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岩瀬成子の『「うそじゃないよ」と谷川くんはいった』(1991年)と『もうちょっとだけ子どもでいよう』(1992年)は、ほとんど同時期に刊行されたせいか、作者の数々の作品の中にあって非常に共通点の多い二作である。まず、家庭や学校にうまく適応できない子どもが登場すること、そして、彼ら/彼女らの抱える現実とイメージがしばしば互いに交錯すること――と、ここまでは岩瀬の他の作品とも共通する要素だが、描かれた子どもの不適応に作品としてどう決着をつけるのか、というあたりには、この二作に特有の取り組みが見られると言えるだろう。まず一見して目につくのは、似て非なる二人の子どもを対比するという方法である。 『うそじゃないよ』における二人の子どもとは、主人公である小学五年生の少女るいと彼女のクラスメイトである谷川くん。どちらも深刻な問題を抱えて登場するが、その問題の所在はひどく異なっている。 るいの問題は、家では両親と普通に話ができるのに、学校へ行くとなぜか誰とも言葉を交わせなくなるということだ。当然、彼女はクラスで孤立し、そのことでいじめられてもいる。そういう状況にある娘を心配する両親の気づかいも、彼女にはひたすらうっとうしいだけで、ときにはその苛立ちを爆発させることもある。両親はそんな娘の内面に深く踏み込む勇気を持てないでいるようにも思われる。だが、それでもるいと両親はまずまずうまくいっているし、彼女は誰とも話さない状態ではあっても毎日きちんと学校に通っている。そして、そういう日常が自分にとっての普通であると思い始めている。 一方、谷川くんの抱える問題はもっと具体的なものである。小学生でありながら、保護者なしに幼い妹と二人だけで暮らしているのだ。母親に恋人ができ、その恋人が彼らとの同居を拒んだからで、彼は母親がたまに届けてくれるわずかな金を頼りに、いつかまた親子で暮らせる日が来ることを信じて、安アパートに身をひそめている。もちろん、そういう身の上であることは、クラスメイトにも教師にも、誰にも告げていない。 そんな谷川くんとるいの共通点は、「ここにいるのに、ここじゃないっていう、そういう気持ち」で生きていることだ。望遠鏡で星を観察したり、ビデオで宇宙の映像を見たりすることが好きなるいは、いつも「名前も知らない星のあいだを通りぬけていく」自分をイメージしている。谷川くんは遠い外国の大きな空のした、広い地面の上で動物たちと暮らす自分をイメージしている。ただし、そういう本来あるべき自分の姿をるいが誰にも語らない(語れない)のに対し、谷川くんの方はそのイメージを自分が現実に体験したものとして周囲に語ることで、結果的に自らの境遇を偽ってもいる。 そういう違いはあるが、二人は相手が同類であることを直観的に察知し合い、互いに接近していく。その過程で、るいはやがて彼の現実を知ることになるのだが、彼女はその現実をなかなか認めようとしない。彼女の中の谷川くんは、「星の王子さま」のように長いマフラーを風になびかせ、さっそうと砂漠を走り抜ける谷川くんなのであり、彼女にとって大切なのは、現実ではなくイメージだからである。 一方、谷川くんの方はクラスの誰ともしゃべれないるいの現実を重く受けとめて、彼女が少しでも話せるようにと心をくだき、実際、彼とのかかわりの中でるいの舌は少しずつほぐれていく。けれども、彼女の問題の核心はしゃべれないこと自体にあるのではない。そうではなく、イメージの世界に閉じこもって現実を見ようとしないこと、さらには、現実をなおざりにしていても、それなりにやりすごしてしまえる日常が保証されていることにある、と言えばいいだろうか。だから、彼がるいに対して果たした最大の貢献とは、「ぼくと話せよ」と彼女の発話を促したことではなく、安寧な日常を保証されない者の必然として、現実を直視せざるをえない姿を彼女に見せつけ、そのことによって、結果的に彼女をも一歩現実に引き寄せたことである、とするべきだろう。 やがて彼の母親は恋人とともに行方をくらまし、送金を断たれた彼はついに妹と二人で施設に入る決心をする。