戦争読物をどういう材料でどう書くか
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まずはじめに、この少論のねらいをある程度定めておこう。というのは、「戦争読物をどういう材料でどう書くか」という題名は、はっきりしているようで、実はあいまいなものを多分にふくんでいるからである。
とりあえず「戦争読物」の戦争、これはかつて大東亜戦争といわれた戦争および、中日事変のことをさす。日清・日露、その他の戦争のことは、この「戦争」のなかにはふくまれない。では、満州事変・上海事変などはどうなるかということになると、ぼく自身けんとうがついていない。
このけんとうがつかないところにすでに問題は内在している。その問題というのは、たとえば、ここでいう戦争読物が戦記なのか、戦史なのか、またそういうわくなしに、ただ戦争のことを書く一編の小説・童話を指すものか、それともぜんぶを包含するものかということだ。
さきに結論をいえば、すべてをふくむものとして、ぼくは戦争読物ということばを使った。この際、実際に書こうとする立場に自分をおいてみると、満州・上海両事変のことがひっかかる。
はばからず大げさないい方をしてみると、ぼくは日本児童文学者協会は、その総力をあげて、太平洋戦史、あるいは戦記を書くべきだと、数年前から思っている。
そして、それがもしも戦史なら、満州・上海両事変は抜かすことができないだろう。だが、戦記となり、さらにひとりの人間のしごとである小説・童話・記録の類にはいってくると、ぼく自身の内的要求は満州・上海両事変とは結びつかない。ここにはズレがある。書こうとする者の内的な要求と、あの戦争の姿をいまの子どもにつたえたい、つたえなければならぬという要求は、かならずしも重なりあわない。
つまり、戦争読物を書くことは、一面では、子どもの読物を書くしごとをやっている人たちがはたさなければならない責任として要求される。いわば、社会的な義務であると、ぼくは考える。しごとというものは、多くの場合、社会的責任をせおっているものだ。
この立場に立つとき、ぼくたちはあの戦争の事実と結果をいまの子どもたちにつたえなければならないのであり、その際、戦争の巨大な姿を共同作業でえがきだすことになり、太平洋戦争前史として、満州・上海両事変は当然書かれる必要がある。
一方の極にこのぼう大な戦史があり、もう一方の極に、この戦争をくぐりぬけて、ぼくたちが何を得たか(ぼくたちの思想として)ということを書く小説・童話がある。
今日、三十代の書き手には戦争はなんらかの形で影を落としている。いや精神の深部をつくりあげているともいえる。作者の意識するとしないにかかわらず、戦争体験は佐藤暁『だれも知らない小さな国』をはじめとして、いぬい・とみこの諸作にも、斎藤了一『荒野の魂』にもいきづいている。
だが、この戦争体験の思想化、また結果の報告は、戦争そのものをえがくことよりも、他の事象と重ねあわせて書かれることが多かった。これは、ある意味では当然のことであった。当然というのは、戦争体験は戦後体験と重なりあい、自分自身の現在の意味をさぐることにおいて生きてくるものだからである。『だれも知らない小さな国』は、この作業に成功した例であり、その前半において、みごとなダブル・イメージを示している。
だが、リアリズムは事実そのものについての関心から生まれる。そして、戦争という事実と戦争の体験はちがう。今日の三十代以上の人びとは戦争を何らかの形ですべて体験してきているが、その体験は戦争という事実のほんの一部をつかんでいるにすぎない。
この体験を発展させようとするとき、ぼくたちは戦争をもう一度ふりかえってみなければならぬ。戦争の事実に即して、その事実を越える作品が書かれなければならないのである。
これは戦争読物の純粋なあり方といってよかろう。この小論は、その純粋な戦争物のことについては書く。しかし、『だれも知らない小さな国』のように、戦争体験に根をおろしてはいても、そのテーマや、作品を形づくる細部の事実が戦争と直接関係ないものについてはふれない。
