実感的道徳教育論
風景
いかりのにがさまた青さ
四月の気層の光の底を
唾しはぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(春と修羅)
ケネディがころされて数日ののち、あざやかに心の中にうかびあがってきたことがあった。灰色の空の下の灰色の道の上に二本の市電の線路がのび、その一方のがわはまばらな緑のかきねである。
数人の男たちがそのかきねの前に立ち、次にやってくる市電のナンバーが偶数か奇数かということで、かけをやっている。
おそらくそれは昭和二十年の暮れ近いころであったろう。ぼくは当時、大阪外事専門学校(現在の大阪外語大学)の一年生であった。ぼくはひとりの友人とその市電の通っている線路を歩いていた。それまでの会話と何の脈絡もなしに友人はいった。
「あの日、なぜ日本の家いえは弔旗をかかげて敗戦を悲しまなかったんだろう。」
あの日とはいうまでもなく八月十五日。その翌年の春には栄養失調で死んだ友人のことばであった。
すると、突然風景はかわる。まっさおな空の下、焼けあとの壕舎のトタン屋根ののき先に、煤煙でくすんだ屋根の家いえののき先に、黒い布と赤い日の丸の旗が風にひるがえっている。日本全土を見わたすかぎり、黒い布と白地に赤の日の丸がかかげられているのであった。
日本全土をおおう弔旗のむれ――この弔旗がとむらっているのは、敗戦の日本であると同時に、黒い地下の坑底から次つぎとはこび出されるたんかの上の死者、そして、くの字にまがった車輌の中にたおれている人びとである。
あの日とは昭和三十八年十一月九日、三井・三池・三川第一斜坑は爆発して四百五十八人の死者を出した。おなじ日、国鉄東海道線新子安――鶴見間に二重衝突がおこり、死者百六十二人を出した。
八月十五日にも十一月九日にも弔旗はかかげられなかった。しかし、ぼくはぼくの心の中に見た。
日本全土に弔旗がひるがえり、はたはたと風に鳴っているのを。
現実には弔旗はない。あるのは平和――団地の平和。わかい母親がおさない子といっしょにピアノ・オルガン教室にいく。団地の庭で子どもはブランコ。母親はテレビのスイッチを入れる。メロドラマ。
だがこの風景は一瞬かわる。次のような新聞投書があった。
「その朝、平常通り出勤する主人を見送り、静かな祝日を子どもに本を読んでやっていた。小学館発行の”世界の王さまの乗る自動車”――日本をはじめ、イギリス、ドイツ、フランス、そしてアメリカ。そこにはこう書かれてあった。
アメリカの大統領ケネディさんの乗る自動車はリンカン=コンチネンタル。
『フォードというかいしゃでつくっている、いちばん大きな、りっぱな自動車です。』
と、車の話から王さまの話へと、わたくしは若く勇気あるアメリカの指導者ケネディ大統領の話を子どもに聞かせていた。大統領暗殺の悲報も知らずに……。
(中略、この間にケネディ暗殺のニュースを知ったこの主婦は)
「とめどなく流れる涙をぬぐうことさえ忘れて私はテレビに見入った。日本の片すみの名もない一主婦にすぎないけれど、この悲しみに涙を流さずにはいられない。そして祖国アメリカのために、若くして死んだ平和の勇士、ケネディ大統領のめい福を祈ってやまない」(十一月三十日読売夕刊)
一瞬、かわってわかい母親の断面図が見える。いかなることか、肺と肋骨のあいだにあるはずの空間がない。肺はぴったりと肋骨にくっついている。癒着だ。いや、それだけでない。プラウスもスカートも体にくっついている。衣類も癒着してしまったのか。
動機
おおきみのため
神風はつばさつらねて
きょうもいく
(軍人関中佐の歌)
一九六二年十一月二十六日、東京四谷の聖イグナチオ協会で、暗殺されたアメリカ大統領ジョン・F・ケネディ追悼のミサが行なわれ、天皇代理として皇太子夫妻が参列した。
この皇太子夫妻参列予定の新聞記事を見たとき、ぼくは頭に血が上るのをおぼえた。ケネディは異邦人である。その追悼ミサに皇太子夫妻が出ていく。
