『児童文学の旗』(古田足日 理論社 1970)


序章
「ふしぎの国」に旗はひるがえるか



1

 十か月ばかり前、ぼくは『実感的道徳教育論』という文章を書いた(『人間の科学』64年3月号)。
  その文章のなかで、ぼくは弔旗についてふれた。
 ぼくにはわすれられないことばと風景がある。敗戦の年の暮れ、ひとりの友人が「あの日、なぜ日本の家いえは弔旗をかかげて敗戦を悲しまなかったんだろう」といった、そのことばと、そのときの灰色の空の下、灰色の道路と、長くのびた市電の線路と、くすんだ緑のいけがきである。
 風景は心のなかでそだつものだ。昭和38年11月、皇太子夫妻が米大統領ケネディの死をとむらうミサに参列したという新聞記事を見たとき、ぼくの風景には弔旗がひるがえった。
 ぼくの弔旗がとむらうのは、敗戦の日本であると同時に、ケネディの死とおなじ月の9月、三井三池鉱山の爆発と、同日の国鉄鶴見事故の死者である。異邦人の死をいたむより、おなじ日本人の死をいたもう。
 だが、現実には昭和20年8月15日にも、38年11月9日にも、弔旗はかかげられなかった。戦後「18年の時間は弔旗の非存在という点で凝縮される」と、ぼくは書き、『実感的道徳教育論』は次のように結ばれた。
 「ぼくは思う。いつか日本列島の大平洋岸からえんえんと瀬戸内、北九州につらなる工場地帯にいっせいに弔旗がひるがえることを。その日、人間の原理が勝利をしめるのだろうか。」(“人間の原理”というのは“企業の原理”に対して提出したことばである。)

 この結びのところをもっと発展させたものを書けというのが、本誌編集部のぼくに対する注文である。もうすこしくわしくいうと、次のようになるらしい。
 いまの子どもは弔旗をひるがえすおとなになり得るかどうか。どうも疑問だが、その子どもたちが弔旗をかかげる人間になっていくのは、いまのおとなが持つ弔旗のイメージが問題なのではないか。とすれば、われわれはどういう弔旗のイメージを持つべきか。
 この問題を持ってきた、ふたりの女子学生と、ぼくは一時間あまり問答をかわした。ぼくには編集部提出の趣旨がわからなかった。いまでもわかったとはいえない。(だから、ぼくは、次のようなことになる“らしい”と書いた。)
 だが、とうとうぼくは書くことになった。受け身のかたちである。受け身のものをなぜひきうけか、自分にもわからないまま、日がたった。