また戦史について書くことも手にあまる。ぼくは、戦史にはふれない。
この小論のねらいは、戦記および純粋な戦争小説をどう書くか、ということにしぼられる。そして、その際、材料となるのは他人の書いた小説ではない。こういう話があるが、それをこう書いたらどうだろうかということを、できるだけ具体的に提出していきたい。
<2>
ぼくたちの義務として、戦争読物を考えるのは、直接には少年週刊誌などに、戦争に対する批判のみられない戦記物・戦争マンガがのせられているからである。
いまここでは、この現象とたたかうことをひとつの目標として考えてみよう。その方法はいくつか予想される。
1 こちらも零戦・大和を書いてみるというやり方。カッコイイ戦争を書くなかで、戦争を批判するやり方だ。
2 神風特攻隊・ひめゆりの塔など、むざむざすてられたいのちのことを書く。むなしい努力を書くということになろうか。
3 ガダルカナル戦のような歩兵部隊の戦闘。この歩兵戦闘のみじめさは週刊誌には出てこない。軍隊生活のくるしさや、空襲のこと、食料事情のことなど。
4 日本が中国その他でおこなったザンギャク行為のことをあきらかにする。
5 原爆のこと。
このうち、第四はそのままでは読物にはならない。しかも、これを書くことは苦痛である。しかし、日本の侵略の事実は存在している。ふつう戦争はいやだというときの母親の心情は、身内の者を失った、食料がなかった等、具体的なものに根ざしており、この体験を固執するかぎり、自分たちは被害者であるという立場に立つ。
だが、少なくとも中国に関して、日本は加害者であった。この立場をぼくたちは認識しなければならぬ。被害者であり、加害者であったという立場。加害者であったということは、実はいまの子どもたちに対して、ぼくたち(この「ぼくたち」の内容もまたはっきりしないのだが)はある負い目をもっているということにもなりかねない。民族としての負い目を次の世代にひきわたすということになるかもしれない。
また当時、自分が少年であった――ぼくは太平洋戦争がおこったとき、中学二年だった――ということで、この責をまぬがれるとも思えない。心に、うちてしやまんとちかったことの罪悪感はいつまでものこるのである。
次に進もう。第一のカッコイイ戦争のこと。ここでは反戦の主人公が活躍してもよい。日本共産党に海軍細胞というのがあったそうだ。戦艦武蔵にもそれがあったという。ただし、これは資料不足だからむずかしい。むしろ、兄は八路、弟は陸軍少年飛行兵(または予科練)という設定のほうに可能性があるだろう。
三人の少年兵がひとつの学校から巣立っていき、それぞれの道をたどるというやり方。この際、少年兵になっていく動機だが、そのひとりの動機にはぜひとも生活ということを入れたい。農家の三男か何かで、村にいてもくえない、上の学校にも行けない、そこで軍隊にはいる。
これは軍隊下士官になっていった連中の一般的動機であったはずだ。だから、時期的には太平洋戦争以前。その後輩に愛国心にもえた少年がいて、軍隊にはいる。そのうちのひとりは人間機械になる道をたどる。勇名をはせた零戦乗りも、実は人間機械にすぎない。その資料のひとつとして、かつての航空参謀、のち自衛隊航空幕僚長、そして参議院議員となった源田実が部下をどうみていたかを書いておこう。
紫電改という戦闘機があった。敗戦前後数ヵ月間に活躍した海軍機で「紫電改のタカ」といったか、そういうマンガもあった。源田実は昭和二十年一月、この紫電改を使用する第三四三海軍航空隊の司令となった。その基地は愛媛県松山、三四三空は剣部隊と自ら称した。
当時はもちろん、日本の空は米軍の支配下にある。二十年三月十九日、松山基地上空で紫電改は機動部隊から発進してきた米機とたたかい、グラマンを主として五十七機を撃墜した。まれにみる大戦果であった。これが紫電改の初陣であったが、やがて三四三空は大村基地を本拠にする。源田は書く。