では天皇は、皇太子は、三池・鶴見の死者を悼む式典に参列したのか。そうした式典はなかったかもしれぬ。しかし式典の問題ではない。天皇が、皇太子が、三池・鶴見の死者をどう思ったかということだ。彼らはあるいは深夜ひっそりと追悼したのかもしれぬ。金一封のおみまいをたまわったかもしれぬ。だがケネディ追悼のミサに出席するというほどのニュース・ヴァリューをもって、彼らの行為は行なわれたかどうか。
もちろん国際事情や国内事情や、さまざまな複雑な理由があったかもしれぬ。だが、元来追悼ということは、もしそれが人間的行為であるかぎり、もろもろの事情をこえるものだ。古い昔の天皇は寒夜、衣をぬいで民の寒さを思いやったという。その伝統がこっけいであるにしろ、ないにしろ、天皇は、皇太子は、彼らの一家がもしも千年の長きにわたって日本の国を治めてきたのなら、なぜ同じ日本人の死を悲しまないのか。天皇は、皇太子は、なぜ三池・鶴見の事故の日に弔旗をかかげなかったのか。ぼくは歯が鳴る思いであった。
ここで弔旗のイメージが生まれる。弔旗の風景をよび起こしたものは、天皇である。そして天皇が行ない、かつ行なわなかった行為に対して、ぼくはなぜ歯をかみならすのか。これはぼくの天皇信仰のためにほかならない。ぼくは天皇にうら切られたのだ。
意識の上では天皇は、もうぼくのうちにはなかったはずなのである。だが心の奥底にやはり天皇は生きていた。かつての愛国心教育、あるいは二千年の伝統は根強い。
しかし――とぼくはおもう。その根強い愛国心があったのなら、なぜ昭和二十年八月十五日、日本の家いえに弔旗がひるがえらなかったのか。
根強い一方、その愛国心はまったくもろかったのだ。一応天皇を中心に全国民的な規模での道徳は成立しているかのように見えていた。だが、弔旗はひるがえらない。国民的規模での道徳は成立していなかった。
にもかかわらず、ぼくの心の表面から、天皇が消え去った時、ぼくは生き方を失った。敗戦とはぼくにとって、根本的モラルの消滅であった。
のち、昭和二十六年、早稲田にはいり、早大童話会に入会するまでの数年間の記憶はわずかの例外をのぞいてはほとんど失われてしまっている。いやなことはわすれたいという心のはたらきか。
ぼくに必要なのは新しいモラルであった。それを求めていく経過をとりあえず省略すれば、今日もいうまでもなく、全国的な規模、質での道徳は成立していない、もしも、それがあるなら、三池・鶴見の事故に弔旗は風に鳴った。
ここには戦前と戦後の癒着がある。十八年の時間は弔旗の非存在という点で凝縮される。「フォードのつくるいちばん大きな、りっぱな自動車」に乗る異邦人をいたむ心――これは天皇の前にひれふす心とどうちがうのか。権威に追従するとき、涙はとめどもないのだ。
そして、さかだちがある。滅私奉公が生きているようだ。身ぢかなものをすっとばして、権威と直接むすびつく考え方が、ケネディをいたむ主婦の心の中にはかくされている。
亭主は交通戦争のさなか、いきを切らして、いつてんぷくするかもしれない満員電車に乗っているというのに、ばかでかい自動車に乗った外国人の死に涙をとどめることはできないという妻――ぼくは彼女がぼくの妻でなかったことに感謝した。
そこで身ぢかな事例を一つあげれば、西武線椎名駅の便所に標語がかかげられている。「手を洗うのは文化人のエチケット」という標語。
この標語を見るたび、ぼくは手を洗う気がしなくなる。おれは文化人じゃないぞという気持ち(これはぼくの劣等感のあらわれかもしれない)があり、それより大きいのはエチケットで手を洗うバカはいない、衛生のためではないかという、腹立ちのためだ。末梢神経的だといわれてもしかたがない。このばかげた標語にもさかだち現象があるのだ。
文化や民主主義やエチケットが天皇のかわりに戦後登場した。天皇が観念的であったと同様に、文化国家もまた観念的である。その観念に奉仕する便所の標語にぼくはやりきれない。
さて、はじめにあげた風景のうち、第一の風景をよびおこした動機は天皇であり、第二の風景は第一の風景の連鎖反応として存在する。愛国心教育が不徹底であったため、異邦人のために涙を流す結果が生まれる。愛国心が養われていなかったもろさと、天皇信仰の強さが癒着しているのである。