 *

 ある日、ぼくは、ぼくの所属する日本児童文学者協会の研究会に出ていった。テーマは戦争児童文学、ぼくは報告者であった。
 最近、戦争(大平洋戦争)を書いた児童文学作品が多い。この動きは昭和34年後半にはじまり、39年に至って圧倒的多数をしめる。その理由の一つは、児童文学の新しい書き手である三十代にとって、戦争は原体験ともいうべきものであり、彼らは今日その原体験の意味を追求しているからだと、ぼくは報告した。
 早大少年文学会の学生が発言する。
 「ぼくたちにとっては現在が問題だ。戦争を書いて現在を書くということと、原体験の追求とは別なのではないか。」
 さっきの本誌編集部提案問題を、ぼくが不正確にしか要約できなかったように、この早大少年文学会会員の発言も、ぼくは不正確にしか伝えることができないのだが、ぼくはとにかく以上のように理解した。
 なるほど――と、ぼくは思う。ぼくはそのとき、手もとに最新刊の戦争文学『あほうの星』(長崎源之助)を持っていた。ぼくは『あほうの星』の書評を次のように書いた。
 「ぼくがもっとも心をひかれたのは第三話『鳩の笛』である。初年兵上田はあほうのふりをすることで戦場にでることをまぬがれようとする。彼の計画は成功するが、ただひとり宮田上等兵だけは彼をいじめ、なぐる。宮田の親友山口一等兵は討伐に行って戦死したことになっていて、そのかたきうちのつもりか、宮田はもっとも勇敢な兵士である。だが、ゆかいなあほうとして教官室に出入りする上田は実は山口が脱走し、さらに宮田と山口は朝鮮人であることを知る。
 八月十五日もすぎ、復員を待つ彼らは八路軍に包囲され、八路軍のなかから山口は降服をよびかける。だが、戦闘は開始され、通用門からにげようとした上田は、それより先に宮田が自分のかわいがっていた中国人少年リャンといっしょににげるのを見る。日本軍の銃火は宮田たちの上にふりそそぎ、リャンはのがれるが宮田は死ぬ。
 復員のとちゅう、戦死者のうでからはずしたうでどけいを金にかえた上田は牛車をやとってそれに乗り、他の兵隊は歩くが、零下数十度、歩かなかった上田は寒さのために死ぬ。
 日本の児童文学にはおひとよしで善良なあほうを主人公とした系列があるのだが、『鳩の笛』を一例として『あほうの星』ではすべての登場人物があほうである。この作品はいままでのあほう文学を一段と発展させたものといってよい。
(中略)欲深くいえば、おどるあほうに見るあほう、どのあほうをえらぶかということがはっきりと出され、さらにいまの子どもに語りかける方法の探求がほしかった。」(『週刊読書人』11月9日)
 どのあほうをえらぶかということ、これは実は自分の問題である。ぼくはまぼろしの弔旗をえがき、長崎源之助は葬送行進曲を点出する。朝鮮人兵宮田とリャン少年がかわいがっていた鳩の笛が中空に鳴りひびき、この鳩の羽毛、ふりつむ雪にうずもれて上田は死ぬ。
 だが、宮田も死に、宮田をだまし、にせあほう上田にだまされていた教官内藤少尉も死ぬ。鳩の笛はただ上田のためにだけ鳴ったのか。めざす八路の陣地を前にしてたおれた宮田の耳には、鳩の笛はきこえなかったのか。いうまでもなく原体験の追求は現在と重ならなければならぬ。にもかかわらず、その方法をぼくは、ぼくたち(三十代の児童文学の書き手たち)の多くは持ちあわせていない。持っていないからこそ、戦争児童文学が書かれるともいえる。ぼくたちが児童文学にかかわる動機は、戦争のなかに根をおろしていて、その正体を、どのようなことばであれ、ぼくたちは追求する必要にせまられている。自分の価値の体系をぼくたちは持っていない。
 今日、三十代以上の児童文学者は、とりかえしのつかぬ戦後十年を送ったようである。もしも戦争児童文学がこの期間にもっと多く書かれていたら、昭和17年生まれの早大少年文学会会員の発言はもっとちがったものとなるはずであった。かり物の民主主義ではなく、心情的な平和への願いだけではないものが生まれていたら、価値の体系はいくらかでも形をなしてきたのではなかろうか。
 戦争というものの重みは、ぼくのような昭和2年生まれと、昭和17年生まれとでは、まったくちがう。戦争体験と戦争が遺産として語りつがれないうちに、昭和17年生まれは今日の大学生となった。
 そして、この十五年の差は、ことばの分裂となってあらわれる。長崎源之助が戦争をかつての戦争時代のことばで語るとき、そのことばの重みは、今日の子どもたちには通じない。
 もちろん彼の作品を読んだ子どもたちは、感動した、はじめて戦争のおそろしさを知った、という感想を書くにちがいない。だが、その感想が子どもたちの現在をつくっていくのに、どの程度の役割をはたしていくかについては、ぼくはまったく疑問である。
 いまの子ども、いまの学生と、ぼくたちのあいだにことばの分裂がある――そう気がついたとき、ぼくは弔旗について書けといった、ふたりの女子学生を思いだし、受け身のままひきうけた自分の理由に思いあたった。
 ことばの分裂のためにぼくにはテーマがつかめず、同時に新鮮さを感じた。その新鮮さがぼくをひきうけさせた。その新鮮さとは、子どもとの対応関係のなかでおとなをつかむことである。問題はこういいかえることもできる。おとながど
のようになり、子どもがどのようになったとき、弔旗はひるがえるのだろうか、と。
 ここでは、おとななり子どもなりが一方を支配するのではなく、ふりこのように平均関係を保つ。この発想はぼくたちの世代にはない。それを獲得するために、なぜ児童文学にかかわるのかということを、ぼくたちはつねに考えなければならないのである。十五年のあいだにはかなり進歩があったのだ。
 しかし――と、ぼくは思う。早大少年文学会の作品には一方に子どもをおく、この考え方はないようだ。にもかかわらず、ぼくが早大少年文学会会員と本誌編集部のふたりの女子学生に共通なものを感じたのは、なぜなのか。
 おそらく、それは“弔旗”にちがいない。あるイメージをともなうことばが、イメージをともなわないことばの系列に挿入されたからである。ぼくなら、“われわれはどういう弔旗のイメージを持つべきか”とはいわないで、“人間の原理とはどのようなものか”といいかねないところだ。
 現代学生のことばの特長はこのイメージをともなうことばが、ともなわないことばと共に用いられるところにあるのかもしれない。ことばの呪術的使用ということにもなりかねないのではないか――そう思って、ぼくは自分の『実感的道徳教育論』に思いあたる。ぼくの“弔旗”はいったいだれをとむらう旗であったのか、その表現は不正確であった。さらに論理的にしなければならぬ。ぼくたちと学生と子どもたちと、ことばのつながりを回復しなければならぬ。
 ぼくの風景のなかでは弔旗はつねに複数であり、複数の弔旗がかかげられるには、ことばの通路が自由でなければならないのである