「この頃の航空戦指揮で、私の最も苦心したことは、攻撃目標の選定とその時機である。」というは、米軍の大編隊にむかって、わずか二十機・三十機がぶつかっていったのでは、紫電改でもひとたまりもない、先頭よりも後尾をねらえ、米軍が空襲を終わってひきあげるときをねらって、その最後尾の編隊を料理しろということになる。
さらにまた源田は書く。「搭乗員がウォーミングアップもできあがり、まだ神経も疲れていない最良の状態は、離陸後三〇分ないし一時間(戦闘機において)である。この状態で敵にぶっつけるためには、少なくとも会敵三〇分前に離陸させなければならない。今一つの理由は攻勢である。われわれはもちろん、戦略的守勢には立っているが、個々の戦闘そのものは、あくまで攻撃の利を占めなければならない。そのためには、やはりある程度進撃し、搭乗員達にも『自分たちは攻勢の立場にあるのだ』という心構えを持たせる必要がある。大村から離陸して九州南端に達する時間は、概ね三十分ないし四十四分で、高度も六、○○○メートルないし七、○○○メートルという適良なものに達し得る。」
こうして六月二日、三四三空の林大尉のひきいる紫電改二十一機は午前九時五十五分、高度六、○○○メートルで鹿屋上空に進入、南下中の米軍機十六機を発見、つづいて八機を発見、うち十八機を射落とした。「我方で未帰還となったものは、船越、見上両飛曹の二機のみである。」
この戦闘をふりかえって源田はいう。「六月二日の戦闘は、まず理想的な会敵状況で、会心の作であったともいえよう。」
ぼくは源田の回想録を読んでいて、ここにつきあたり、はっとした。未帰還二機のみ、その二機のいのちの重さはいったいどうなったのか。戦後十五年した源田は、かつての戦闘を「会心の作」という。二機のいのちは「会心の作」をつくるための部品にすぎない。
源田はもう一度「会心の作」ということばを使う。鴛淵大尉は三四三空の先任飛行隊長である。また武藤金義少尉はかつて厚木上空でグラマン十二機に対して一機でたたかい、四機を撃墜した男。少年戦記物には何度か登場してきた人物だが、このふたりとも七月二十四日の戦闘で死ぬ。敵十六機撃墜、我方の未帰還四機。「この日戦闘は鴛淵とか、武藤とかの逸材は失ったが、戦闘そのものは、六月二日の鹿児島湾上空に於けるものにも匹敵すべき、会心の作であった。」
鴛淵大尉も武藤少尉も将棋のコマにすぎなかった。ぼくは空の英雄を書き、その空の英雄が機械の一部品にすぎなかったことを書きたい。
ある戦闘機乗り(この戦闘機乗りは陸軍少年兵出身)は小隊長として、昭和十八年十月、レイテ湾上空でたたかった。そのときをふりかえっての手記がある。
「僚機は弱冠十九歳、今日が初陣だという菅沼少尉である。私は出撃直前、必ず離れないようにといっておいた。」
やがて敵機に出あう。「後を見かえると菅沼少尉は百米ほど離れてついてきている。ほかの二機は離れしまって見えなかった(註・当時の一コ小隊は四機・吉田)。だが、菅沼機の二百米ほど後を、敵二機がくい下っている。敵の分隊長とその僚機だ。しかもすでに菅沼機を射撃しているではないか。」
小隊長はよびかける。
「菅沼少尉、右に廻れ、右に廻れ。」
「しきりに呼びかけたが、受話器が故障しているのであろうか、それとも興奮に緊張しすぎて私の送話が耳に入らないのであろうか。菅沼少尉機が右に廻れば敵機もそれについて行く。私は左にひねって菅沼機を狙う敵分隊長機に迫るつもりだった。私から先にひねれば菅沼機はそのまま私についてくるだろう。そうすれば、菅沼機の危機を救うことにはならない。敵機はまっしぐらに菅沼機に近づいている。二〜三発命中するのが見えた。」
万事休す。左斜めに引き上げ、くるっと廻りこむと予想通り菅沼機もついてくる。敵の僚機が私の目の前にある。四機はきりきりと風車のように廻りはじめた。まんじ巴戦である。廻りながら菅沼機か敵の僚機か、そのいずれかが墜ちて行かなければならぬ形となった。」
