『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫 NHKブックス 1974)

『あおちゃんときいろくん』から『ジョゼフのにわ』まで

 大人で多少絵本に興味があったり、幼い子どもが家にいて、とぎとき絵本をのぞく人たちは、最近の絵本について、一、二かるい疑問をもつのではないだろうか。たぶんその一つは、外国の翻訳絵本と日本の創作絵本を問わず、絵が変わってきたことだと思う。ときには豪華けんらんとした色の世界があるかと思えば、商業美術の絵そっくりなタッチが見られる。そして、もう一つあるのは、なんだかお話がちょっぴりになって絵ばかりが大きな顔をしているという印象である。昔から、いぬやねこの絵に「ねこ、ねこ、こねこ、かわいい、こねこ」などというとって付けたようなキャプションと称する文句がついているものはあった。しかし、やはり、浦島太郎でも桃太郎でも、起承転結があり、入念な絵が添えられているのが絵本だという考えを、私たちはいだきつづけてきた。ところが、このごろの絵本は、話がキャプションのように短くてなにか物足りない。あの、絵と物語が両々相俟って一つの物語世界をつくっていた絵本は、だんだんなくなってしまうのだろうか?
 そんな疑いをもつ大人が多くなったのではないかと思う。
 こういう絵本が私たちの目の前に登場したのは、レオ・レオニの『あおちゃんときいろくん』(一九五九)が一九六七年に翻訳された頃かららしい。
 『あおちゃんときいろくん』は色紙の切れはしを使った絵本である。あおくんは丸/い青い紙、きいろくんは黄色のそれ。二人は仲良しで、いっしょに遊ぶと緑に変わり、両親がわが子と認めてくれない。そこで泣きだすとまた青と黄色にもどるという筋である。色紙を任意の大きさにちぎって登場人物や場所とすることや、色の合成をストーリーの使った着想が新鮮な驚きをもたらした。レオニはその後、『インチ・バイ・インチ』(一九六 ○)『 フレデリック』(一九六九)でやはり切り紙の張り絵で創作し、『スイミー』(一九六三)では水彩とゴム印と鉛筆の絵を、『せかいいちおおきないえ』(一九六八)ではクレヨンを使った絵をと、一作ごとに材料を変えた工夫をして、新しい領域をひらいてきた。
 しかし、レオニの実験は、目新しさに驚いても、とまどいや迷いはいだかせなかったと思う。レオニの絵本には、短い文章ではあっても絵本の伝統にのっとった物語があったからである。『スイミー』は、一匹の黒い小魚が主人公である。スイミーの仲間の赤い魚たちは、大きな魚にたべられてしまう。そこで、スイミーは海中を放浪し、ふたたび赤い魚の群れに出会う。小魚たちが大きな魚をおそれるのを見てスイミーは、みんながいっしょに泳いで大きな魚の形をつくることを思いつき、ほんとうの大きな魚たちを追いはらってしまう。
 『フレデリック』は、野ねずみたちが登場する。野ねずみたちは、夏の間せっせと働いて冬にそなえるのだが、フレデリックという名の一匹だけは何もしていないように見える。しかし、やがて冬ごもりをしたとき、ほかのねずみたちは、フレデリックの語る夏の話を楽しむことになる。
 『せかいいちおおきないえ』は、かたつむりの家の寓話といってよい。一匹の子どものかたつむりが「世界一大きい家がほしい」と父親のかたつむりにいう。そこで、父親は、大きな家をほしがったためにえさからえさへと移動できなくて死んでしまったかたつむりの話をきかせてやる。
 彼の物語の基調には自己の存在意識の追究があるといわれている。その上、一冊一冊の絵に工夫があるように、それぞれに独自のテーマがある。『あおちゃんときいろくん』には、多くの人が平和と強調を認めている。『スイミー』を協力と団結、暴力と知恵の戦いと読んで一向にさしつかえないように思う。『フレデリック』は、生きるに必要なものと人それぞれの特性について読者に考えさせるし、『せかいいちおおきないえ』は不相応と考えれば反発する大人も多いだろうが、少年の夢と大人の知恵の対比から人間の本質がえがかれていると果敢が得てよいように思える。いずれにしても、レオニの人生哲学が簡明に盛りこまれた物語がはっきり存在する。
 実験的な絵も、じつはひじょうにわかりやすいものだ。ゴム印によって、小魚を大量にえがいたり、コンブの林を出現させたりしている『スイミー』も、一見人工的・都会的でありながら、底深い海の神秘を感じさせてくれる。色彩のはでな『せかいいちおおきないえ』も自然の驚異を失っていない。レオ・レオニはいわば新旧の接点に立ち、両者の良さを兼ねそなえた作品を生んだといえるだろう。
