『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

四、回顧的な転回

 児童文学に含みえない思想、表現できない事象はないにしても、読者が児童であるかぎり、すべてはわかりやすく単純化される。そして、単純化された表現は、常に多様な解釈を生む危険をはらんでいる。戦後児童文学は、はやくいえば右も左も民主主義思想を基礎にするという点で、ときには呉越同舟でありえた。しかし、戦後二〇年の日本人のエネルギーの蓄積と現代社会の多様化は、象徴的な民主主義思想などというものを基礎として、子どもに向かうことをゆるさなくなった。そして安保がそれを促進させ、作家たちは、いやおうなく、個人として巨大な60年代の現実に対応せざるをえなくなった。そのもっとも重要な場に立たされたとき、多くの作家たちが一種の逃避をはじめた。その一つが思い出を語る作品群であり、もう一つが既成品の児童進行にもとづく作品群である。
 思い出を語る作品は、もちろん戦前からあったが、この時期は、六三年の『春の目玉』(福田清人、講談社)、『雲の階段』(打木村治)にはじまり、65年の『風邪は思い出をささやいた』(おの・ちゅうこう、講談社)、69年の『もくれん通りであそぼうよ』(稲垣昌子、理論社)につづく。『春の目玉』は明治期の北九州に、医者の子どもとしてそだった一少年の、小学生時代までをえがき、『雲の階段』は大正初めの埼玉県の小学生をえがいている。そして、作者は二人とも、執筆の目的を、少年の心の成長をえがくこと、及び読者をゆたかな自然であそばせたいこととしている。これはおの・ちゅうこうにも稲垣にも通じた目的である。
 ある人の思い出が後の人々の人生になにかを残すという考えの底には、子どもは基本的に変らないという立場がある。その是非はいずれにしても、若い読者への思い出話が一種の快さを持っているのは、それが現在の子どもたちとは、はるかな距離のある空想物語だからである。たしかに、しっと、うらやみ、けんかなど、小さなエピソードについては現在の日常生活と共通している点があるだろう。だが、現実がもつ生臭さはすべて失われている上に、すべてがもはやすんでしまったことであり、読者は安心して読みおえることができる。作者にとっては、宝玉のような思い出を作品化すれば、第一義の目的は果たせるのであり、次代の人びとの成長への寄与も、「できるなら」とひかえめである。そこが快い。
 だか、『南の浜にあつまれ』(香川茂、講談社、一九六三)、『山っ子六代め』(内野富男、東都書房、1963)のように、年の若い作家による類型的な作品は、あからさまな教訓性をもっているので、思い出物語のように、ただ見すごしてしまえない。『山っ子六代め』は、鉱山における事故や盗難事件のスリル、サスペンスをストーリーに、鉱夫として六代めをつごうとする子どもを追っているのだが、第一の疑問は、
「一日中、おてんとさまもおがめねえ地の下でよ、あんな岩っかけ掘らなきゃなんねえなんて、りこうな人間のすることじゃねえぞ。坑夫なんてしごとをしてるとな、誠一、よろけにならなくったって、いつ落盤で死ぬかわからねえ。雄治のおとうみてえに、ハッパにやられて死ぬってこともあらあ。」(八四ページ)
といった鉱夫のしごとをのがれて、働きやすく快適な他の職業へ転職する方があたりまえの考えではなかろうかということである。そのあたりまえに抗して六代めの鉱夫になろうとする子どもの心理が、
「社会というものは、ひとつの大きな機械だ。どの歯車がうごかなくなっても、社会の回転はとまってしまう。きみたちのおとうさんや、にいさんたちも、鉱業という部分をまわしている、ひとつの歯車なんだ。あまりめだたないけれど、こつこつと力づよく回転している歯車だ。むしろ、めだつことで、はでにまわってる歯車よりも、ずっと重要で、なくてはならない歯車なのだ。」