この小隊長はまず敵の僚機を射落とし、つづいて分隊長機を攻撃する。そのとき、ばあっと菅沼機が火を吐いた。そして敵分隊長機も落ちていく。
「敵味方の二機はくるくる廻って燃えながらジャングルの上に落ちて行った。高度は二千五百米位……。私はただ一機そこに取り残されていた。だが、ぼんやりしている時ではない。急に機首をあげて、間もなく宮林小隊に追いつく。高度四千米でレイテ湾上空を一周、やがて私たちはネグロスの基地に帰投した。」
ながながと引用したのは、この戦闘そのものよりも筆者「私」の姿を知ってもらいたいからである。死はここでは日常のできごとであり、「私」はもう菅沼少尉のことは語らない。この記録の文体を支えているものは、機械になった人間の目である。
実戦の勇士は機械であり、さらに源田の回想録のことを考えれば、源田もまた人間ではない。彼もまた戦闘場面をつくりあげる技術者でしかない。しかし、源田は生きのこり、部下は死んだ。人間機械にされていった戦闘機乗りを書くと同時に、「会心の作」を書く源田という男、この非人間をぼくは書きたい。少年たちの前に告発してやりたい。
<3>
機械になっていった人間の手記は、ほかにもある。昭和二十年、中国青鳥の近くの陸軍戦闘機隊の基地で、特攻志願者たちがつのられる。各人、五分おきに隊長室に行き、特攻隊に参加するかどうかを隊長に申告することになる。
椿伍長は混乱した頭の中で考え、やっと決心する。「内地の防空戦隊にまいりたいと思います」といおうと思うのだ。番がまわってきて、彼は隊長室にむかう。
「椿、まいりました」
隊長室に入った私は、こういうのがせい一ぱいであった。私の視線は、隊長片岡大尉の鷲のように鋭い視線に会うと、思わず射すくめられたようになった。僅かの沈黙が耐えられなかった私は、
「特攻隊、志願したいと思います」
と、いってしまった。
何ということであろう。私は今まで考えてもみなかった言葉が、突然私の口から反射的に出てしまったことに驚いた。私のいわんとしていた正反対の言葉を、私はいってしまってから、ハッとした。だが、もう万事終わってしまっていたのだ。
隊長の目を見たとき、椿伍長は機械的に反応せざるを得なかった。自らを機械とする特攻隊が生まれてくる内的状況の一つがこの手記にはあらわれている。
もっとも特攻隊をすべてこのようなものと見ることはあやまりであろう。ぼくの中学生のときのことを考えてみると、かえって愛国の心に燃えて志願していくほうが事実と思える。そして、また時期というものもある。ある人はぼくに比島特攻と沖縄特攻とでは全然質がちがうと教えてくれた。比島特攻、つまり特攻初期には戦局を挽回することができるかもしれぬという考えがあった。しかし沖縄特攻になると、もうみこみはない。隊員の技倆や、軍隊教育でたたきこまれた精神のことはさておき、戦局の変化が隊員の心にも影響している。椿伍長が参加した「天劔特攻隊」の出撃は敗戦の年の六月のことであった。
だが、いずれにせよ、むなしくいのちはつぎこまれた。そして、少年週刊誌にはこのむなしい特攻の物語はあまり登場していない。このむなしい物語をぼくたちは書かねばならぬ。
伊号第三十潜水艦。戦争末期、この潜水艦はドイツにむかって出発した。レーダーその他の設計図を手に入れるためである。インド洋から、喜望峰の沖を回り、アフリカ西海岸を回る長い航路。警戒と緊張の連続だ。浮上は思うにまかせない。
ここで空想をまじえることは自由であろう。一種の限界状況のなかで、乗組員たちはどのように耐えていったか。一方、故郷では日ごとに食糧事情が悪くなっていく。
とにかく、この潜水艦はドイツにつき、ふたたび大西洋、インド洋を回って、シンガポールに入港した。もう日本は近い。
まだ知識不足のため、正確な報告はできないが、――というのは、日独の技術交流のため、この長い旅をつづけた潜水艦は伊号第三十だけだったのか、他にもあったのか、それをぼくは知らない――設計図の一部は飛行機に積まれて、日本に送られ、潜水艦もシンガポールを出港した。
