『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

二、守勢の文学へ――政治状勢への追従

 硬派の文学の質的転換を象徴するのが、猪野省三の『ビョウブ山のまもの』(一九五一)や岡本良雄の『太郎と自動車』(一九五一)である。
 『ビョウブ山のまもの』は、朝鮮戦争でクズ金の需要が高まった時期をえがいている。 
主人公幸吉は、病気の母親と二人ぐらし。生活のため、元の演習場から機関銃のたまをほって売っている。それを偶然知った地方紙の記者が美談にしたてたため、幸吉は一躍有名になり、学校は善行賞をくれるし、大勢の人びとが善意のおくりものをしてくれて、くらしがらくになる。幸吉はクズ金ひろいの少年たちから親分とたてまつられ、もうけの何パーセントかを、幸吉の家をたてるための貯金にとわたされる。やがて、ビョウブ山のクズ金はなくなり、少年たちはぬすみをはじめ、それをとめに行った幸吉が警察につかまってまた新聞ダネになってしまうのである。
 これは、猪野の代表作の一つに数えられている。ほったて小屋にすむ貧しい母子家庭、筆先一つで善行少年を非行少年に変えるマスコミ、戦争によっておこる経済変動と戦争そのものの弾劾などを、一短編にともかくおしこめた腕力は、たしかになかなかなものである。だが、一人の少年を魔術のごとくにもてあそぶ新聞と、人の心のたよりなさは、メルヘンとしてえがかれて迫真性をもつが、作者の意図した、悪の根源の戦争弾劾は、とってつけたように説得力をもたない。
 この、とってつけたような観念的な怒りに、変化が象徴的にあらわれている。つまり児童文学は、人間の基本的諸権利、平和で健康的なくらしをうばう敵への自信にみちた攻撃的姿勢から、後退しつつ力のない批判をする姿勢へと一八○度の転換をしたのである。作家自身が民主主義的変革に能動的に参加する姿勢も、変革への自信もなくし、一現象批判から、むりやり、民主主義の敵の実体に迫ろうとする後退した受身の思想がはっきりと見られる。
 「太郎と自動車」が雑誌『びわの実』に発表されたとき、これをアメリカ帝国主義の植民地支配へのたたかいをえがいた作品とする熱っぽい評価が数多くきかれたことを、私はきのうのことのようにおぼえている。だが、駐車中の自動車の運転手に雑誌を売ってあるく太郎が、
 「かえれ、かえれ。ここは、おまえたちのくるところじゃないんだぞ。オフリミットだ、日本人はー。」
といわれて、
 「オフリミット日本人――占領軍のきている日本には、日本の国でありながら、日本人のはいっていけないところがきめられていたのです。太郎は、あわてて、あたりを見まわしました。
(ほんとうに、ここは、日本人がはいってくることをとめられているところだったのか。)
 けれども、ちがいます。ここは、なんでもない、だれがあるいてもいい、ふつうの町の通りではありませんか。」
という叙述となり、太郎が内心につよい怒りをおぼえるという話だけでは、単に、植民地化反対、植民地根性反対といったスローガンしかうかんでこない。今、この作品を読みかえして、学生のときだった自分の周囲を思い出すと、結局、児童文学の進歩的部分を支配していたものが、公式的で性急な、感受性を無視した論理であったことがわかる。
 この急激な変化の直接の原因は、政治・社会状勢の変化である。占領軍は、朝鮮で戦争をおこしたのと呼応して、吉田内閣に反動化政策をとらせ、その結果、教育、報道関係をはじめとするレッド・パージの嵐が吹きあれ、共産党中央委員追放、『アカハタ』発刊停止などがおこった。民主主義化政策は、ほとんど、はじまると同時にブレーキがかけられたわけである。