 こんな定義で説明できるだろうか。ここには、職業に貴賎なしという考えと、下積みの努力への賛美がある。だが、これを読んで社会に出ていく子どもたちを待ち受けるものは、学歴重視、情実、職業に貴賎のある社会である。子どもたちの多くは、生きるためにその社会に順応し、裏と表のある社会の構成員になっていく。
 『南の浜にあつまれ』も同様だ。父親を幻の金色ダイにやられた子どもの復しゅう心と漁村の近代化がからんだこの作品は、老ボス支配と若くて進んだ考えをもつ人びととのたたかいだが、漁業の科学化、大型化すなわち進歩、沿岸漁業にへばりつくこと、すなわち保守といったパターンがあり、調査の末の作品らしくなく、リアリティにとぼしい。それは、子どもたちが、宅地化されそうな自然を守ることを物語化した『青いスクラム』(西沢正太郎、講談社、一九六五)などでもおなじである。
 職業、財産、生まれによる貴賎はなく、人間は協力し合うのが正しい姿である、といった考えは、だれしもその通りだと思うのだが、そうした美徳や正しい考えの大部分は、じっさいに効力をもっていない。やがて大人になる人たちに知ってほしいことを伝達する機能をリアリスティックな作品がもつべきであるなら、なぜ理想と現実がちがうかをえがいてこそ、文学である。ところが、じっさいは、その反対のことがうがかれるから、理想的な考えはすべて類型に堕してしまう。類型によりかかり、死んだ美徳をうったえる作家たちには、児童は向くな心をもち、その心に訴えれば、理想はいつか花ひらくという一種の信仰があると思う。子どもは真白なカンバスかもしれないが、そのカンバスに実態のない徳目をならべてかくことは、じつは、社会の裏と表を知って小利口になる人間をしかつくらない。実態のない美徳をテーマに、絵空事をならべる作品が、教師作家や教師の経験者に多いのは、学校という保護された環境に自らを埋没し逃避しているためかもしれない。理想にもえる青年教師と美しく聡明な女教師が登場し、気はやさしくて力もちのような子どもや、腕力ばかりつようボス的な六年生がちょこちょこし、最後に、みんな仲よく手を組んで夕やけをあおぐような作品は、単に文学的感動がないばかりか、子どもの明日に対して有害だと私は思う。こうした作品は、いつの世にもあるのだが、出版の好況と、作家たちの苦しい試行錯誤の間隙をぬって60年代から七〇年代の今日までつぎつぎに出版されている。
 だが、ほんとうに問題なのは、『火の瞳』(早乙女勝元、講談社、一九四六)、『マアばあさんはねこがすき』(稲垣昌子、理論社、一九四六)、『あほうの星』(長崎源之助、理論社、一九六四)、『シラカバと少女』(那須田稔、実業之日本社、一九六五)、『ヤン』(前川康男、実業之日本社、一九六七)、『ヒョコタンの山羊』(長崎源之助、理論社、一九六七)、『少女期』(山口勇子、理論社、一九六九)等、直接、間接に第二次世界大戦をあつかった作品であろう。これらの大部分はなにかの賞を受け、世評も高く、現在も宣そう児童文学の名のもとに児童図書推薦機関で子どもにすすめている。私自身の書評を参考までに二つあげよう。
 『ヤン』については、
 「揚子江をへだてて南京とむかいあっている浦口にすむヤンが、抗日戦に身を投じた兄をさがしに数々の苦しみをへて華北へ行き、そこで日本軍につかまる。その後のがれて浦口にもどって兄に再会し、アメリカ空軍の爆撃を手引きして、また日本軍にとらえられ、あやういところで終戦をむかえるという話を日本軍の見習士官が語る形式で進めている。みずから戦地をかけめぐった経験をもつ作者が、戦後20年をへた今日、子どもの文学にその体験をまとめることはひじょうにむずかしいことだと思うが、この作品は、ヤンの動きをスリルとサスペンスにみちた物語にまとめて読者をぐんぐんひきこみながら、中国人の苦しみと不屈のたたかいや日本軍の実態をみごとにとらえている。」(『朝日新聞』、一九六七年十一月二四日)