けじめ
八月十五日に弔旗を仮定することは、戦前と戦後のけじめをつけたいからである。ずるずるべったりの戦後、のっぺらぼうの時間が続いている現在、けじめは必要である。
正月、新婚早々の夫婦が大みそかから三日間、社長の家に手伝いに行った。夫の義理の弟は工場長だ。その弟が義理の兄におこった。「おれが社長のうちに年始に行ったら、義理の兄夫婦が台所でおぜん出して飯くっている。頭にきたよ、おれは。第一あんたたち、なこうどのところにあいさつに行っていないし、結婚のときせわになったところ、どこへも行ってないじゃないか。親のところへも行かなきゃならぬと、社長にことわらないんだ。え、正月ってのはけじめをつけるもんだよ。」
もと大工の工場長がいっている、このけじめは二つの意味がふくまれている。一つは正月という、時のけじめであり、一つは物事のけじめである。時のけじめと物事のけじめは、けじめということの二つの面である。
けじめをつけるとき、癒着作用はおこらない。鬼畜米英の一軍人が慈父のようなマッカーサー元帥にかわり、アメリカ大統領が世界平和の指揮者に急変していくのは、八月十五日にけいじめをつけなかったせいである。
ここで、ぼくはドーデーの「最後の授業」を思い出す。この作品にははっきりとしたけじめがある。村人たちも参加するフランス語の最後の授業が、それ以前とそれ以後にはっきりと一線を引くのである。
けじめを一線を画するものとして考えるとき、この作品にはもう一つのけじめがある。それは対占領軍への意識である。
「突然教会の時計が十二時を打ち、続いてアンジェリュスの鐘が鳴った。と同時に、調練から帰るプロシャ兵のしけ喇叭が私たちのいる窓の下で鳴り響いた。……アメル先生は蒼い顔をして教壇に立ちあがった。是程先生が大きく見えたことはなかった。『皆さん』と彼はいった。『皆さん、私は……私は……。』しかし何かが彼の息を詰まらせた。彼は言葉をつづけることができなかった。」
アメル先生はありったけの力で黒板に「フランスばんざい」と書くのだが、ここに出てくるプロシャ兵はアメルとはあいいれないどころか、理解しがたい異様な悪魔のようなものだ。
この小説のはじまりのところでは「森の中ではつぐみが鳴き、リベールの原からはプロシャ兵の調練の足音がきこえてくる」とあって、プロシャ兵は森のつぐみとおなじ自然現象として出てくる。主人公の「私」の意識はこの自然物を決定的な対立物、異質のものとして認識するまでに発展するのだが、これも一種のけじめである。
「最後の授業」は愛国心を説くとき、右も左もとりあげる作品だが、ぼくはこのプロシャ兵の存在にふれた教材研究にぶつかったためしがない。対プロシャ兵への意識は排他的といってもいいが、相手を異質のものとして認識しないかぎりは、愛国心も、さらには国際理解もあったものではない。
独断的にいえば、ぼくはいま、全国民的な規模、質での道徳は建設過程にあると思っているが、その中心となる愛国心はオリンピックなどでは養われるものではない。それよりいまぞくぞくと翻訳されている外国児童文学作品や、小・中学校の国語教科書にのっている外国物を、その文体、構成から、日本とは異質のものであることを教える教育の方がはるかにたいせつだと思う。読解主義や、生き方がどうこうという文学教育的扱いでながされてしまっては、愛国心の教育はできない。
原型
ね、きみ、童話とは
原理だよ。
(ある児童文学者の発言より)
敗戦ののち、かつぎやめいたことをやっていたときがある。姉がふとん袋をこわしてつくってくれたリュックに米をつめ、汽車に乗る。あみだなの上に寝、窓から小便をした。
その中でぼくはときどき人の心を知りたいと思った。ただ自分の存在ということだけで人は満足しているのか、それとも……。
外がわが修羅のちまた。その人間の内がわはどうなっているのか。天皇という原理はあっけなく消えた。ぼくの心の中にはぽかんと大きな穴があいている。他人の心には空洞はないのか。
