『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

敗戦から五〇年代へ

一、『太陽よりも月よりも』ほか――楽天的・攻撃的な作品群

 敗戦直後、児童文学は、一時期、せきを切ったように巷にあふれ出た。それは、作家の側からいえば、出版社が原稿料を持って作品を買いにくるほどの勢いであった。そして、それが朝鮮戦争を境にまたたくまにつぶれ、その後、長い停滞がつづくことは、周知の事実である。そして、ごく短かった隆盛の作品群は、現在ほとんど問題にされていない。だが、私たちが、現在の児童文学を正しく理解するためには、そろそろ、戦後を克明に研究する必要があると思う。もちろん、現在までに、概括的な意見はいくつかあった。かんたんに列記しよう。
 菅忠道は『日本の児童文学』で、戦後の三年間ほどを、「赤い鳥」伝統と、昭和初年のプロレタリア児童文学、それにつながる生活童話の伝統が主流となり、また児童ジャーナリズムを圧倒したと規定している。
 上笙一郎は「これらの無国籍童話は、『民主主義的な児童文学を創造』しようとする児童文学者の熱意を反映して、そのテーマはアクチュアリティに富み、日本を民主主義的な社会に改革して行こうという思想にあふれていた。けれどもこれらは、第二次世界大戦中まで児童文学者として自己形成を終えた作家たちによって書かれており、しかもその方法論は、かつての生活童話を踏襲したものでしかなかったのである。そのため無国籍童話と生活童話は、すぐれてリアリスティックな生活の場に置かれていた当時の子どもたちの心を、全面的につかむことができなかった。」(『児童文学概論』東京堂出版、二〇五〜六ページ)と批判している。
 古田足日は、この時期についての発言は一つにかぎらないと思うが、もっとも端的な発言として、昭和三八年に至文堂から出た『現代児童文学事典』から引用すると、彼は、「筒井敬介の『コルプス先生汽車へのる』、岡本良雄の『あすもおかしいか』、平塚武二の『ウイザード博士』、関英雄の『銅像になった犬』など、いま読んでもそれぞれ当時の熱っぽさがつたわってくる。この熱っぽさということを、たいせつなこととぼくは思いたい。当時の民主主義の花ざかりをささえたのは、熱っぽさであった。熱っぽさといって悪ければ、精神の高揚であった。(中略)精神の高揚がこの時期の作品を力のあるものにしたことと、それが同時に作品を弱くしたことを、ぼくたちはみとめなければなるまい。」とのべている。
 そして、私自身は、「この時期の専門的児童文学者たちは性急にすぎた。解放された彼らは、新しい出発に際して、子どもの文学とはどんなものかを考え、子どもの心の成長にかなうものは何かを考えなかった。」(『児童文学概論』牧書店、一九六二)と考えていた。
 以上の分析は、拙論をのぞいて、民主主義思想の伝達とその熱意を評価しながら、文学としての失敗を批判する共通性をもっている。だが、私は、(昭和三八年の時点で、この時期の作品群をもっとも買わなかった人間として)このごく短い期間を、よりくわしく見る必要があると考えている。
 質的に見て、この時期の作品には、きわだった二、三の特質がある。その一つは、創作態度に「次代への期待」がほとんどない点である。そして、そのもっともあきらかな例が平塚武二であろう。彼は、昭和二三年に『ウイザード博士』を発表している。有名な魔法使いウイザード博士が、ジャッコンだかニッパンだかいう国に来朝し、王さまにお目にかかり、いっしょに牛乳をのむ。牛乳の湯気にくもった王さまのめがねを、ウイザード博士がハンカチでふいてやると、なにもかもまっかに見える。そして、博士が帰ると、ふたたび万事がふつうの色にもどるのである。
 当然、ここには天皇制否定に至る諷刺がある。それは、今に宮廷中をまっかにしてやるぞという戦闘的な姿勢があり、そして、それは、だれでもない、作者自身の声なのである。
 この姿勢は、筒井敬介にも、岡本良雄にもはっきりと見られた。筒井の『コルプス先生』は、遠い北にいる少女から、数千の生命が危機に瀕していると手紙でうったえられれば、時をうつさずに北に行く。「金もうけ患者の余病は《世の中に害や毒をながしても、いっさいかまわぬ》という、病気らしい。」といった言葉が、やや生硬で性急で表面的な諷刺であることは、まぎれもないことだが、とにかくコルプス先生は、行動し、世の中をよくしていったのである。岡本の『ディオゲネスの家』の父親は、ヤミでもうけた隣人を告発している。つまり、この時期の作品のほとんどには、自らの行動によって世の中は変わりうるという満々たる自信と気魄と一種のゆとりがこもっている。そこには、挫折感から屈折した次代への期待など、入りこむ余地はなかったのである。日本の児童文学史上、これは、まことにまれな、幸福な時期だったといえるかもしれない。
 『コルプス先生汽車へのる』(一九四八)、『コルプス先生馬車へのる』(一九四九)や『ウイザード博士』は、波多野完治の命名で、当時無国籍童話とよばれたが、猪野省三が「戦後の児童文学は、まず自由なるメルヘンの開花から出発した。」(『日本児童文学』、一九四八)と指摘したように、昭和二〇年から二五年頃までは、メルヘン主流の期間だったといえる。そして、そこに、私は第二の特徴を見る。多くの作家がメルヘンに向かったのは、結果はどうあれ、民主主義の理想を伝え、理想的な国や社会の像をえがこうとしたためであった。その意味では、ひじょうに高度な、硬質な文学の時代であったといえる。意識だけは、牧歌的な童話の世界や、善意の日常生活絵巻をあつかわず、ひじょうに雄大だったわけである。