2

 三つの弔旗があった。敗北の日本をいたむ弔旗と、三池、鶴見の死をいたむ弔旗と、つらなる工場にひるがえる弔旗である。
 だが、敗北をいたむ弔旗とはいったいどのような要因を内にふくんでいるのか。当時十八歳のぼくにとっては、勝利の日に祝いの旗をかかげるそのことと、等質のものであったようだ。
 しかし、いまあの戦争をふりかえるとき、もっとも心をゆすぶられるのは二百八十五万の死者の存在である。『神風特攻隊』という本があり、その本の末尾には敷島隊関行男大尉をはじめとして、四段ぎっしりに特攻隊員の氏名がのっているが、それを見るたび、ぼくの心はゆらぐ。行間から亡霊が立ちあらわれてくるのが、目に見えるような気がする。弔旗はやはり死者のためなのだ。だが、それだけではない。弔旗は抗議の意味を持つ。三池、鶴見の事故ののち、弔旗がはっきりと心にうかんだのは、皇太子夫妻のケネディ追悼ミサ参列のときである。彼らに抗議し、さらに三池だけで四百五十八人の死者を出した企業に抗議する旗である。
 第二の弔旗は独占企業の死をつげる。ここで、ぼくたちはある問題にぶつかることになる。独占企業の死の上にひるがえる旗は実は勝利の旗ではないのか。なぜ弔旗をかかげる必要があるのか。
 これについては二つの答があるようだ。一つは独占企業が死をつげるときには、いままでの自分自身が死ななければならないということ。いや、これは逆の展開であって、いままでの自分が死ななければ、独占は死なないという方が正確だ。そのいままでの自分をとむらえ。弔旗はけじめをつける旗である。
 第二の答は、呪術的な答である。今日、ぼくたちは“ほろびの歌”にとりつかれている。ぼくたちはしばしば破かいなり逃亡なりの発作にかられる。発作にかられないまでも、その欲求を心のなかに秘めている。勝利の旗をひるがえすより、死の旗をひるがえす方が、ぼくたちの心にぴたりと来る。
 おそらくこの二つの答が統一されたものが、第三の弔旗の理由になるだろう。実際に弔旗がひるがえったとき、第二の答はすてられて、第一の答だけが生きのこる。現在、心のなかのイメージは弔旗であり、それが現実にあらわれたときには勝利の旗に転化している。いや、勝利と簡単に言ってしまうことができないが、新しい出発の旗となる。