ぼくには天皇にかわる原理が必要であった。人間の教育(自己教育もふくめて)には二つの方法がないまぜにされている。一つはかつて人間がきずきあげたものを抽象化によって伝達、獲得していくことであり、一つは身ぢかな具体的な事物に即して学びとっていくことである。
戦前の教育は大ざっぱにいって、前者の方法によっていた。道徳――生き方の面にかぎっていえば、かつてきずきあげたものとして(ほんとうはそうではないにしろ)天皇が提示され、あらゆる生き方はその天皇のもとに統合される。
そして、国民的な規模、質での道徳が成立しているということは、遺産を抽象によってとらえる方法と、身ぢかなものから学びとっていく方法とが統一されていることである。
天皇が道徳の統合体になっている際、いうまでもなく、二つの方法があいおぎなって、その内容が発展していくことは望めない。一方通行で修身教育が行なわれる。
それに対する庶民の抵抗は身ぢかなものしか受けつけないということであった。ほんねとたてまえが分離されるのである。
だがその際、たてまえどおりに生きようとしたものはどうなるのか。少年時代、先生にしかられて、いのこり、教室の床にすわらされたことがある。先生は職員室、すわらされた連中はさわいでいる。そのとき、彼らがいっていたことから、ぼくは異様な印象を受けた。そのことばをそのまま思いだすことはできないが、「親の意見と鉄砲玉、頭をさげてやりすごせ」みたいなことであった。彼らには反省の気持ちは何もない。
しかられたそのことが不当であるという意見も出ない。彼らはただ受け持ちの先生のことをうわさし、女の先生をからかうようなことばをだして、さわいでいるにすぎない。もっとも受け持ちの先生、つまりぼくたちをすわらせた先生に対して親愛の情はあったのか、直接的な悪口は一つも出なかった。
ところが、夕方近く、先生があらわれると、一瞬しんとなり、ひとりひとり先生のまえに出ていっては、シュンとした顔で「悪うございました」という。その帰り道、いっしょに帰る友だちがまたいった。「先生ちゅうもんはああいうもんよ。」
ぼくはあっけにとられた。何が彼らの本心なのか、ぼくにはわからない。もしも自分が悪くないのなら、先生に対して自分は悪くないということをどうどうと主張するのが、ぼくたちの受けた修身教育であったはずだ。
修身をがんとして受けつけない不死身の連中がいたわけだ。だからといって、彼らのやったことが正しいといえるのか。柳に雪折れなく、修身教育を頭をさげてやりすごす生き方を、抵抗としてみとめることができるのかどうか。
ぼくはおなじ車輌内にのりあわせている、ヤミ屋連中の頭を見ながら、その少年時代のことを思い出していた。天皇をまともに受けとめたから、ぼくの心には空洞がある。頭をさげてやりすごした連中のなかには、もともと空洞の生まれる余地はなかったのではないかと。ぼくは彼らがうらやましかった。
しかし、他人はどうあれ、ぼく自身には原理がいる。体系がいる。そのような教育でぼくは教育されてきたのだ。
戦後、いくつかの指導原理が示された。民主主義、平和、文化国家など。ぼくはその中で平和をえらぶようになる。平和は戦争と対立する概念であり、ぼくは戦争によって生き方を失うという被害を受けたからだ。さらに、その上に積み重ねられたもろもろの害……。
ぼくの弟のひとりの足はまがっている。がにまたみたいなものか。母親はなげく。「赤ちゃんのとき、おむつの大きいのをあてると、そうなることがあるのよ。そうさせまいと思うて、めんどうなのにわざわざ細いおむつをしてやったのに、飛行場の動員で重いもっこをかつがされて、ああなった。あの子の肩がひしゃげとるのもそのせいじゃ。」
飛行場建設で中学一年生のときから何年か土運びをやり、戦後新制高校生になっては、水石けんの箱をかついで、ヤミ列車に乗り、故郷愛媛から岡山の山奥まで売りに行った弟。この程度のことは、全国ざらにある話ではある。
ただそれが肉親となってみれば、受け取り方がちがう。母親のなげきと、その弟のことを思うだけで、ぼくは憤怒にかられる。さけびたい。
だれが、なぜ戦争をおこしたのか!
