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子どもらしさとか、子どもっぽさなどというのは、何時頃から一般化した言葉なのだろう。柄谷行人が言うように、近代になって「風景」や「内面」が見出されたのと同様に、「児童」が発見されてからなのだろうか。 他の哺乳類と違って、著しく自立年齢の遅い人間の場合、「家族」という、子どもにとっての養育装置が整っている限り、子どもは子どもらしさや子どもっぽさを装ってさえいれば、とりあえずの安全性は確保できた。そしてこの社会もまた、子どもたちに子どもらしさや子どもっぽさを過剰に要求してきたのだ。 大人は、誰もがかつて子どもだったのだけれども、自分が何時まで子どもだったのかなんて、まったく判っちゃいないし考えもしない。法律的には二十歳になれば成人ということにはなるけれども、自分にとっての子どもの時代というのは、何時頃のことをさすのか、それは曖昧で各人各様だ。家庭環境や社会環境によって、子ども時代と言うのはどのようにでも変わってくるのだから、そこには客観性なんてものはないに等しい。社会が成熟すればするほど、自立年齢が遅くなって実質的な子ども時代は伸びるが、反対に情報環境は大人と子どもとの境界をますます低年齢化し曖昧化していく。その一方で、発展途上国では、いまだにそんなにのんびりと子ども時代をおくることはできず、早くして大人とみなされるが、そこにも個人差はある。「子ども時代」とか「子どもの時間」というのは、時代や環境によって変わってくるとともに、客観的に確定することが難しい極めて主観的で個人的な時間概念なのではないかとも思えてくる。そして今日では、「子ども」という概念そのものもまた、ゆらぎ始めている。にもかかわらず、子どもは相変わらず客観性を装った「子どもという制度」にがんじがらめにされ、それに苛立っているのだ。 岩瀬成子の作品世界は、そんな時代の子どもたちの感性を鋭角的にとらえ、大人たちが作り上げている「見えない制度」に対して、その登場人物たちを果敢に立ち向かわせる。そしてそれは、作家自身の闘いともなるのだ。 彼女の作品には、物分かりのいい大人(親)も信頼できる大人(親)も、ほとんど登場しない。大人(親)たちも子ども以上に悩み、そして迷っている。だから、保護者としての大人(親)、被保護者としての子どもという関係は成立しない。むしろそういった構図をあらかじめ壊したところから出発している。それは多くの児童文学作品が、潜在的に忍び込ませている枠組みに対する挑戦でもあり、彼女の登場人物たちの「見えない制度」に対する闘いを、ますます自立的なものにいろどってみせているのだ。 デビュー作となった『朝はだんだん見えてくる』(1977年、理論社)は、高校受験を控えた中学三年生の少女奈々が、オートバイの後ろに乗って爆走する衝撃的な場面から始まる。 「ちっぽけな飾りたてた箱の中に、ちんまりとおさまってしまう車なんて、おいぼれた大人の乗るもんだわ」と奈々は思う。「おいぼれた大人」とは、なんと挑発的な物言いなんだろう。最初から、「大人」との間に大きな隔壁が立ちはだかっているように、強烈に印象づけられる。 奈々は友達とフェイ・ダナウェイが平凡な女を演じた映画を見る。 奈々は、平凡な女なんか嫌いだと思った。夫のことと、子供のことと、おしゃ れのことが、彼女の世界の全部だ。それに不安、不信、孤独。 それでも次第にスクリーンの世界に引き込まれ、憂鬱な女の愛のすれ違いに苦しみ始める。女は充分に苦しんだあげく、男のもとにもどってハッピーエンド。 場内は明るくなった。奈々は急に、たたき起こされたような逆戻りのショックを感じた。だまされたみたいだわ。あれが男と女の世界だというのかしら。 観客のだれもが、それでホッとしているのだと思うと、奈々はさらに苛立つ。次の映画は、戦争に行った男が負傷し、両手両足を切断されて意識だけで帰還するという、ぞっとするほど残酷な作品だった。