その港の出口で船はしずんだ。敵潜の攻撃あるいは日本軍が港口にふせた機雷のためという。事実不明であるかぎり、ぼくは後者のほうをとりたい。努力はむなしかったのである。
ここにはもうカッコイイ戦争は存在しない。『神風特別特攻隊』という本があり、その本のうしろには、敷島隊関行男大尉をはじめとする神風特攻隊戦没者名簿がのっている。三段にぎっしりと組まれた、この名前を見ていると、目の前がゆらぐ。亡霊がくろぐろと行間から立ちあらわれてくる感じである。
あの戦争のむなしさは特攻隊にあらわれている。そして、もしも特攻隊を書くということになれば、これは現在生まれつつある戦争小説の次元ともうかわりはない。すでにカッコヨサはすてられたからである。
だが、それはどのようにして子どもの文学となることができるのか。元来、カッコイイ戦争を書くということは、読者である子どもの要求に根ざしている。兄は八路、弟は少年飛行兵という設定はただカッコヨサをねらうためだけのものではなく、またそのほうが戦争を全体としてとらえることができるというためだけでもなく、子どもの文学はやはり肯定的なテーマと人物に支えられているのが当然だという考えにもよっている。
だが、神風特攻隊も伊号第三十潜水艦も悲劇の物語となる。その主人公たちも肯定的人物だとはいえない。犠牲になった人びとを書くことになる。それはどのようにして子どもの文学となることができるのか。
<4>
その問題を考えていくために、ぼくたちが戦争読物を書こうとする関心のあり方を整理してみよう。
ぼくはまず、少年週刊誌などの戦記物はんらんに対抗したいというところから出発した。これは前にもいったとおり、人間のしごとの多くには、社会に対する責任がふくまれているからである。
自分のしごと、または自分が連帯している社会の一員であるというところから生まれたこの関心は、自分の内部からふきあげる内的要求ではない。そうかといって、まったくの外的要求ともいいきれない。しごとに内在する論理から生まれた要求である以上、この要求は、たとえば忠犬ハチ公の話を三枚で、山あり谷あり、おもしろく書け、というような雑誌社の注文よりは、はるかに自分自身の要求に近いのである。
これを一歩前進させた場合、子どもに戦争の事実を伝達したいという要求は、実際の作業によって行われる。しかし、事実伝達という要求だけでは実際には作者の十分な内的要求ではない。ぼくたちはただ伝達のためだけ書いているわけではない。だが、作者自身、往々にして伝達の要求を内的要求と錯覚しがちである。
そして、この次元でもすぐれた作品ができることを、ぼくは否定しない。おとなの小説家や学者が、子どものためのすぐれた文学をつくることは、けっして少ない例ではない。最近の戦争小説でいえば、早乙女勝元の『火の瞳』は主として伝達の次元によっており、こうした作品ももっと多く書かれなければならないのである。
機械的に考えれば、伝達の要求と対立しているのは、おとなである作者がおとな的な見方、感じ方でうけとっているものが、そのまま噴出することである。これは十分な児童文学にはなりにくく、末端の技術で細部を処理してしまう面も出てくる。この例としては広島「子どもの家」同人の『つるのとぶ日』がある。
また乙骨淑子の『ぴいちゃあしゃん』には戦争の正体を真正面からえがきだすことで、戦争というものを子どもにつたえようという考えをみることができる。『火の瞳』と比較していえば、『火の瞳』は戦争というものを既定の事実としてとらえ、三月十日の東京空襲と、空襲をうける庶民の感情を書くが、『ぴいちゃあしゃん』は戦争という怪物の正体をつきとめようとする姿勢をもっている。
この『ぴいちゃあしゃん』の姿勢をぼくは肯定したい。内的要求は伝達要求と重ならなければならないのである。ただ、この作品の姿勢がもつ弱点のひとつは、戦争がわかりすぎているところである。戦争とはもっとえたいの知れない、複雑な構造をもっているものではなかろうか。
