対立、限界状況的な設定をとるのは、このような場所でこそ多量にエネルギーが放出されるからである。それはただエネルギーの放出にとどまらず、新しい調和が獲得される。ごく最近まで、おとなの小説のなかで限界状況が設定される時、その結論は多く人間の弱小さを強調することであった。児童文学はそれに反して、多くハッピーエンドである。
 ハッピーエンドを実現させるのは人間の力に対する信頼である。そして、人間の力とはこの現代を形成してきた力である。単なる願望ではなくその願望を実現させてきたもの、そして未来を実現させうるもの、これは基本的行動にほかならない。
 この時、作者は子どもと等質の立場に立っているといえよう。両者は共に弱小の存在であり、弱小であるがためにエネルギーを渇望し、あるいは成長のエネルギーに満ちていながら、その形態をしっかりとはつかんでいない。この立場から彼らがつかみとったエネルギーおよびその形態は人間的なものである。ある人が、幻想的なもの、非日常的なものを主とする児童文学にひかれていくのは、エネルギーおよび人間の基本的行動を求めるからでもある。子どもと児童文学者の共通項を、ぼくはエネルギーと基本行動への欲求および飛躍的な想像力と考える。
 子どもがそれを求めており、ぼくたち自身のうちにもそれを要求する芽ばえが多少なりともある以上、ぼくたちはその芽ばえを育てて子どもの要求に合致するものを作りだし、作りだすことによってまた子どもをエネルギッシュな人間にしなければならぬ。その意味で、ぼくはエネルギーに満ちた基本的行動・原型をとらえる児童文学を主張する。
 そして、従来の童話からはそのような児童文学、人間的なものは生まれてこないだろう。童話の場合、いわゆる善意とかヒューマニズムの根源は、人間も鳥も獣も同じ生命を分かち持っているというところから生まれている。このようなヒューマニズムからは、自然や社会との戦いによって進んできた人間の姿はとらえられない。日本の近代童話にとって自然は学ぶべきモデルなのだ。
 このように言うことは、ぼくの理想とする児童文学が伝統と断絶することによって生まれることを意味している。だが、断絶ということは今日、伝統的な発想にしたがっている人と絶縁することにはならない。自分のうちにある伝統との戦いが必要なのだ。戦うことによってモティーフは変質する。
 その変質の可能性を求めると、童話を書くことは自分と子どもに呪文をかけることであった。呪文は実は変革のための技術である。しかし、呪文では変革は行なえない。変革にやくだつものはエネルギーであり、行動である。児童文学が理想、したがって変革を願う文学であるならば、従来の童話がとどまっている線を一歩向こうへ突っ切らなければならないのだ。さきに、ぼくたちのうちに多少なりともエネルギーと基本的行動へ向かう芽ばえがあると言ったのは、このことである。
 日本児童文学の主流となってきたのは、原始心性による童話であった。原始心性は、うちに矛盾し対立した要素を含んでいる。「金の輪」に見られるやみへの恐怖というような心性と共に、原始心性には巨大なエネルギーがうずまいていたはずだ。
 未明に「海と太陽」という詩がある。

 海は昼眠る 夜も眠る
 ごうごう 鼾をかいて眠る

 昔 昔 おお昔
 海がはじめて 口開けて

 笑った時に 太陽は
 眼をまわして驚いた

 可愛い花や 人達を
 海が呑んでしまおうと

 やさしく光る太陽は
 魔術で 海を眠らした

 海は昼眠る 夜も眠る
 ごうごう 鼾をかいて眠る

 この詩には原始的なエネルギーが満ちている。今日、ぼくたちはエネルギーということばに火花を散らす尖鋭さを感じることが多いようだが、原始のエネルギーはより巨大である。
 その意味では、ぼくたちは未明のこの詩に帰らなければならないし、さらに神話に帰らなければなるまい。しなびてしまった原始心性には意味がない。ちっぽけな願望の世界とは縁を切ろう。原始心性のうちにこめられているエネルギーに目を向けよう。
 神話を生み、未明のこの詩を生んだものは想像力である。想像力は魔性の者を生むと共に、それを追いはらうにも力をつくした。
 その想像力の今日的な展開は創作方法の展開にほかならない。必要なのはモティーフと方法の追求である。そのためには、原始心性そのものを対象化してみなければなるまい。伝統との戦いということとは資質と方法のとっくみあいのことなのだ。そぼくな自己表出とは、未明の前述の詩も含めて、さよならを告げるべきである。
 状況ということを、ぼくたちはもっと深く考えてよかろう。さらにその状況のなかで先祖がどう行動したかを想像してみよう。原始人にとって部落を離れることは、彼を敵視する自然とそれに巣くう魔性のものにとりかこまれることを意味していた。旅にあっては、彼はものすごいエネルギーによって身を守らなければならぬ。この姿を今日の旅において考えてみる。
 この時、生の連続はエネルギーの時間的な発展としてよみがえる。毛皮のかさをさし、毛皮の服を着た奇妙な姿のロビンソンの背後には過去の原始人の姿がかくれており、その進む道には未来の世界を築く子どもたちがかくれている。
 基本的行動とは祖先の行動の積み重ねにほかならない。だから、ぼくたちは「宝島」の背後に英雄伝説を発見し、「家なき子」のさすらいに中世騎士の遍歴物語とオディッセーの放浪の重なりを見ることができるのだ。すぐれた少年少女小説の主人公たちは、その意味で、常にどんな老人よりもはるかに年上であり、その若々しい顔には、目に見えない深い深いしわがきざまれている。
 それと同時に、文学作品というものは常に新しさを要求する。ロビンソンなり、モーグリなりに、ぼくたちは近代市民の自覚、個人の可能性への信頼という近代文学の刻印をめいりょうに発見できる。基本的行動は原始以来の人間の行動の積み重ねであると共に、その行動の今日における展開でなければならないのだ。
 そして、その今日的な展開がなければ、作家にとってその作品は書くねうちのないものだ。原始以来の人類を進歩させてきた行動というものは実は抽象的な意味でしか存在せず、実際に存在するものは今日の行動である。その行動の奥にかくれ、その行動を発現させるものは、無数の人間の経験による行動の積み重なりであり、それが基本的行動なのだ。児童文学者は今日のさまざまの人間行動のなかから、基本的なものを選び出す能力を持つことを必要とされよう。
 もちろん、ひとつの行動はさまざまの方向にむかって発展する。
とらえ方によっては、それは複雑な心理のからみあう恋愛小説になるかもしれないし、推理小説になるかもしれない。ただ、その行動の発展、表現が常に基本的なものへと向かっていくのが、児童文学者のもののとらえ方となるはずだ。

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