基地の町の、ベトナムに駆り出されたアメリカ兵たちが一緒に見ていることを考えると、彼らの複雑な苦しみに触れているようで、奈々はピリピリしていた。ところが、映画が終わって場内が明るくなると、アメリカ兵たちは奈々の心配などと関係なしに、陽気にお喋りしながら席をたっていく。奈々は、すべて何事も無かったかのように、すっぽりと日常性の中に収まっていってしまう現実にイライラする。自分の周囲が、見知らぬ街に変わっていくような気がする。 奈々は孤立無援だったし、一方では奈々は誰をも拒否していた。人びとも、環境も、そして自分自身を、いちばん軽蔑していた。あたしは、どこに行くんだろう。何をするんだろう。 本当のこと、ホントノコトって何だ。あたしが他の人じゃなくて、他の人のまねじゃなくて、あたしが本当にあたしの意志で――。あたしは何がしたいんだろう。何ができるんだろう。あたしの意志、自由……ああ、こんなことって。ばかな。なんで生まれてきたんだ。こんなことって、こんなことって。 自分が、他の何者でもない自分として生きることとはどういうことなのか?この問い掛けは、以後の岩瀬成子の作品全体に共通する問題意識でもある。「子どもという人生」の中で、「子どもという迷路」の中で、自分探しのドラマが展開する。そしてそれは、大人たちが思い描く、子どもらしさや子どもっぽさに安住するのではなく、むしろそれを拒否したところから始まる。 こどもが昼間っからテレビ番組を見てるなんて不健康よ。ママが留守のとき毎日こんなことしてるの。ママがこどもの頃なんてねぇ。毎日のように外で遊んだものよ。ドッヂボールしたり缶蹴りしたり。 こどもっていうのはエネルギッシュであってほしいわけよ。こっちが見てて、こどもってすごいなぁなんて圧倒されるくらいであってほしいの。夕飯のカレーライスは三杯くらいおかわりして、途中でがくっと眠ってしまうようなね、野生味っていうか力いっぱいっていうか、そういう原始的なパワーを持ってもらいたいわけよ。疲れたサラリーマンがやるようなことはしてもらいたくないなぁ。 五年生の少女がまさに「子どもという迷路」を彷徨う、『あたしをさがして』(1987年、理論社)の中で、ママがあたしに言う台詞だ。何時でも何処でも聞かされる、じつに一般的な子ども観で、思わず笑ってしまうが、笑ってばかりはいられないのが現状でもある。こういった子ども像を、そのままなぞったような一見健康的でのどかな児童文学作品が、現実にはたくさん横行しているからだ。 しかし作品の「あたし」は、大人って身勝手だと反発する。しょっちゅうカレーライス三杯なんて食べられる訳がない。缶蹴りだのドッヂボールだのって言ったって、そんなに子どもが集まるはずがないし、ボールを使う遊びは道路に飛び出す危険性があるから、遊べる場所は限られている。一方で奨励しておいて、その一方で禁止したりするのは、大人の常套手段なのだ。そういった大人の論理の 欺瞞性を、子どもたちは鋭敏に感じとり反発する。 同じ作品の中で、作者は大胆にも「こどもがこどもっぽいなんて最低よ」と、登場人物に語らせているけれども、それは単なる言葉の弾みで飛び出したものではない。その証拠に、ママと一緒に危篤の祖母の家に向かう、鮨詰めの新幹線の中で、「あたし」が吐き気を催してママに助けを求めたときの、「あたし」の言葉を見るといい。 あたしは恥しさで目がくらみそうだった。ママったらあたしを何歳だと思ってるんだろう。一つや二つの赤ん坊とまちがえてるんじゃないの。五年生のあたしがどうやったら人中でおしっこなんかもらせるっていうの。なに考えてるんだろう。こどもが人混みで泣き声をあげたら、それはおしっこがしたいときだと勝手にきめつけるなんてひどい暴力だと思った。しかもそんないいかげんなこどものイメージに、こともあろうに自分のこどもを押しつけるなんて。一般的にこどもがすると思われていることならうちの子だってしかねない、そう考えているのね。自分のこどもを見捨てているんだ。 