だが、原理としての平和とこの感情を結び、体系づけるものはどこにもない。あったかもしれぬが、ぼくは無知であった。そして、早大童話会にはいったころ、ぼくはシャカの伝記に出てくるマハーナマという人物に心をひかれた。
シャカ族が滅亡する。ほろぼすのはコーサラ王ピルーダカ。その父ハシノク王はシャカ族と縁組したいと思い、シャカ族はハシノク王の身分が低いとして、大臣マハーナマがドレイ女に生ませた女をやった。そのあいだに生まれたビルーダカはシャカの都カピラ城に留学し、ある日、公民館の落成の日に、中にはいろうとしてシャカ族の子どもたちにさえぎられる。ドレイ女の子ははいるなというわけだ。
事情を知ったビルーダカは国に帰り、そのはずかしめを忘れないため、日に三度、そのはずかしめの言葉をかなでさせる。そのうち、父を追って王位についたビルーダカはカピラにむかって進軍した。
とちゅう、シャカがあらわれてとめること三度、四度めにはシャカもとめず、コーサラの大軍はカピラ城を包囲する。シャカ族はシャカの教えを守り、人を殺そうとしない。城門をかたく閉じて守るのだが、たまたま敵王ビルーダカが門の近くで指揮しているのを見て、シャカ族の一少年シャマが武器をもって外に出、ビルーダカを殺そうとする。ビルーダカはあやうくのがれ、城に帰ったシャマは一族のおきてを破ったということで追放される。
やがて城は落ち、ビルーダカはシャカ族を殺しはじめる。彼の祖父にあたるマハーナマはビルーダカの前に出、願いを一つききとどけてくれとたのむ。その願いは、いまから自分が目の前の池にもぐるから、そのあいだだけは人を殺すのはやめてほしいということである。ビルーダカはその願いをゆるし、マハーナマは池にもぐる。だが、いつまでたってもうかびあがらない。ふしぎに思ったビルーダカが部下を池にもぐらせてみると、マハーナマは池につきだした木の根に自分の髪を結びつけて死んでいた。
ぼくはこの物語を書きたいと思った。マハーナマという人間に理想のかたちを托したい。おそらく平和の末端は非暴力、無抵抗のかたちとしてあらわれるべきだと、ぼくは思った。ガンジーの思想はじつは二千年昔のマハーナマの伝統をついでいるものではないかと思った。
しかし、シャマを否定することもできない。民族の独立をおびやかす者に対して、彼は剣をとったのだ。ビルーダカ――彼の執念はすさまじい。鬼畜米英の指導者が平和の勇士に転化する現在、この執念と憎悪は美徳でさえある。
以上の考えはかならずしもその第一稿を書いたときの考えではない。昭和二十六年に一度それを書き、三十年ころか、それを書きあらためようとして未完のままになっているこの少年小説についての考えが、しだいにふくらんでいった結果のものである。
その経過はさておき、平和と、民族独立の相関関係はぼくにはまだつかめない。二つの対立する指導原理を提出するよりほかないのか。ここでフィクション、両者を統合した第三の人物を創造しながら考えることが必要になってくるのだが、このシャカ族滅亡の話を軸にして児童文学にしがみついている間に、自分がなぜ児童文学にはいりこんでいったのか、その動機がいくらかわかってきたような気がしてきた。
児童文学とは原理そのものなのである。人間が足で立ち、手を動かしはじめて以来のものが、ここには集約される。人間は友情をここまで発展させ、美しさを愛する心をここまで深めてきた。それを自分がつかみ、子どもに伝達するのが児童文学だ。さらにそれが具体的な人間、事物についていわれるために、新しい発展がそれにともなう。とすれば、児童文学の中にある原理は、天皇のように静的な原理ではなく、人間の精神と行動の原型なのだ。
ひとくちにいえば、ぼくは原理を求めて、原理をとらえ、表現する児童文学にはいりこんだということになる。そして、原型の主体がいうまでもなく人間であることを考えれば、最高の原理は人間なのだ。
だが、人間ということばもまたあまりにも、漠然としている。人間のもっとも原型的な行動である労働を原理にもってきたところで、漠然としていることにはかわりはない。こうした立場からは、確立された児童観を持つ西欧的な児童文学は生まれない。良識あるおとながすでに自分が獲得したものを子どもに伝授する教養的なもの、教育的なものともぼくは無縁である。ぼくは混乱の中でいくつかの生き方を模索するにとどまる。
金・企業
あのね、アサヒ幼稚園を出たら、
小学校ではばきくんだよ。
(ある幼稚園の入園テストを受けた四歳児)
一流高校にはいって、一流の大学を出て、大企業に就職して、課長になって、
おとうさんとおかあさんにらくさせてあげたいと思います。(中学二年生)
田村泰次郎の『肉体の門』が発表されたのは昭和二十二年のことであった。欲望の解放は戦後の一時期の特徴である。
やがて、その欲望は物質的欲望にだけすりかえられていく。消費への欲望が高まる。人間の原理は金になっていく。そしてその一方にある冨の偏在――。