 *

 三つの弔旗をつらぬく共通なものは怨恨である。弔旗とは死者の怨恨の表現にほかならない。怨恨に怨恨をつみ重ねて、そのはてが死のイメージとなる。

 *

 ぼくはいままで何度も“死者をいたむ”ということばを使ってきた。だが、そこにとどまっているかぎり、真実の弔旗はかかげられない。ただ連続しているのではなく、上昇線をえがく弔旗が必要なのである。これは時間的な経過のことだけではない。ある日、いっせいにひるがえる弔旗の構成が重層的なものとなっている、ということだ。
 そして、ある種の弔旗は一方では死であり、一方では新しい出発であるという、矛盾の統一体となっている。ぼくたちが望み得る最高の弔旗はそれであろう。
 弔旗が新しい出発の旗であるということ、これは前にもいった、けじめをつける旗ということとおなじである。ぼくたちは“時の流れ”に支配されやすい。『実感的道徳教育論』のくりかえしになるが、敗戦による価値体系の変化はそのもっとも基礎的なところでは変化していない。
 その日、当時のおとなたちが弔旗を立て得る人間であったとしたら、日本の今日は、いまとはちがっているはずで、ここで問題は出発点に立ち帰る。ある日、弔旗をひるがえすことができるのは、その以前からの歴史のつみ重なりの爆発であり、歴史は子どもを予想する。子どもというものの存在がなければ歴史は成り立たないのである。
 この歴史の見通しがあって、いまの子どもが弔旗をかかげ得るおとなになることができるかどうかという問題が成立する。子どものことを考えるとき、ぼくたちはきょうに続いてあすがあるという、連続の論理の上に立っているのだ。
 だが、未来ということを考えれば、きょうに続くあすというものの延長に未来は成り立つものではない。青空の下に弔旗ひるがえる未来はきょうの延長の上にあるのではなく、その延長を断ち切ったところでしか生まれない。時間ののっぺらぼうな延長が未来なのではなく、未来はつくられるものなのだ。
 そして、弔旗のイメージは過去と現在と未来とを一点に凝縮するところから生まれた。こう見れば、現在のなかに過去があり、未来がある。
 いまの子どもということになると、たとえば次のような話がある。中学校の脱脂ミルク給食のことだが、ある子どもたちが反対の生徒大会をひらこうと思いつく。だが、その議題で生徒会をひらくことは最初からはゆるされない。他の議題で二時間の時間をもらい、その議題はさっと一時間で切りあげる。そして緊急動議としてミルク問題が提出される。討論一時間、さいごに列席している校長が苦虫をかみつぶしたような顔で、やはり脱脂ミルク飲めということを話す。するとひとりの子どもがいった。
 「でも、先生、まずいものはまずいんです。」
 どっと笑いがおこって、生徒大会はこれでおわりとなる。
 この話から中学生たちの計画緻密なことを見ることもできる。彼らはそのとき、ミルクに関するさまざまの資料もちゃんとガリ版に切って、くばったのだ。
 だが、それよりもぼくは笑いの方に心をひかれる。アンデルセンは王様がはだかであることを子どもに指摘させたが、それと同様な笑いをさそうできごとが、いまの日本には充満している。いや、いつの時代、どの国でもそうなのかもしれないが。
 ただそれを笑いと見るか、深刻なものと見るか、その視点はさまざまである。子どもを守れといういい方も出てくるし、子どものエネルギーをそこに見る人も出てくる。さまざまの子どもが存在していることが、その見方の分裂に拍車をかける。
 おとながどのようになり、子どもがどのようになったとき、弔旗はひるがえるのだろうか、ということは、児童文学にとって、ファンタジィの問題であるだけではなく、リアリズムの問題でもある。いまあげたような実例のなかで局部的にだが、子どもは、いわばそのファンタジィの世界を実現しつつある。すくなくともその手がかりをつかもうとしているのだが、ここではさらにナンセンス成立の時期に児童文学がさしかかっていることをいっておきたい。
 ナンセンスに注釈を加えれば、その代表作品はとりあえずは『ふしぎの国のアリス』である。この風刺にみちた非常識の世界は実におそろしく現実的である。そして、さきにいったようにこの日本の現在は非常識きわまりない世界である。
 もしも出口がないならば、子どもといっしょに笑うことがらはじめよう。いま自分と子どもをつつんでいるこの世界はふしぎの国なのだが、それをふしぎの国と見ることができるのは、弔旗ひるがえる未来から現在を見た場合ではなかろうか。
 つまり弔旗に心をひかれるのは、この世界にとらわれていて、死と破かいの欲望にかられるからであり、その自分をとむらう弔旗を立てることが、まず必要ではないかと、ぼくは思う。もしそれが不可能なら、せめてものこと、怨恨の火を消さず、もやしつづけたい。
(『駿台論潮』1964年、62号)
テキストファイル化塩野裕子