こうしてるいは「星の王子さま」である谷川くんと、施設に暮らす谷川くんを自分の中に同居させることをおぼえ、そういう形で現実に一歩近づく。もちろん、それは彼の現実であって、るい自身の現実ではないわけだが、この物語の結末は彼女がやがて自分の現実にも目を向けるようになる日のそう遠くないことを思わせる。少なくとも、ここから先の彼女は以前のようにイメージの世界に閉じこもってばかりはいないだろう。谷川くんと別れたあとの彼女が、いつものようにセットしたビデオに見たものは、「無数の星が闇にうかんでいる」「ぞっとするほどさみしい映像」だったのだから。 さて、『もうちょっとだけ』に登場する二人の子どもは、るいや谷川くんと同じ小学五年の咲と、その姉である中学二年の光。姉妹であり、同じ家に同じ両親とともに暮らしている限りにおいて、二人は同じ現実を共有していると言えるわけだが、その現実に対する二人の認識は必ずしも同じではない。おそらくは二人の年齢の違いによって、光に見えるものが咲には見えないからである。 るいの両親とは違って、光たちの両親は深刻な問題をかかえて物語に登場する。まず、母親が親として大人としての自信を全く失った状態にあること。感情をコントロールすることができず、ときには妄想を抱くことさえあること。そういう母親の状態を父親は不愉快に感じており、両親の仲はぎくしゃくしていること――中二の光は、そういう大人としての両親のありようを冷静に観察し、正確に認識しているが、小五の咲にはそれができない。両親の不和こそなんとなく感じてはいるものの、それは、彼女が母親に叱られているときに父親がとりなしてくれたというような、極めて自分本位な発想からなる解釈にすぎない。自分とかかわりのないところで父や母がそれぞれに悩み、傷ついているかもしれない可能性など、彼女には想像もつかないことなのだ。 また、咲は家庭外においても自分と立場の異なるさまざまな人々と接触をもつが、それらの人々とのかかわり方も同様に自分本位なものである。体の弱い友達と遊べば、彼女をいたわろうという気持ちよりも、自分が相手の優位に立ちたい気持ちが先走る。好きな少年を前にすれば、「好き」という思いでいっぱいになって、複雑な家庭環境にある彼の苦悩は目に入らない。離婚を経験した女性と知り合えば、子ども好きのその人を利用することしか考えない。そして、何であれ、してはいけないことをしてしまった、と感じたときには、後先考えずにその場から逃げる――ようするに、『もうちょっとだけ子どもでいよう』という題名をもつこの物語に、咲はいわば百パーセントの<子ども>として登場するのであり、その限りにおいて、特に困った問題を抱えてはいない、と言えるだろう。 一方子どもから大人へと移行する年齢にある光の方は、物語が進行するにつれて、徐々に学校に行けなくなるという問題を抱え始める。彼女の場合も、るいの場合と同じく、何と原因を特定することはできないが、前述した母親のありようが彼女の上に大きく影を落としていることは間違いない。 光と咲のそれぞれの視点から交互に語り出されるこの物語において、彼女たちの母親をめぐることどもは、そのほとんどすべてが光の視点によって読者の前に提出される。つまり、光が母の言動を観察し、彼女と言葉を交わし、彼女の過去のエピソードを回想する、その積み重ねによって、この母親の全体像が読者の前に徐々に明らかになっていくわけだが、その過程は光がしだいに不登校に陥っていく過程と見事に重なる。また、学校に行きにくくなるにつれて、彼女は高校を中退した若者たちのたまり場のようなところに出入りするようになるが、彼女をそこへ誘ったのは、以前中学校の教師をしていた母親の教え子で、今なお彼女に心酔している青年であった、ということもある。こうして光は少しずつ、親として大人としての役割に適応できない母親のありようにからめとられ、自らの不適応をもあらわにするようになる。 そんな光の苦悩は、彼女が戯れにラジオのディスクジョッキーあてに数回に分けて書き送った匿名の手紙の中に表現される。