この弱点がもうひとつの弱点と重なりあう。もうひとつの弱さというのは、作者がなぜ子どもの文学を書くかということが、作品のなかであきらかにされていないことである。
ひとつの材料は書き手によっておとなの小説にもなるし、子どもの文学もなる。作者と材料とのかかわりあいがそれを決定する。この際、子どもの文学を書く人間の発想の中心にすわっているものは、自分が子どもの文学にひかれていく内部衝動のようなものである。これをとりあえず自分の「内の子ども」と考えれば、伝達要求とのちがいがはっきりする。伝達要求の場合、子どもは外部にしか存在していない。
おとなの文学と子どもの文学の決定的な差は、この内部衝動があるかないかということである。ただ衝動ということばは不適当なものかもしれない。この衝動は、いわゆる衝動とはちがって、もっとゆっくりしたものであり、もっともやもやとしたものである。
ここで、ときどき問題になる自己表現ということについていえば、このもやもやの発展が自己表現である。そして、その発展は伝達と不可分の関係にある。ことばというものはただ伝達の道具ではなく、認識のはたらきをもつ。ことに文学の場合、認識したものを伝達するのではない。表現は認識と伝達と、両面の役割をはたすことになる。
そして、表現の作用、もやもやの発展は、自分の内にある読者との対話である。作者は、自分が書き、また書こうとしている人物・文章をああでもない、こうでもないと吟味する。それがおさまるのが内部のもやもやが承認を与えるときであり、このとき、もやもやはある部分だけ、その姿をあきらかにすることになる。
だが、もやもやの内部には実は読者もかくされている。もやもやのなかの可能性――子どもは好奇心にみちているとか、空想と現実のあいだを出はいりするとか――は、つねに外部の子どものもつ可能性と重なりあっている。だから、作者の発見が、読者の子どもにとっての発見となる。また内部のもやもやのある部分が外部の子どもとなんの関係もない場合、そのもやもやは修正される。修正されることによって、もやもやは外部に出たとき、動かしがたい存在として承認される。外部化する以前、内部化された外部によって修正されないものは、作者のひとりよがりにすぎない。ことばというものは元来、外的な存在であって客観的な重みに耐えなければならず、でなければ認識も表現も行えないのである。
だから作者がいくら自分のために書くのだとがんばっていても、これは無意識の中に行われている創作の心理とことばの性質に目をつむっての発言にしかすぎない。また一方、伝達だけを強調するのは、児童文学が児童文学として成立するもっとも重要な契機である作者内部のもやもやを無視することである。完全な自己表現を志した場合、それは作者の認識の発展とならなければならず、また伝達性も完備されていなければならないのだ。
横道にそれたが、神風特攻隊がなかなか児童文学にならないのは、この材料を見ていった際、どうしても子どもの文学に――という内的衝動をそそるものがぼくにはまだ発見されないからである。「子どもの文学は向日的でなければならぬ、理想主義的なものを」という外部の制約から来るものではない。
にもかかわらず、それを書かなければならないのが、日本の児童文学の現状だと、ぼくは思う。もしも精密に吟味していった場合、今日書かれている伝記で、さきにいった、ぜひとも子どものものにという内的衝動によったものは、ほとんど見あたらない。そして、いいかげんな伝記を書くことよりも、戦争の事実をしらせることのほうが必要だ。
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では、しごとの論理、あの戦争を体験したおとなとしての内的要求と責任、こうしたものでしか戦争文学は成立しないのだろうか。その上、戦争は子どもにとってすでに歴史である。歴史文学を書くとき、ぼくたちはただ事実を伝達しようとはしない。いや、事実ということばのうちにふくまれるのは、つねに現在の問題を考えることによって歴史を書く。