 イギリスでもっとも有名な絵本画家、さし絵画家であるブライアン・ワイルドスミスになると、事情はだいぶちがってくる。彼は多くの作品にさし絵をかいたが、一九六二年にABC絵本を『ブライアン・ワイルドスミスのABC』として出版して以来、ラ・フォンテーヌの寓話から『ライオンとネズミ』(一九六三)『北風と太陽』(一九六四)『おかねもちとくつやさん』(一九六五)『うさぎとかめ』(一九六六)などの絵本をつくり、ほかに『とり』(一九六七)『けもの』(一九六七)などを出して世界的な絵本画家となった。ABCブックや寓話という内容でもわかるとおり、彼の絵本はごく幼い子ども向きと考えられる。ところが、絵は幼児向けと常識を破った華麗あるいは重厚なものが多い。たとえば『おかねもちとくつやさん』は、
 「むかし あるところに まずしい けれど ほがらかな くつやさんが すんで いました」(渡辺茂男訳)とはじまる。
 文章は二頁にこれだけしかない。ところが絵は、左側のくつやがくつを縫っているところがえがかれ、前の仕事台には、はさみ、金づち、糸巻き、糸通し針などがならび、さらに糸をいたずらする子猫まで配してある。色も多くて全体がけんらんとしたにぎやかさに満ちている。ごく幼い子どものためだから文が少ないことを考えても、すでに絵本の絵の機能が変わったとしか考えられない。たしかに絵本の世界は絶えず新しい感覚が導入され、読者の美術的感覚を養って発展してきたのだが、常に文と絵との調和がはかられ相補う形でひとつの本をつくったきた。ところが、ブライアン・ワイルドスミスの場合は最初に見たときも、読みおわっても絵の印象が圧倒的で、物語は小さくなっている。視覚にうったえるものに比重がおかれている。そして、その絵がまた十分に説明をしている。文と絵によってではなく、絵が語る絵本になっている。
 絵が語るという表現については多少説明が必要であろう。本来、絵本とは絵だけを見ていっても話の筋がたどれるものである。ただその場合は、焦点の合わない画像を見ている場合か、音をなくしたテレビを見ているようにどこかがはっきりしない。文と結合としてはじめて万事がくっきりする。ワイルドスミスの場合は、文にくらべて絵がはるかに多くを語ってしまうという意味である。
 そして、それはワイルドスミスばかりではなく、彼と同じイギリスの新しい絵本作家ジョン・バーニンガムについてもいえる。バーニンガムは一九六三年に『ポルカ――羽毛のないガチョウの冒険』を出版して有名になり、『トラボロフ・バラライカをひきたがったねずみ』(一九六四)ほかをつぎつぎに出したが、もっとも興味深いのは『ガンビイさんの舟あそび』(一九七0)と『ガンビイさんの自動車』(一九七四)である。
 ガンビイさんは農業をいとなみ、川岸に家があるから当然ボートをもっている。ある日ボートで出かけると、子ども、うさぎ、猫、犬、豚、羊、にわとり、牛、やぎ、がつぎつぎ乗り込んできて大さわぎしたために、ボートはひっくりかえり、みんなはあるいてガンビイさんのところへ帰り、お茶をのんで別れる。これだけのストーリーが『ガンビイさんの舟あそび』である。
 『ガンビイさんの自動車』では、前作の登場人物が自動車でドライブし、雷雨にあって車がぬかるみにはまってしまったため、みんなおりて後押しして、体が汚れたので川で洗ってさよならする。
 物語として、これほど単純でそっけないのもめずらしい。しかし、繊細な線と明るく微妙な色で表現される川辺の自然と動物たち、田園の風景と空の変化は詩を感じさせるほどに美しい。バーニンガムは、単純なストーリーをつなぎ糸ととして、自然とその中で暮らす生きものをえがき、人間が忘れてはなないもの、人間らしい暮らし方、現在の人間に必要なものなどを語りかけている。そして、その語りかけは前者よりも後者の絵の方がさらに雄弁である。
 ここにあげたのは、二人のイギリス人画家であるが、アメリカももちろん例にもれない。アメリカの児童文学評論家、セルマ・G・レインズは、独創的な着眼に富む児童文学論『うさぎの穴を下って』(一九七一)で、アメリカの絵本の現状を語り、 「今日の絵本の多くは、物語ることから逆の方向へ行きついてしまったために、文学的な思い出や、勝利の瞬間とか緊張の一瞬にふと思い出される名文句などを子どもたちに与えられないかもしれない。しかし、みがかれて識別力のついた審美眼をもつ大人を育てることはたしかである。……現代の最良の作品という遺産は、将来の子どもと大人に、言葉でいいあらわせた価値や道徳的信念の、豊かで校正な記録としてではなく、現在の作品にもっともよく表現されている、エネルギーと多彩と感受性の、豊かで校正な記録としてのこるであろう。<グラフィック・イメージ>を通じて。」
(六三〜六四頁)とのべている。
 絵が語る内容とその語り方も、あきらかな変化を見せている。子どもの文学が子どもに受け入れられ第一条件し、子どもの真の欲求を理解しそれにこたえることであり、それは絵本でも変わらない。二○世紀イギリスの最高の絵本作家の一人エドワード・アーディゾーニが最初に出した絵本『チムとゆうかんなせんちょうさん』(一九六三)は、日本でもほとんどのブックリストにのるほど高く評価されている。これは、冒険にあこがれる男の子の気持ちを家出と船の上での苦しみと荒れる海での冒険にえがいたものであった。また、太平洋戦争中の一九四一年にH・A・レイが発表した『ひとまねこざる』も今や日本の子どもの必読の名作になっているが、好奇心の強いさるのジョージは幼児そのものであり、彼の失敗は幼児たちの欲望にこたえるものといえる。