 また、『ヒョコタンの山羊』については、そのあらすじを示して、「この物語に登場する子どもたちは、無垢の心で戦時中の社会に対し、良心に従って行動している。そのことが読むものに強い感動を与える。」(『朝日新聞』、一九六七年十月二七日)
 中国における戦争の実態、戦時下の子どものくらし、空爆の恐ろしさ、残虐性など、個個の作品を読むとき、内容が子どもに伝わってほしいという願いとともに、私たちはみなよい本だと考える。だが、戦争の思い出がこのようにずらりとならび、さらに現在も書かれていることを思うと、なぜかほど多くの人たちが、かほど多数、悲惨な思い出を子どもたちに語らねばならないのかという疑問がつよくおこる。悲惨な経験を語るのはつらいはずであるから、それをあえて作品化するのは、現在の日本には、ふたたび戦争にまきこまれそうな、あるいは日本が侵略を再開しそうな危険がある。だから、若い人たちに戦争の実態を知らせ、戦争絶滅のために将来力になってほしいねがいがあるからであろう。また、児童文学全体の退廃の中でゆがめられて伝えられる戦争の実像を伝えたいという気持ちもあろう。あるいは、二度と経験したくない自己の体験を子どもに知っておいてもらいたい心でもあるだろう。
 だが、過去の体験は、現在との比較の上ではじめて効果的にはたらくものであり、破壊の恐ろしさは豊かな創造と対比されてはじめて実感される。いわゆる戦争児童文学といわれる作品群には、戦争と破壊に対置して守るべきものが提示されていない。つまり、子どもたちが享受すべき豊かなもの、彼らがつくってほしい社会などがない。そうしたものは、たとえば、べつの作品として、戦争児童文学の一方の極にあってしかるべきである。あるいは、戦争の思い出を語る底流として作品に流れているべきである。だが、私が今まで読んだ戦争児童文学、あるいは戦中をえがいた作品には、対比さるべきものがなかった。戦争の恐ろしさ、帝国主義日本のおかした罪悪、軍隊の非人間性などは比較的によくかけていた。ところが、それを読んだ子どもたちは、「だから戦争などおこしてはいけないのです」まででほうり出されてしまう。こうした作品群が生まれた内的必然性をはらむ現在を知りたい子どもたちは、明治の思い出や、清く正しく生きよといった作品しかみつけることができない。だから、私は、六〇年代から今日まで発表された戦争児童文学には、作者の主観的な内的必然性の底に、創造をさぼる堕落があると考えている。一つの証拠がある。那須田稔は『シラカバと少女』の翌年『もう一つの夏』(実業之日本社)を出版した。『シラカバ』は、戦争末期の中国・ソビエト国境地帯へ行った一少年の目に映じた中国人、朝鮮人の実態をえがいて一応の成果を収めた。だが、『もう一つの夏』には、「前記二作のさまざまな“影”がかさなりあっている。それは、今日の日本のなかに、まだゆらめき息づいている過去の“影”でもある。」(あとがき)という作者の解説とはうらはらに、今日的なものはなにもない。彼が子どもを通してえがこうとしたのは、今日もなお残っている侵略戦争の傷あとなのだろうが、夏の終の海岸で出会ったトランペットを吹く朝鮮の少年、トーチカの残がいなどがおもわせぶりに過去を語ろうとするだけで、はるかに大きく深く残る戦争の傷をじつは素通りしている。第一、今の子どもを登場させながら、その子どもたちの現実の問題にいっさいふれず、前作のテーマの「影」をちらちらさせることは、もはや明瞭な堕落でしかない。作者は、今の子どもに迫ることをやめたのである。
テキストファイル化古賀ひろ子