岩瀬成子の登場人物たちは、一般的な子どものイメージの中に括られるなんて我慢ならない。吐き気がするくらいにたまらないのだ。だから、『朝はだんだん見えてくる』の奈々と同様に孤立無援で、孤独で、周囲の子どもたちとも隔絶感を抱いている。 『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(1991年、PHP研究所)の主人公の「るい」もまた周囲と隔絶し、クラスの誰とも口をきかないような女の子だ。「いまはここでこうして翼を休めて、子どものふりをしてすわっているけれど、いつかはどこかへ帰っていかなきゃならない」という思いにとらえられ、口をきかないことにすっかり慣れてしまって、その方が自然だし、いまさら学校で話しはじめるには、とてつもないエネルギーが必要だと思っている。なにしろ「子どものふり」をしていると言うくらいだから、本質的に子どもであることを拒否している。 最近作の『ステゴザウルス』(1994年、マガジンハウス)の中でも、主人公の高校生が小学四年生の頃のことを思い出し、「無理にでも相手を子どもという枠の中に押し込めて、それでその子の喋っていることなど、本気で相手にはしていない」母親の態度に、不快感をあらわにする。 岩瀬成子の作品世界は、その出発点から、一般的にとらえられている子どものイメージや、現代社会が疑う余地もなく自明なものとしてとらえている子ども観を、子どもの眼を通して解体し、そこから子ども自身による子どもの自立を目指しているように思われる。近代が育んできた、「子ども」という保護養育装置の総体に対する疑問と解体が、鮮烈な自己主張となって作品世界を際立たせているのだ。 『朝はだんだん見えてくる』の主人公の少女奈々は、中学三年生だというのにタバコを吸うし、ビールを飲んで泥酔し深夜に帰宅したりもする。だからどうなんだ、とでも言うかのように、挑発的に親や教師の日常感覚を逆撫でする。「子ども」を、あくまで「子ども」という制度の中に囲い込むことによって、安心を決め込む大人の世界に苛立ち、それに反抗する。しかし作者は、奈々が出会った高校中退の少女レイに、こう語らせている。 ああ世の中ってやつは、世間ってやつは、いつだって憎らしいほど、正々堂々と立ってるわ。厳然と、まるで絶対に崩れない城壁のように。何があったって、揺れもしないで 自分自身を信仰して、そいつで何もかもをロード・ローラーで押しつぶすみたいに押えこんで、押し花にしなくちゃ気がすまないものらしわ。そいで、風化させて枯らしてしまうのよ。奈々ちゃんが反抗したってダメよ。相手はもっと強くて大きいんだもの。枯れないように生命をつなげていかなきゃあ、さ そうなんだ。闘う相手は強くて大きい。なにしろ、近代が構築してきた制度そのものが相手なんだから、枯れないように「生命をつなげて」いかなくてはならない。それが、岩瀬成子の戦略なんだ。作者はレイに、こうも言わせる。 奈々が頑張りすぎて、しわしわのオバアサンになったら困るってことなのよ…… ギリギリのところで頑張るなんて、つかれるだけよ ただ無闇に「頑張る」のもまた、近代が作り上げた成長神話と勝利の物語の轍にはまることでもある。そういったひたむきさをも拒否して、自然体で立ち向かう。だから岩瀬成子の登場人物たちは、孤立し、言葉を失い、嫌悪し、たびたび嘔吐感にさいなまされる。そしてまた、ときとして凶暴な怒りを爆発させる。 奈々は、人生なんてワナなんだと思う。一度入ったら抜けられないビックリハウスの迷路みたいに、抜けることのできないワナなんだとおもう。 奈々は世界じゅうの、ありとあらゆる人を憎んだ。みんな、みんな死んでしまえ!そして、だぁれもあたしにNO!を言うな! 自分がこの世界から断絶し、隔絶されているかのような奈々の疎外感と激しい憎悪は、一種の凶暴さともなって他の作品の登場人物に重なっていく。 雄の中で煮えたぎりつづけてきた、世界じゅうの人間にむけてライフルをぶっぱなしてやるという孤独に裏打ちされた荒々しい敵意は、いまでは燃えあがる炎にむけて吐きだされつづけている水のように無力で、つぎつぎに闇に吸い取られていくようだった。