宝さがしは児童文学のかわらないテーマの一つだが、ここにはつねに未知のものに対する強烈な好奇心と、冒険が同居する。
だが、ある父母たち、その子たちのあいだでは既知のコースが予定される。「日本は資本主義の国だから」という前提で彼等は行動する。このコースでは他の人間的欲望は圧殺される。
ここでは、たとえば幼児のしつけも金という原理に従属するものとして、あつかわれはじめてきた。敗戦直後、親たちは幼児教育にかまうひまもなかったし、その後には一種のとまどいがあった。少し大きい子のことだが、きょうだいげんかで親がいうきまりもんくの一つに「暴力はいけません」というのがあった。親と幼児の関係も、平和→非暴力→話しあいという路線の上にのっていた。暴力に対するなんとないうしろめたさ、そして何よりもしつけが従属する高次の原理がはっきりしていないことが、親をとまどわせる。
このとまどいの時代を経て、今日ではしつけは金という原理に従属するものとしてあつかわれはじめてきた。
飯の前に手を洗う、この生活習慣のあるなしは有名な幼稚園にはいれるかどうかを決定する一つの要素になりかねない。幼稚園から一流大学、大企業に至るコースの中にしつけは組みこまれはじめた。かつての天皇にかわり、金を最高の原理とする体系がきずかれつつある。あるいは天皇のかげにかくれていたものが全面に出てきはじめた。
この体系はぼくの予想する体系と衝突する。ぼくにとっては原理は人間であるからだ。金は人間に従属するべきである。
金は個人の原理であり、企業では資本となる。いまどこから悪書追放のかけ声がかかっているが、これは言論統制への意味だけではなく、企業――資本の原理がはたらいているようにぼくは思う。
昭和十三年、内務省は「児童読物改善ニ関スル指示要綱」を出した。このことについては管忠道は次のようにいっている。「これに先だって低俗なマンガ、講談本三冊を発売禁止処分に付し、悪質なものには断固たる態度で臨むことが示された。(中略)結果からみれば極めてはっきりしていることが、戦争遂行のための国策に照らして、頽廃文化は国民の士気にも関係するし、労働力・軍事力の保全にも影響するので、度はずれのものを抑制し、その統制ぶりには文化的よそおいをつけた。」(「日本の児童文学)」
国民の士気・労働力の保全――これと同様の論理が今日もまたくりかえされようとしているのではないか。東京都では内務省と同様に青少年の読み物についての都条例をつくろうとしている。
かつてほとんどマンガでうずめられていた、少年週刊誌のなかにも読み物ページをふやそうとする動きが出てきている。マンガしかおもしろがらないような、学力の低い連中は今日の労働力にはならないし、また子どもの心に金を原理とする道徳を教えこむにも、マンガだけではどうにもならないからであろう。現在でも少年戦記物の中心はマンガにはなく読み物の方にある。
企業への忠誠・従順、企業を発展させる行動力が要求される。産業スパイ小説の一つのタイプは大企業に対するスーパーマンの孤独な挑戦だが、もう一つのタイプは企業どうしの争いである。そこではもう表面的な正義・善悪はかなぐりすてられる。企業に対する盲目的忠誠が登場人物の最高の原理となる。
一方、金、企業の原理に対する人間の原理が国民的な規模・質ではどう進行しているのか、それについて報告する材料をぼくは十分には持ち合わせていない。
ただ、たとえば京都のある中学生たちは高校全入運動のことを知って、自分たちも著名を集め、全入運動の中学生部会をつくった。
彼らはある子ども会にはいっていた。十年近く前、その子ども会のひとりの家の電灯がとめられた。その家は小さい工場の二階に住んでいて立ちのきをせまられたが、行き先がない。会社はいやがらせに電気をとめたのである。二十人ばかりの子どもたちが抗議に行った。工場長はおとなと話そうといったが、子どもたちは聞きいれない。そのうち工員たちがのぞきにきて笑った。
「工場長が子どもにつるしあげられてら。」この伝統は全入運動にいまで受けつがれていたのである。芽生えは全国各地にある。その芽生えをどう育てるか。
さて、ぼくはシャカ族滅亡の物語のさいごを次のように書こうと思っている。マハーナマは死んだ。カピラを征服したビルーダカは野外で七日七夜続く祝宴をはる。その七日め、雷雨にまぎれてカピラから追放されていた少年シャマがなかまたちといっしょにビルーダカをおそう。乱戦、ビルーダカもシャマも雷にうたれて死ぬ。ふたたび弔旗。この物語で生きのこるのはお経にあらわれない人物だけだ。
ぼくは思う。いつか日本列島の太平洋岸からえんえんと瀬戸内・北九州につらなる工場地帯にいっせいに弔旗がひるがえることを。その日、人間の原理が勝利をしめるのだろうか。(人間の科学・一九六四・三月)
テキストファイル化大塚菜生