山本和夫の『燃える湖』について、ぼくはつぎのように書いた。
(前略)召集された、この研究者が情報将校をおしつけられ、自分で自分をなっとくさせていく過程――そこを読んでいて、ぼくはあっと思った。中国との戦争に反対し、出征してはサクラの花のようにちりたいと思っている男が、戦争の組織のなかでスパイの親玉にされていく。この設定は戦争を書きながら、現在を書くことにつながるのではないか。もっともそういう発想は児童文学のものではなく、むしろおとなの小説のものであろう。しかし、それを踏まえないで、ぼくは今日の児童文学が書けると思えない。(後略)(日本読書新聞一九六四・四月二十日号)
戦争のとき、こうだったという、それだけではぼくは満足できない。逆に戦争によって現在を照らしたい。
この要求と、ぼく自身の子どのもの文学にひかれる何かと、この二つを十分にみたしてくれる材料はないものか。あらゆる材料が児童文学の材料になるわけではなく、対象によってこちらの内的なものはよびおこされる。もちろん、これこそそうだと思ってぶつかっていっても、こちらの力の足りなさ、その材料自身の限界のため、成功しないことも多いが。
だが、とにかく現在もっとも強く関心をもっているのは坂井三郎のことである。前記源田実の『海軍航空隊始末記・戦闘編』で、坂井三郎は次のように紹介されている。「三四三空で第二位にあった撃墜王は、有名な坂井三郎少尉で、六十数機の記録を持っていた。この人はラバウルで重傷を負ったために六十数機に留まっていたが、彼が健在のまま戦闘を続けていたならば、恐らく杉田上飛曹(三四三第一位で累計一二〇余機を落としている―古田)に劣らない戦果をあげていたであろう。」
ぼくはまだ坂井三郎について、ほとんど何も知らない。『坂井三郎空戦記録』のそれも上下二巻のうち下だけを読んだにすぎない。だが、この一冊の本に盛られた内容にぼくは目を見はる思いであった。
昭和十七年のある日、ポートモレスビー上空の戦闘。そのころ坂井三郎はラバウルにいた。
高度九、○○○メートルでモレスビー上空に進入。九、○○○メートルといえば高々度飛行であり、酸素吸入器を使用することになる。飛行機そのものも思うように進まない。なぜこんな高度をとったかといえば、空中戦の場合、上空にいるほうが優位を占めるからである。
敵機スピットファイヤーの一群がおなじ高度にいる。零戦対スピットファイヤーの一騎討ちがはじまり、坂井機は敵小隊長機をあいてに垂直旋回の巴戦にはいった。しかし、飛行機はふらふらしていて、いまにも失速しそうだ。そこで、おたがいに機首を下げて降下垂直旋回になる。
いよいよ射てるなと思って、ぐっと操縦桿を引いたとき、酸素のマスクがあごの下にずり落ちた。二秒か三秒かのち、スーッと目の前が暗くなり、坂井は失神した。しかしその失神状態の底にも、自分はいま空戦をやっているのだという、かすかな意識がはたらく。そのかすかな意識のなかで、彼はキューンという、高速度で機が頭を下げてスピードを出しているときの音をきき、操縦桿をにぎったまま旋回する。はっと気がつくと、高度計は六、○○○メートル。坂井はいそいで敵を見る。すると、こちらが失神したと同様に敵も失神したらしい。おなじ状況でまわっている。
「それを認めた瞬間、何だお前も俺と同じ条件だったのか、お前も一緒に生きていたのかと、一種の嬉しさを感じた。何だか兄弟げんかをしたあとのようなおかしさがこみあげてきた。そして、次に頭に浮かんだのは、俺はこの敵を殺さなければならぬのかということであった。これは奇妙な割り切れない感情であった。」