 戦後の児童文学が、政治・社会状勢にこれほど敏感な体質であったところに、じつは大きな問題がある。問題の一つは、戦後の児童文学を、政治・社会現象との皮相な癒着にみちびいたことである。変転する諸現象を常に批判的に観じて、それを生硬な言葉で作品中に挿入するか、あるいはテーマとすれば、それは出来ばえはともかく、進歩的・革新的とのお墨付をうけとることができるようになり、現在にまで大きな弊害をのこしている。そして、それは、また、大量に、にせ作家、にせ批評家たちを生む原因にもなっている。現象の皮相な批判が正当性をみとめられるから、描写力すらあやふやな作家たちが、かかしのごとき人物をうごかし、陳腐な会話を多用して、一見進歩的なテーマを子どもたちにおしつける。そして、それを受けた書評家たちが、これまた「生き生きと」「すばらしい」「おもしろさの中に現代批判がある」という常套語のみをつかってほめたたえる。ここには、形式化した大人のセレモニーはあっても、子どもはいない。岡本、猪野その他の作家たちは、昭和二五、六年の時点で、子どもの口に、生硬なスローガンを強引にねじこもうとした。そして、現在は、糖衣にくるまったスローガンがねじこまれている。本質にかわりはない。
 では、なぜ、戦後児童文学は、わずか数年で暗転したか。それが、第二の問題である。上笙一郎は、敗戦直後に活躍した作家たちがすでに自己の文学を一応完成し、新しい状勢への適応を欠いていたと指摘するが、石井桃子や吉田甲子太郎、また竹山道雄などを考えると、その説はややうなずきがたい。古田は、前述の至文堂版の論文で、
「敗戦直後、廃墟は外的なものだけではなく、日本人の内がわにも存在していた。民主主義児童文学がこの廃墟を整地して建設されたものではないという答は、すでに出ている。当時の児童文学者の内部の弱さについて、技術的な面だけでなく、この主体の問題を見ることが必要だと、ぼくは思う。」
といっている。
 当時の児童文学作家とその作品に、果して『サバクの虹』に象徴される廃墟が共通していたかどうかは、私にはわからない。だが、価値の大転換の前の自失状態、新しい出発前の無の状態の中に、与えられたという形での民主主義が来たということでなら、私にも理解できる。
 私は、この時期の作家たちの創作態度に投げかけられている「作家主体の弱さ」「主体性の欠如」という批評をつぎのように考えたい。つまり、当時の民主主義化が、児童文学作家の思想をはるかに超える巨大なものだったということである。戦争放棄、人権擁護その他、憲法に盛りこまれた精神とその具体化は、作家たちの要求をほとんどの面でこえるものであり、たとえば天皇制のような悪しきのこりものには、政治行動による反対が表明できた。だから、作家たちは、政党の綱領、運動のプログラム及び実践を含む政治にのみこまれた。だから、状勢が反動化したとき、文学も政治の路線に従わざるをえなかったのである。これは、たしかに作家の主体性の弱さといえるのだが、欠如とはいえないだろう。作家たちは、自己の内面を一歩一歩かためずに、民主主義化の政治の動きに、自己を同一化させたのである。その意味で、私は、敗戦直後の児童文学にある自信、楽天性、子どもにおもねらない強い自己の主張等々をほんものであると思う。そして、同時に、それらが、政治に従属する児童文学をつくることになったといえる。
 敗戦直後の児童文学は、政治的な動きに同調している間に、理想的な人間像や社会形態、理想的な人間関係等々基本にすえて、子どもに読む意欲をおこさせる文学を用意しなくてはならなかった。その用意ができていれば、彼らが持っていた確信と楽天性を持ちささえ、守勢の文学からぐちの文学へ、さらには自己満足の文学へと転化しつづけなくてもよかったのではないかと思われる。結果は、読者に、生き方への展望を与えることができなかったため、とにかく、生き方を明示した作品――北畠八穂、壷井栄、石井桃子などにとってかわられることになる。
テキストファイル化佐々木暁子