『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

四、『風信器』、『チャコベエ』、『原始林あらし』−新文学への模索

 女性作家たちがよく読まれた時期にも、むろん、男性作家による努力はつづけられていた。国分一太郎『鉄の町の少年』(一九五四)と『リンゴ畑の四日間』(一九五六)が、その努力の一つの姿である。前者は大都会の工場で、後者は青森のリンゴ畑で、はたらく少年たちの正当な諸権利をおかそうとする勢力に対し、少年たちが果敢にたたかうさまを物語っている。二つとも、少年たちの勝利に終わる話なのだが、発表当時から、人物・環境がえがけていず、話の進め方が図式的・公式的だという批判があった。反動体制の強化の状勢の中で、はたらく場での民主化闘争の、勝利までのプロセスの提示は、それだけでも、ひじょうに積極的な意義をもつが、それがリアリティをもって迫らない〈おはなし〉であったところに、弱さを感じないわけにはいかない。かりに、人物と事件とが必然的にからみあう小説としてえがこうとしたら、卑俗な読物に行くか、闘争の勝利がえがけない、岡本や猪野とおなじ文学になるかどちらかだったろう。そして、この推量は、大石真や長崎源之助や前川康男の、この頃の仕事を読むと、さほどあて推量ではないと思える。
 昭和二七年に、大石真は『夏の歌』を発表した。父が未帰還の転校生松山は、頭もわるく、級友にばかにされている。そして、夏休みに海へ行く金をあつめたとき、おかねはどうしたときかれ、「ウン、行く。だけど、とうちゃんがかえってきたらばな」といって爆笑を買う。松山とおなじように海に行けないマキも、やはり笑うのだが、マキは、じぶんのことを笑っているような気がする。そんな短編である。
 彼は、翌年『風信器』をかいた。主人公の住む町の銀行に強盗が入る。すると、主人公の級友井川が、強盗は学校の天井にかくれているという。べんとうがぬすまれるのが証拠だというのである。ところが、主人公は、級友の弘が、ある日校外でべんとうをたべているのを見て、弘をうたがう。そこで、毎日、べんとうの時間に弘をつけていくと、弘は校庭のブランコにこしかけて、屋根の風信器をみている。弘にはたべるべんとうがなかったのだ。そして、まもなく、弘の家は北海道へうつっていく。おじさんが銀行の小使で、強盗の責任をとらされたのである。
 大石は、海へ行けない子どもやべんとうすらたべられない子どもの現実を見つめざるをえない。だが、マキが松山を、『風信器』の主人公が弘をどうしてやりようもないごとくに、彼にも、この現実の真実味ある解決法がない。解決は、敗戦直後の文学のそれではありえないし、石井らのものでもない。また、現実の非をならす文学の無力さも、大石は知っていたろう。ここには、若い目で戦禍を体験し、民主主義の蜜月をへた男の挫折感がある。大石は、じっと見つめてたまった怒りを、屋根の風信器や、「夏休み」の歌に託して流すしかなかったのではなかろうか。
 前川康男は、昭和二四年に『原始林あらし』、昭和二六年に『川将軍』を発表し、当時新鮮なリアリズムとして評判になった。原始林にはいりこんで木を切る者がいるとの報告で、村の助役や若い新聞記者がしらべにいくと、ひどい開拓地でくらせない人びとが生きるためにもぐりこんだことがわかるという、今風にいえばルポルタージュ風な作品が『原始林あらし』。『川将軍』は復員軍人の洪水時におけるヒューマンな行動を追っている。
 この二作が、発表当時なぜ新鮮だったかは比較的容易に理解できる。民主主義の声高な、そして、当時はすでに空虚にひびいたであろう絶叫がなく、一方、苛烈な現実のヒステリックな弾劾もない。村の助役が、原始林あらしを許可しないながら、同時に病人は医者に見せるといった、事にあたってのヒューマンな処理が随所にあらわれている。袋小路にはまりこんだ、当時の児童文学界にあっては、たしかに、新風であったにちがいない。だが、今の目で見るとき、作者は、やはり、一歩しりぞいている。眼前にあらわれたものは、処理せねばならないが、みずから改革の動きに身を投ずる積極的な姿勢は見られない。
 長崎源之助は、昭和二五年に温泉の小さな宿に吹きよせられた元負傷兵のアメ屋、薬屋、元兵隊の旅芸人などをえがいた『風琴』を、三一年には、母一人子一人の居酒屋に、これまた吹きよせられる庶民たちをあつかった『チャコベエ』を発表した。ともに戦争の傷あと深い人びとを、共感をもってえがいていて、感動的だが、大石や前川以上に一種どうにもならないやりきれなさがつきまとう。それは主として、長崎が、無意識に〈庶民〉の中に逃げこんでいるところから来るのだと思う。長崎は謙虚な作家で、つねに実感のともなわないテーマなど盛りこまないだけに、この時期、まだ、テーマが未整理であったらしく、なにかにつきうごかされてかいたものは結局積極的な提言にならなかったのであろう。
 大石、前川、長崎などの若手は、以上のべたように、表現こそちがえ、一様に現実との対決に苦しみ、立往生、妥協などをくりかえしていた。現実をのりこえ、確信のある未来への展望をつかむに至らなかったのである。だが、彼らのこの時期の作品を単に敗北といってしまうことはできない。いくつかの貴重な特色があるからである。