しかし、「これが戦争なんだ。しかたがない」と、彼は思う。零戦の二〇ミリ機銃は火をふき、スピットファイヤーはまっぷたつに分解して落ちていく。「私はその墜ちていく姿を見て、ああ、やっぱり助けてやったほうがよかったと後悔に似た感じがわいて、何か一脈の哀愁というものを覚えた。」
最初、ぼくはこの「一脈の哀愁」ということばにひっかかり、たかがヒューマニズムにすぎないと思った。だが、しだいに胸のなかにふくらんでくるのは、共に高度九、○○○メートルから六、○○○メートルに落ちて、「兄弟げんかをしたあとのようなおかしさ」を感じることである。
これもやはりヒューマニズムなのかもしれない。しかし、もしも浜田広介をヒューマニズムとするなら、坂井三郎のヒューマニズムは質がちがう。友人たちにこの話をしたときに、そのうちのひとりは「それは人類感覚じゃないかな」といった。
坂井がおかしさを感じた瞬間、そのおかしさのなかで戦争は笑われる。そして、「兄弟げんかをしたあとのようなおかしさ」は、この「高々度飛行」という章のはじめの説明とつながっている。
「一万メートルも昇ると、孤独感というか、全然視界から隔離されたような感じになる。なんだか自分だけが一人ぼっちで(中略)全然別の世界にポカッと浮いているような錯覚を感じて(中略)はるかに眼下に見える地球が悲しんだり喜んだり争ったりする人間のうごめいている生活社会という観念がなくなり、単なる鉱物の塊りというような感じになる。」
おそらく坂井三郎はこの孤独感・虚無感によって、「おかしさ」を感じるのだ。この「おかしさ」を拡大するとき、戦争は、戦争と人間の関係はもうすこしちがった姿を、ぼくたちの前にあらわしてくるようだ。
坂井は、はじめてのガダルカナル出撃の日、零戦三機が一機のグラマンに追いまわされているのを見る。坂井はそのグラマンにおそいかかり、垂直旋回の巴戦にはいる。やがて坂井の銃弾をあびてとつぜんグラマンのスピードが落ち、坂井機はその前方一〇メートルぐらいに出てしまい、二機はまるで編隊を組んだかっこうになる。
坂井はうしろを見た。敵操縦者の顔が見える。大きな顔、ラグビーのボールをふくらましたような顔、白いと印象されたが、実はうすいカーキー色の服、そして右肩をやられている。
坂井は「思わず左の腕をあげて『来るなら来い』という格好をやってみせた。すると、むこうは操縦桿を左手で持ちかえて何だか拝む恰好をやっている。見逃してくれと哀願しているのかとも思ったが、(中略)ヤンキー流に『ノー・サンキュー』とでもやっていたのかも知れない。(中略)一瞬私は何か『哀れ』なものがぐっと胸に来た。敵が哀れなのではない。何と説明していいかわからないけれども、それは多分おたがいが哀れなのではなかろうか。」
ここにある「哀れ」はもしかしたら、ヒューマニズムに傾斜しているかもしれない。しかし、この「哀れ」の底にも地球を鉱物の塊まりと見る感覚があるのではなかろうか。
この感覚は愛国心にもえた中学生であったぼくなどの感覚をはるかにこえる。この感覚は過去のものではなく、かえって現在のものであり、SFの世界にも通じるものがある。
ここでぼくはなぜ戦争を書くかという問題がいくらか解けたような気がした。自分の戦争体験と戦争とのかかわりあいは、自分の実感とはるかな距離をもつ、坂井三郎のような感覚と体験に媒介されることで、発展するという予感をぼくはもつ。
坂井三郎に媒介されることは、おそらく人類感覚というものの原理の追求にちがいない。それが文学のことばで追求されるとき、原理は原型である。そして、児童文学とは原型の追求なのであり、ここで坂井三郎がこの日の次の戦闘で負傷し、右眼の視力を失い、左半身マヒしたまま、ぎりぎりのガソリンで一機ラバウルに帰りつく、奇蹟の生還とも結びつくにちがいない。
この生還のなかで行われる彼の肉体と精神のたたかい、このたたかいのあいてを、ぼくたちは戦争そのものと見ることもできるのだ。
(日本児童文学・一九六四・八月)
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