オレは裏切られつづけ、裏切りつづけて、もうなにひとつ憎むこともできやしないだろう。オレは、落とし穴の中で、その小さな力さえも投げだしてしまうんだ(『小さな獣たちの冬』1980年、小学館) なぜ、いきなり父を殴ったのか、自分でもよくわからなかった。手の甲には殴った感じがまだ生々しく残っていて、ときどき、もう一方の手でその甲を撫でていた。正当な怒りとか、そういうものじゃなくて、わけのわからない凶暴な自分が自分の中にいて、わああと大声を上げるみたいに突進していくのを止められなかったのだ(『ステゴザウルス』) 岩瀬成子は、子ども存在そのものを嫌悪しているわけではない。「子どもらしさ」という、大人の社会が作り上げた幻想性に抗い、「子どもという制度」とか「子どもという観念」が覆い隠している人間性を探り出そうとしているのだ。成熟とともに失われ、鈍化していく感受性を研ぎ澄ませて、子どもの感受力を蘇らせることによって自らの現在を透視してみせる、そのための媒体として子どもをとらえる。時代に対する感受力を、「子どもの時間」に分け入ることによって獲得しようとするとき、世界は醜く歪んで見える。大人の日常性との間に、奇妙なズレが見えてくる。それが生理的な嘔吐感となって拡がる。 葉子は、窓ガラスにはりついている小さいやもりが、足をしのばせて蛾に近づいていくのを見ていた。やもりは、しっぽをびくんとふるわせたかと思うと、蛾にとびかかり、同時に、がんじょうなあごで、しっかりと蛾をくわえこんだ。 急に葉子は胸がむかつき、吐きそうになってトイレに駆け込んだ。 だが、胃袋からはなにひとつ、出てきやしなかった。かわりに石ころみたいな 涙がひとつぶ、便器の中にこぼれおちた。 ママは、食あたりかしら、としきりに心配し、葉子の背中をさすりつづけた。 葉子は、とてもみじめな気持ちだった。生っちろい、やもりのお腹が大きくふくらむのを見ていて気持ちわるくなったのだか、便器に上体をかがめているうちに、何百頭もの野良犬たちがいっぺんに走り去っていくような気がしてきたのだ。(『小さな獣たちの冬』) なかなか凄味のあるイメージだ。 『額の中の街』(1984年、理論社)は、基地にいたアメリカ人の父と日本人の母の間に生まれた、十四歳の少女尚子が主人公だ。尚子は、幼い頃アメリカで暮らしていたが、両親が離婚して母と二人でまた基地の街に戻る。次々と変わる母の男友だち。麻薬、セックス、売春、妊娠、堕胎と、それまで子どもの本ではタブー視されていたことが、平然と語られる。尚子もまた、少年顔の米兵と安ホテルでベットに横たわるという、十年前の子どもの本としては、考えられないくら いに衝撃的な場面もある。しかしぼくは、そこで描かれる世界の衝撃性はともかく、つぎのような描写とイメージの転換に感動した。 顎の先に痛みがある。手鏡を取り出し、明りの前で顔を近づけると、膿をもった小さな吹出物が尖っていた。触るとわずかに熱を帯びている。皮膚を内側から突き上げている、小さな怒りの芽を尚子は指先で潰した。少量の白っぽい膿に混じって、糸屑のような紅い血が滲んだ。それを指の腹で拭うと、あとに間の抜けた針先ほどの穴があいた。膿や血液やあらゆる体の内側から滲み出してくる体液は、体いっぱいに詰まっている臓器のことを思い出させて、いつも尚子を気持悪がらせた。尚子には、どんな臓器も生命とは関係なく、ただ体内の空洞を埋めるためだけに詰めこまれている汚物のように思え、しかも互いに細いミミズのような血管で結ばれ、生暖かくぶよぶよと休まず働きつづけているのかと思えば、ビニールホースを口から突っ込み、さっぱりと洗い流したい衝動にかられた。そして逆に、それらなしには生命というものが維持できないのだと考え直すと、押せば青い汁を出す青虫のほうが、どれだけ清い体をもっていることだろうと、ますます自分の体を呪いたくなった。 