 だから、作家たちは、後に論争をおこした「童話は自己表現か否か」などになやむことはなかった。変革の可能を信じ、国全体の合言葉であった民主主義をメルヘンという形式で表現した。だから、ねこなで声にみちた現在の児童文学の状態から見ると大胆としか思えない仕事がいくつか見られる。
 平塚武二は、『太陽よりも月よりも』で、権謀術数のかぎりをつくして、みなし子の境涯から大国の王に成り上がる人間をえがいてみせた。平塚は、昭和四四年の新版で、
「私がこの作品で試みようとしましたことは、“善意の文学”といわれてきた童話の“善意”を、かなぐり棄てようということでした。いままでの童話作家は、“善意”をかくれ蓑がわりにして、真実な自己表現をしてこなかったのではあるまいか?“善意”は、あげ底ではなかっただろうか?童話作家の子どもへの呼びかけは、つくり声ではなかっただろうか?これが当時の私の反省でした。この反省から出発して、私は、童話作家が触れたがらなかった人間の不徳、悪をとりあげました。人間の強欲、無慈悲、暴虐、虚偽、愚昧などを、子供たちの目の前に、はっきり描いて見せようと思いました。」(実業之日本社、一七六ページ)
と、創作意図を回顧している。
 子どもたちに、人間の実態をかくさず示し、それを通じて、真に正しい生き方を提示しようとしたわけである、おそらく、その背後には、軍国主義的侵略と悲惨な結末を阻止できなかった、自分をも含めた戦前の日本人の精神形成のプロセスへのにがい悔恨と批判があったにちがいない。その意味で、この作品には、逆説的ながら、人間の理想像が盛りこまれている。だが、さらに勘ぐれば、平塚武二には、善意な小心者より、大きな悪人にひかれるような心の傾きもあったのではないか。いろいろな点から、ここには、平塚武二がそのまま正直に表現されている。子どものためではなく、まず自分のためにメルヘンという形式の文学をつくり、しかも、平明で凝縮度の高い文章で、骨太の物語が展開され、子どもによくわかる、子どもの文学になっている。
 坪田譲治の『サバクの虹』(一九四八)ほど子どもの文学に不向きなテーマはない。広大な砂漠の上に雲が立ち、雨がふり、三日三晩虹がたつ。やがて砂漠は森に変わり、泉から水があふれ、さまざまな生物がくらすようになる。だが、時がたつと森はふたたび砂漠になり、もう一度虹がたったまま、二度と森にもどらない。現在、読みかえしてみると、この作品には輪廻を説くなどというだけでなく、虚無の深淵が大きく口をあけている。そんなテーマを「ある年のある夏のある日のことでした。このさびしい――そこはサバクだったのですが――山と野原の世界をかこんで、銀色にかがやく雲の峰がたちました。雲の峰はむくむくもりあがって、高い塔のように見えたり、大きな大入道のような形をしていたり、仏さまがはすの花の上にすわっているすがたになったりしていました。地上は、ものすごいさびしさなのに、空がこんなにうつくしかったので、もしこのサバクに人間が一人でもすんでいたら、
『これは天国のお祭りがはじまったのかもしれないぞ』
と、そんなことを、思ったにちがいありません。」などという簡明で表面的にはやさしい童話にしているところに、坪田という作家の精神の強靭さがある。だが、坪田は、たとえば大人向きの作品『笛』を『ひっこし』にというように、子ども向きの作品になると妥協するところがあるのだが、『虹』には、妥協のかけらも見られない。私は、そこに、やはり、この時期の童話の持ちえた幅と奥行きと精神の強さを感じずにはいられない。そして、その証拠は、ある意味では、おびただしくあげることができる。
 坪田譲治は、本質的に、童話という限定語のつかない作家であった。平塚武二という人は、童話作家ではあるには煩悩がたっぷりと新鮮にすぎ、作家であるには、ものの把握が直感的にすぎるようなところがあり、つねにどこか悲痛なものをもっていた。だが、戦前『北国の犬』でデビューした関英雄は、まじり気なしの児童文学作家であり、常に庶民の暮しにあふれる善意を哀歓をこめてえがいて、読者に清冽な人生を感じさせる作家である。その彼が、畑あらし、汽車をとめるいたずら、山火事などをおこす悪童を昭和二〇年『悪童日記』として発表しているのである。関はこの作品で、苦境をはねかえして生きる庶民の強靭さをえがこうとしたのであろうし、それは、同時に敗戦にあたっての彼の決意であったにちがいない。彼は、ごく最近、これを収めた短編集『白い蝶の記』のあとがきで、つぎのようにかいている。
「東京の大半がまだ空襲のあとの焼け野原で、食糧難や住宅難の深刻な中にも、特高警察の廃止をはじめ、占領軍が矢つぎばやに日本民主化政策をうち出し、騒然とした世相に、新時代の到来を意識した、ある種の興奮もともなって書きましたが、内容はすべて空想です。あとで読むとひどく概念的なかわいた作品に思えますが、この作品を書きおわった翌日だったかに、さきごろ亡くなられた平塚武二さんが、東京阿佐ヶ谷のわたしの家をたずねてきて、その場で原稿を読み、『力作だ、おもしろい。』といってくれましたのが、なぜか心にのこっています。」
 関の興奮も平塚の評も、この時期の作品の質の一面を如実に語っている。
まとめると、二〇年からほぼ二五年までの児童文学は、楽天的で、積極的で、巨視的で、自信にあふれた自己表現の文学であった。俗にいえば、男性的な文学、硬派の文学であったといえる。
テキストファイル化矢可部尚実