 彼らは、まず、画一的な風潮や流行の論理などにのみこまれることなく、個人で現実に立ち向かって苦闘していた。その心の軌跡が今も『風信器』や『チャコベエ』を読みごたえのあるものにしている。そして、また、この三人は、既製のものにいっさいたよらず、新しいモラル、新しい改革の論理などを手さぐりしていた。
 こうした、閉塞状況を、児童文学の質的転換によって打ち破ろうとして出されたのが、昭和二八年の早大童話会による、「少年文学の旗の下に」であった。この宣言の功罪は、すでに古田や鳥越の回顧もあり、菅忠道なども、欠点は批判しながら、その役割を高く評価しているが、今後さらに功罪は論じられなくてはならないと思う。主要部分を引用すると、はっきりとなにが欠けていたかがわかってくる。
「我々は『メルヘン』を克服する。目覚めゆく民衆の力を背景に、それが子供たちに与えてきた美しい夢はみとめるとしても、今やそれは、圧制から自らを解放した民衆の喜びの表現であった、その革命的意義を全く去勢され、単なる形式の残骸と化した。
 我々は『生活童話』を克服する。従来の超階級的童心至上主義に対して、現実の生活に取材せんとした意図はみとめるとしても、誤れるリアリズムは私小説性のわくを出ず、それは遂に少年『小説』にはならずして、あくまで生活『童話』にとどまり、綴方的リアリズムへの転落の道を辿った。
 我々は『無国籍童話』を克服する。敗戦という混乱した日本の現実社会の中で果した諷刺精神と、綴方的リアリズムに対する興味性の復元を意図した実験的手法はみとめるとしても、所詮それは、現実からの逃避であり、コスモポリタニズムから、アナーキズムへの堕落であった。
 我々は『少年少女読物』を克服する。百千万の少年少女をよくとらえた技法はみとめるとしても、文学に非ざるこれらの読物は、常に低俗なる娯楽性にのみよりかかり、少年少女の健全なる生活意欲を毒することによって、封建的支配勢力の忠実なる僕としての役割を果した。」
 そして、結論は、
「従って我々の進むべき道も、真に日本の近代革命をめざす変革の論理に立つ以外にはなく、その論理に裏付けられた創作方法が、少年小説を主流としたものでなくてはならぬことも、また自明の理である。我々が、従来の『童話精神』によって立つ『児童文学』ではなくて、近代的『小説精神』を中核とする『少年文学』の道を選んだゆえんも実にそこにある。」となっている。
 二〇年近く前の学生集団によってかかれたものを、これがいかに支離滅裂であったかと批判することはまったく意味がない。必要なことは、この宣言が理想とした児童文学であり、その成果であり、影響である。一読してだれにでもわかることは、この宣言には空想的な物語の否定あるいは無視があることである。当時、ファンタジーという概念はまだ一般化されず、早大童話会のメンバーは知らなかったから、彼らはメルヘンと無国籍童話という言葉でそれをとらえていたが、空想的な物語が子どもの成長に不可欠なものであり、ときにはリアリズム以上にリアリティを持ち、するどい批判をなしうることを、彼らはみとめていなかった。そして、彼らの求めたものは、人物と環境が革命に向かって変革しながら密接に影響しあい、理想に向かって成長発展をとげていくリアリズムであった。つまり、求めたものは長編小説であり、その長編が、理想の政治形態、社会形態をめざすテーマをもつものであった。
 「宣言」は、強烈な現状批判にみちていた。だから、この学生たちの宣言を受けた当時の大人たちは、批判するより、彼らの宣言の志向するものを、専門家としての責任をもって作品的にも理論的にもうらづけるべきだったと思う。それのなかったことが、児童文学の発展をいくぶん遅らせたことはいなめない。
 「宣言」のもう一つの大きな欠陥は、子どもへの配慮が皆無な点であった。今、全文を読みかえしても、そこには、子どもの興味・関心、成長発達の段階性などについての言及はまったくないといってよい。空想を無視し、子どもに向かないリアリズム−それは、はっきりと政治従属のパターンを継承している。
 長編の小説は、内容的に当然登場人物の成長の過程がえがかれるから、当時のメンバーがまったく子どもに向かわなかったとはいえないかもしれない。だが、子どもが文学をあそびとして読むという認識に立っていない点は、大きな禍根をのこしたといえるだろう。宣言は、児童文学の世界に波紋をおこし、あたらしい文学を生まねばならないことを大方に意識させた意味で力があったといえる。だが、その努力の質は、大石や前川や長崎が作品で苦しんでいたのとほぼ同次元のものであり、ともに、めざした文学は、おぼろげな形でしかあらわれていなかった。そして、一種の批評だった「宣言」は、それが舌足らずのぶっきらぼうな批評であったために、その後の多くの作家たちを、眼前の現実にのみしばりつけ、右往左往させる一因となった。私は「宣言」のメンバーの一人として名をつらねた立場にあったのだが、この「宣言」は、戦後文学史上、過大な評価を受け、実質的にはさほど影響を与えていないと考えられる。
(テキストファイル化泉 和加代)