誰もが体験する、ごくありふれた微細な日常の一場面をクローズアップすることにより、拡大された顔の皮膚の小さな穴を通して、醜悪な人間の体内全体を浮かび上がらせる、この鋭敏な感受力とイメージ喚起力には、じつに驚いてしまう。「膿をもった小さな怒りの芽」というのは、現代における子ども存在そのものなのではないか。そう考えると、その後に続く描写は、現代社会そのものをイメージしているようにも見えてくる。だからビニールホースを口から突っ込んで、きれいさっぱりと洗い流したい衝動にかられるのだ。 絶滅する動物も植物も、みんなきれいなんだと谷川くんは言う。 海がダメになり、土地がダメになり、きたない雨がふり、空もよごれて、空気にも毒がまじり、悪い病気がはやって、やがて人間はメツボウしていくというのです。ほんとうでしょうか。わたしはその話をきくと、自分がメツボウしていく最後の恐竜になった気がします と、『ステゴザウルス』の主人公の妹青子は、姉に当てた手紙に書いてくる。 青子は、村の子どもたちからステゴザウルスと呼ばれる山村留学の子どもたちを伴って、人里離れた山奥で集団生活を始めた。そしてステゴザウルスの家から姉に宛てた手紙に、 わたしはいつかここから出ていく日がくると信じています。そのときは、あのステゴザウルスのように大きくてかたい背中をもち、そしてやさしい目をもっているでしょうか。その自分の姿をそうぞうすると、やっぱりうれしくなってしまいます。 と書く。姉の「わたし」は、妹たちのいるステゴザウルスの家をたずねようと思う。ステゴザウルスの家に辿り着けば、ひりひりした気持ちが癒されると思う。ステゴザウルスのように、優しさと強さにみちた姿に変わっていくような気がする。 それまで寡作だった岩瀬成子は、90年代に入って、『アイスクリーム・ドリーム』(1991年、理論社)『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』、『もうちょっとだけ子どもでいよう』、『子どもたちの森』(1993年、あかね書房)と、比較的コンスタントに作品を発表し始める。そして最新作の『ステゴザウルス』では、十七歳の主人公のわたしが、小学生の妹の企みに追随することによって、自らの欠落感を埋め、自らの気持ちを癒そうとする。青子に象徴されるような「子どもという制度」にとらわれない、それとの闘いに消耗することさえ知らない、行動的で強靱な子どもたちの独自な世界を提示して、奈々や尚子とは違った新しい個性を発見したのではないか。といっても、作者自身が超脱した高みから理念を語るのではない。渾身の力をふりしぼって、苦しい闘いを戦い続けながら、方向性を見い出そうとしているように見える。そして、手垢にまみれたイデオロギーや通俗的なメッセージを突き抜けた、それらとは全く異質で強靱な、彼女に固有なイメージ喚起力が、『ステゴザウルス』の彼方に何を構築して見せるかを想像すると、ワクワクしてくる。薄明の海に、朝は確かに見えてきたようだ。 ●岩瀬成子単行本リスト 77年 1月 『朝はだんだん見えてくる』理論社 79年 9月 『わたしねこ』理論社 80年 6月 『小さな獣たちの冬』小学館 81年11月 『アトリエの馬』学校図書 84年 3月 『額の中の街』理論社 87年 9月 『あたしをさがして』理論社 88年11月 『ポケットのなかの<エーエン>』理論社 89年 6月 『日曜日の手品師』教育画劇 91年 2月 『アイスクリーム・ドリーム』理論社 91年12月 『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』PHP研究所 92年 7月 『もうちょっとだけ子どもでいよう』理論社 93年 6月 『子どもたちの森』あかね書房 94年 3月 『ステゴザウルス』マガジンハウス 日本児童文学1994.09 テキストファイル化塩野裕子 |
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