その手紙における彼女は離婚家庭の子どもであり、長年にわたる離別の末にようやく再会した母親は自分よりも恋人の方を選び、ともに暮らす父親は病身ゆえに娘を全く顧みないとされる。手紙の内容は回を重ねるごとにどんどんエスカレートし、ついには殺人までからんだ悲惨な経過をたどるが、いかに荒唐無稽な架空の話とはいえ、この物語は、光自身も自覚するように、しだいに彼女の中に「根をおろし」ていく、この<親に捨てられた子ども>の物語は、現実の家庭生活における彼女の、さらには、大人になろうとしてなりきれない彼女の、自己イメージであると言えようが、同じイメージといっても、るいや谷川くんが描いていたような現実と対峙するイメージではない。現実とからまり合い、現実を増幅させるイメージである。 そのようなイメージを自分の中に育てることの危険性に気づいた光は、やがて投稿を中断するが、そのときにはもう完全に学校に行けない状態になってしまっている。行けない理由は、依然としてわからない。したがって、どうすれば行けるようになるかもわからない。そういう光のありようをさして、彼女の父親は「新しい世代のおまえたち全部がぶつかっている困難」であると言う。 だが、光の目を通して彼の妻が抱えている問題を検討する過程で、彼自身が過去に抱えていた問題をも詳しく知るに至った(大人の)読者は、思わずそれと同じ言葉を彼に返したい誘惑に駆られることだろう。すなわち、あなたたちが現在経験している困難もまた、「あなたたちの世代の夫婦全部がぶつかっている困難」なのではないかと。彼らと光をめぐる物語は、おそらく、そういう出口の見えない物語――出口が見えないことを確認し終えてはじめて、ようやく少しは安心できる、というような物語なのである。 しかしながら、それではこの作品にはどこにも出口がないのかといえば、そうではなく、出口は咲をめぐる物語の中に用意されているのであり、それは、咲の体の弱い友達みおの存在を通して具体的に示されることになる。みおは大病の末やっと一命をとりとめた子どもとしてこの作品に登場し、物語が展開していく中でまたも危篤状態に陥り、再び生還する。けれども彼女は存外に明るく、咲に向かって、大人になるのを待ってはいられない、「子どもでもそれくらいのことはできる」と思うことをどんどんやろう、と力説する。死の淵をのぞいた者の強さと傷みを同時に感じさせる発言だが、いずれにしても、みおのこの言葉は、瀕死の彼女を目の当たりにして、ようやく自分ではない他人を思いやる気持ちに目覚めた咲の胸にまっすぐに届く。 というわけで、この作品における咲の物語は、彼女が大好きな少年に初めて思いをうちあける、次のような手紙によって閉じられるのである。「子どもだから何もできないんだとずっと思っていたけれど、そんなことはないよね。(略)わたしは新くんが好きです。」 そしてこの結末は、この作品の題名とも響きあって、本来直接は関係のない光の物語の結末をも覆わずにはおかないだろう。光(と彼女の母親)は結局もうしばらく子どものままでいることになるだろうが、だからといって、何もできないわけではないのだ、というように。それが錯誤であるかどうかは、ここでは問わずにおくとしよう。 いずれにしても、光の物語のこの結末は、るいの物語の結末と非常に近いところにある。るいが最後に救われたとすれば、それは自身の困難を実にさわやかに克服していった谷川くんがそばにいたからである。私たち読者が光の将来に多少の希望を感じることができるとすれば、それは私たちが、死の恐怖から見事に立ち直ったみおの物語と、そのみおのそばにいることで一歩成長することができた咲の物語を知っているからである。そして、るいと光の不幸が、なんともわかりにくい「新しい世代の」不幸であるとすれば、みおと谷川くんがそれぞれに乗り越えた不幸は、誰にでもわかる古典的な不幸である……。 このある種の図式を洗練させ、より有効な形で用いたのが、私見によれば、最近作の『ステゴザウルス』だということになるのだが、それはまた別の話となる。 日本児童文学1994.09 (テキストファイル化塩野裕子) |
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