『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

 三、『ぬすまれた町』と『ドブネズミ色の街』

 一口にいってあらゆる面で複雑化を急速にはじめた安保以後を、もっとも積極的に子どもに伝えようとしたのは、それまで評論活動にたずさわっていた古田足日であった。彼は、大資本による欺瞞、搾取、人間の部分化の方式を、今様の言葉でいえば一種のSFタッチでえがく『ぬすまれた町』(理論社)を61年に発表した。この作品について、62年1月に私はつぎのように意見をのべている。
「今まで、空想物語といえばほとんど民話や神話に源を発する登場人物が活躍し、我々の五感ではとらえられないがあるかもしれない別世界をえがいたり、その魔法の世界と現実との重なりの部分をえがいたりしていた。つまり、多かれ少なかれ、空想の世界はアンミスティックな世界だったと思う。ところが、この作者は、この作品で、タイム・マシンのように時間が自由になる世界、科学の進歩による未来の世界と現在との重なった部分をえがいてみせた。(あるいは、未来世界らしきものと現在との重なった部分という方が正しいかもしれない。)これは新しい空想物語の可能性をひらくものだ。」(『日本児童文学』1962・1月号、93ページ)
 私は、この作品についても、過去にのべた自分の意見を改めようとは思わない。形の上からは、これはあきらかに空想物語である。だが、ドリームランド建設をうたい文句にして市長に当選したヤマモト・リュウイチの真意が、ドリームランド建設による地価の値上がりにあったり、彼の提唱によるハミガキ運動が市民の単純化にあり、ハミガキの人びとの影に番号が浮き出てくる描写などが、11年を経た今日、発表当時以上のリアリティをもって迫るところに、この作品の本質がある。当時の現実を最大限に忠実に把握する方法の一つとして、古田はSFまがいの手法をとらざるをえなかったのである。雑誌連載という制約や、新手法という困難による未熟さとむだがありながらも、今日なお新鮮な魅力をたもっているのは、これが作者の内的必然性によるためであろう。
 やがて、古田は1966年に『宿題ひきうけ株式会社』(理論社)を発表する。これは、数人の子供たちが、同じ町の野球選手のプロ入りにショックを受け、金もうけについて考えるうちに、宿題を引受けて金もうけをしようというアイデアが生まれ、会社組織で仕事をはじめるところから、子どもの未来に対する設計への疑問が生まれ、それが今の社会のゆがみの発見とそれへの対処の仕方にまで発展していく話である。私は、この作品の積極的な推薦者として、当時、「『宿題ひきうけ株式会社』の子ども達は、私たちが今金銭を尺度として暮さざるをえないのと同じように、金銭を価値判断の基準としてくらしている」(『学校図書館』188号、1962・6月、52ページ)とかいて、ある児童文学作家に、新しいものに単純にとびつくオポチュニストといった趣旨の批判を受けたことを今もはっきりと記憶している。
 平凡に考えてみても、野球ばかりやっていてすこしも勉強しなかった男が一千万円でプロにスカウトされる一方、平凡なサラリーマンになるために小学校からソロバンを練習しなくてはならない子どももいる矛盾の谷間から出発する子どものささやかな金もうけには、二つの強い皮肉があることがわかる。一つは、生きがいや幸福は金ではないと教える大人がつくる社会が、じつは金に支配されている事実への皮肉、もう一つは価値を狂わした大人への皮肉である。だから、生きがいが金でないことを知っている作者が、子どもたちを大人と同じ次元におろして、社会をながめさせたら、何が見えてくるか――それがこの物語なのである。
 古田は、65年の現実を子どもに提出するにあたって、『ぬすまれた町』の手法をやめ、リアリスティックな手法をとった。これは、現実及び子ども把握への、彼の自身と情熱のあらわれではあるが、一面、現在の日本の把握のしがたさと、子どもをめぐる問題のおどろくべき多様さをも示している。
「電子計算機が発明されたことも世の中の進歩だ。だが、そのためにアキコの兄はちがう職場に変わらなければならなかった。
『いままでのように、残業も多くないから、給料もへるんだって。』
と、アキコは悲しそうに話した。
『それに販売はずっとやってきたしごとじゃないから、しごとにほこりも自信も持てないんだって。』
 ヨシダ君と、もとの宿題ひきうけ株式会社の連中みんなが集まってアキコの話をきいていた。ヨシダ君はまったくこまったようにいった。
『手にしょくをつけりゃ平気だと思ってたが、これじゃ散髪屋になっても、そのうちロボットを使う散髪屋ができるかもしれないなあ。』」(103ページ)
