五、人間の追究
戦後の子どもの文学で、人間とは、あるいは、人間の生き方とはをえがいたものが、まともに生まれだしたのは、最近ではないかと思う。その一展望が一九六九年の『寺町三丁目十一番地』(渡辺茂男)である。
男の子六人、女の子三人、それに福地祐介夫妻に助手と女中がそれぞれ一人、計一三人の一家の日常をかいたこの物語で、やはり、ひときわあざやかなのが父親福地祐介である。彼は日蓮宗の熱烈な信者で、子どもがいやがろうが、近所が迷惑がろうが、そんなことはおかまいなくうちわ太鼓を打ちならし、子どもにお題目をとなえさせる。そして、一〇人目がやがて生まれるというのに、友人の子どもを二人あずかってしまう。大火で家が焼失すると、「おれには、子どもたちがいる。子どもたちの未来がある。やるぞ!きれいさっぱりと焼けちまったから、ふり出しからヤリ直シだ!」と決意する。
古い人間像かもしれない。しかし、ここには、頑固で、思いやりがあって、しぶとくて、だいぶわがままな男が、そびえるようにたっている。そして、明瞭な人間の生き方がある。
人間とは何かを追究した特異な作品は、一九七二年の『かちかち山のすぐそばで』(筒井敬介)だろう。
オオカミは、キツネから鯛のしっぽをもらってたべ、あまりのおいしさに、鯛がたべられる殿様になろうとする。棒切れを腰にさして歩くうち、ウサギにからかわれてしっぽをなくし、腹がたってウサギをくい、やがて、タヌキにだまされて、これをくい、ウサギ耳のタヌキ腹になる。それでもオオカミは、殿様になりたい一心で、ウサギ耳をちょんまげにし、棒切れをふりまわしてすずめを落とす練習をする。殿様は、刀をふりまわせば鳥を落とせなくてはとキツネにだまされたからである。
作者は、このかちかち山のヴァリエーションで、人間の擬動物化を試みたという。たくみな筋立てと筆力で展開するこの物語は、小学校低・中学年の子どもたちにはゆかいなお話として読まれるだろう。だが、大人が意識して読みとる、人間の欲深さ、いじましさ、あほらしさ、一途である美しさと哀しさは、子どもにもどっしりと心に残っていくと思う。
鈴木喜代春の『花ははるかに』(一九七二)の主人公ハナの一生や橋本ときおの『百様たいこ』(一九七二)にあらわれる否定的人間像としての教師なども、最近読んだ創作で、比較的くっきりと記憶にのこっている。
人間そのものの追究、個性ある生き方の提示は、戦後の児童文学がいつのまにか忘れてきた不足部分であり、子どもの世界の問題とともに、これからの児童文学に欠くことのできないものであると思う。
六、新しい研究の課題
だが、『かちかち山のすぐそばで』も、『寺町三丁目十一番地』も、戦前のメルヘンあるいはメルヘンの変型がつかもうとした人間とはちがっている。
『かちかち山…』は、子どもの興味に密着した骨太のストーリーのある幼年文学をめざした『ながいながいペンギンのはなし』(いぬいとみこ)、『ちびっこカムのぼうけん』(神沢利子)などの業績の上に必然的に生まれたものであろう。『寺町……』は、『赤毛のポチ』(山中恒)、『宿題ひきうけ株式会社』(古田足日)などの粘りのある子どもと現実の追究といったリアリズムの変還と無縁ではない。進歩の必然の流れを筋道正しく追うことが、今後への照明になると考える。
ところで、戦後児童文学の研究で、私を含めて多くの人たちが、常に光をあててきたのは、やはり、現在を真正面にすえたリアリズムでありファンタジーであった。そして、直接的に現在をあつかわず、生きる意義、子どもの遊び、喰うことと直結しない体験などをえがいた作品系列を、傍流にすえる傾きがあった。石森延男、宮口しずえ、石井桃子、庄野英二、花岡大学、杉みき子など、戦後日本的なるつぼの外にいる人びとの作品の質と変化の道程は、これからくわしく研究されなくてはならないと思う。
佐藤さとる、今江祥智、寺村輝夫たちは、常に自己を語っているが、その表出は直接現実の事実と密着しない。それでいて、研究方法には、リアリズムの分析法が持ちこまれ、なにかいつも本体が把握できていないように思う。作品は、不足したものを補わねばならないが、研究面でも、新しい視点と多様な展開がなくてはならない。その不足が常に同類を大量につくらせ、全体をつまらなくしている。『かちかち山のすぐそばで』が、一方でひじょうに高く評価され、一方で話題にもならいといった現象は、やはり奇妙に過ぎることであり、作品面ばかりだけでなく研究・批評面での大きな欠落を実感させる。戦後における研究・批評・書評の歴史が、必要な時期に来たように思う。
テキストファイル化四村記久子