といった会話及び叙述には、人物を浮きぼりにできる性質も、情緒にうったえる性質もなく、ほとんどインフォメイションの機能をしか果たさない。だから、この文体は、ノン・フィクショナルな素材をフィクションにして読みやすくしたものととるか、主人公がほとんど筋の運び手化しているところから、60年代の民話ととるかいずれかであろう。だが、作者のねらいはやはりフィクションであったろうから、多量のインフォメイションの機能を果たしながら、なお肉づけされた人物像をえがき出しうる作法をつくりえなかった点は、欠点といわねばならず、この作者の現在に至る宿題でもあると思う。だが、それと同時に、激しく動いて変化する現実を追い、その背後にある法則性をつかんで、現実の真の姿を読者に伝えようと努めるとき、私たちは、従来考えられた、美による、真実による、あるいは愛による感動をもってそれがえがけるかという疑問がつよくのこる。というのは、古田の作品だけでなく、意欲的に現実にとりくんでいる作品からは――たとえば、最近では後藤竜二などの作品――従来型の感動を受けることがすくなく、たまたまそれを感じる部分は、類型に堕した部分であることが多いからである。
 1962年に木暮正夫が発表した『ドブネズミ色の街』にも、従来の型を脱した新鮮さと物足りなさが共存している。
 これは、空気はよごれ、空は暗く、化学薬品のにおいが町中にたちこめている東京都足立区ミドリ町の子どもたちを集合的にえがいた小説である。登場人物は、戦争直後にたてられたバラック長屋の、かどの三文あきない屋の繁の家、印刷屋につとめる青山家の国夫、オモチャの下請けをしている野田さんの照夫と和子、薬品工場につとめる石川さんの秋夫と康夫、衣服行商の権田さんの定子と光男、三流映画館の映写技師の子ども、敬子と淳一、語り手であるタクシー運転手の子ども、タケシとその弟などである。物語は、彼らの家庭問題、遊び、受験、就職などを、並列的にならべて語っていく。一応、中心人物はタケシだが、彼の行動や心理を中心に、その周囲に触れていく形ではなく、ほぼすべての人物におなじ配慮をはらうことにより、総合的に群像をとらえ、今日的諸問題を有機的関連を持たせて提出しようとつとめた点に、この作品の意欲と新しさが見られる。話の終り近く、家出していた行商の権田さんが帰って家のたて直しができる光明がさすかと思えば、オモチャの下請けの野田さんが自殺し、追立てをくわせた大家を、息子の照夫が刺すといった暗黒もあり、問題はいっさい未解決で終る。しかし、暗さのないのは、なぜか。それは、おそらく、60年安保後に出た、あるいは活躍をはじめた若い作家たちに共通した発想にもとづいている。1971年1月25日の『毎日新聞』のシリーズ「幸福」(5)には、「苦しいこともあるだろさ、悲しいこともあるだろさ、だけど僕らはくじけない、泣くのはイヤだ、笑っちゃう、すすめ、ひょっこりひょうたん島
 ――オトナの世界で、”60年安保”が終ったあと、新進の児童文学作家、山元護久氏(33歳)らがNHKテレビで子供たちにこう呼びかけた……」
とある。
 山元のこのムード的な唄の文句には、木暮ら若い作家たちの未来へのとりくみが象徴的にあらわれている。それは、挫折をのりこえてなどというものではなく、自分たちを含めた若いものの世界は、若いものだけがつくるという考えである。過去の価値観の改良や延長ではない、あたらしい価値観の創造をめざした態度である。『ドブネズミ色の街』には、象徴的に一群の若い作家たちの志向を読みとることができる。
 山中、古田、木暮の三人の作品を、私は、60年代前半の前衛であったと思う。三人は、二、三の点で共通していた。その一つは、新しい事態の把握に、従来の基準をそのままあてはめず、当然それが創作法にも反映した点であり、もう一つは、50年代よりも、さらに子どもに接近した点であった。だが、彼らのどの作品も、芸術的完成度に難があるところや、将来の展望にあいまいさをのこしたところなども、共通の弱点として指摘しなくてはならないだろう。中では、古田がもっとも明瞭な展望と行動原則を提示していた。『ぬすまれた町』、『宿題ひきうけ株式会社』で彼が模索したのは、各人の立場に応じた状勢の科学的合理的理解をもととする連帯であり、60年代末から今日につづく市民運動などをあきらかに先取りしている。
 とにかく、三人の子どもをとりまく現実の把握とその形象化には、三人三様といった個性がある。45年から50年代を通じて、底流として多くの作品に見られた共通の理想は見出すことができない。もっとも進んだところに位置していた彼らにそれがないのである。つまり、60年安保をへて、作家たちは、はじめて作家個人として現実に立ち向かうことになったといえよう。それは、児童観や作家と子どもの関係の変化等の貴重な進歩を見せると同時に、停滞をもよびこむことになった。60年代が進むにつれて、素材・内容に回顧的なものが大量にあらわれた現象がそれである。
テキストファイル化田代翠