 『チムとゆうかんなせんちょうさん』も『ひとまねこざる』も子どもの内面から発想しているのだが、絵になったのは、行動である。人物と事件のかかわりを外から把握してえがいている。そして、このえがき方が、二○世紀初頭以来、一九五○年代まではほとんどの作品にも共通していた。それが、イギリスのチャールズ・キーピング、アメリカのモーリス・センダックなどでは変わっている。
  チャールズ・キーピングは、さし絵画家として、グラフィカルで同時に力強い硬質なさし絵を歴史小説などにかいていたが、やがて『となりのうまとおとこのこ』(一九六六)『しあわせどおりのカナリヤ』(一九六七)『アルフィーとフェリーボート』(一九六八)『ジョセフのにわ』(一九六九)『まどのむこう』(一九六九)などの絵本で人びとを驚嘆させた。
 キーピングの絵本も、絵が多くを語る点ではワイルドスミスやバーニンガムと共通している。ストーリーも短い。その上、黄、紫、にごったピンク、緑などを多用したにじみの多い石版画は、力強く、量感にあふれ、同時にごちゃごちゃしていて、見る目にショックを与える。だからキーピングの絵は、イギリスでもけっして多くの読者、特に大人に迎えられるものではない。
 『ジョセフのにわ』についての「ジュニア・ブックシェルフ」の批評にデザイン、色をほめたのにつづいて、
 「彼に、ジョン・バーニンガムのユーモアがいささかでもあったらと思う。読者は、彼のえがく孤独な少年――彼は孤独をたくみにえがくが――が、人生は悲しく美しいだけではなく楽しいものであることを発見してくれたから、と強くのぞむ。」(一九七○年四月号、七九頁)
 とのべている。
 この評がキーピングの絵本の本質にふれているのではないかと思う。彼の物語のほとんどに孤独な子どもが登場する。病気のおじいさんの馬が売られていったのを、大勢の人たちの協力でとりもどす『となりのうまとおとこのこ』の少年ショーンも大人の中のただひとりの子どもである。ケイト・グリナウエイ賞の『しあわせどおりのカナリヤ』も、カナリヤを媒介として別れた仲良しが再会する話しである。『ジョセフのにわ』に至っては、裏庭に花を植えるジョセフただひとりの世界となっている。
 キーピングは、子どもの内面をストーリーと、行動でえがく絵で表現してはいない。絵は心象風景に近いと思う。アーディゾーニの絵本の少年は、ときどき動きばかりか内にこもるものを強く訴える奥行きを感じさせたが、キーピングは絵全体が、子どもの内面を表現している。ロンドンの街を行き来する子どもの絵は、登場人物と周囲の第三者が目にうつるままにえがいているのではない。それは行き来する子どもの目を通した周囲であり、行き来しながら考え感じている子どもの心の表現である。
 子どもの把握で、キーピングとほぼ同じ立場ながら、彼よりもポピュラリティがあるのが、アメリカのモーリス・センダクであろう。センダクは、キーピング同様ひじょうに多くの本にさし絵をかき、文章家と組んでで絵本をつくっているが、文と絵をひとりで創造したものに、『ケニーのまど』(一九五六)『とおいところ』(一九五七)『ロージーちゃんとドアのはりがみ』(一九六○) 『怪物たちのいるところ』(一九六三)『こいぬのジェニーのたび』(一九六七)などがあり、最新はマザー・グースの童謡やグリム童話などをえらんで独特の絵本をつくっている。
 カルデカット絵本賞を受賞した『怪物たちのいるところ』は、少年が空想の中で怪物たちのいる島まで行って王さまになり、やがて退屈して帰るまでをえがいているが、奇怪さと美とユーモアが自在に表現されていて、子どもたちに非常に受けている。センダクはカルデカット賞受賞のスピーチで、 「たしかにわたしたちは、子どもに、彼らが感性的に理解できない、そして、彼らの心配を強めるような新しい困難な経験をさせまいとねがいます。そして、ある点までは、そのような経験に未成熟な者をさらすことは防げます。それははっきりしています。しかし、それと同様にはっきりしていて、じつによく見過ごされるのは、子どもは、ごく幼いときからものごとをだめにしてしまう感情をよく知りながら生きている、そして、恐怖と不安は子どもの日常生活に本来ある一部分であり、子どもは不断にせいいっぱい挫折感と戦っているという事実です。子どもたちはファンタジーを通して精神の浄化を行なっています。これが怪物をならすために子どもが使える最良の手段なのです。」(ホーンブック・マガジーン、一九六七年八月号)
 少年マックスが手なずけて家来にした怪物たちは、つまり子どもの恐怖や不安のシンボルであり、これが子どもに喜ばれるのは、その積極的でユーモラスな物語に背後に、身のちぢむ思いと必死に戦う子どもがいることに共感するからであろう。
 子どもの心にあるもは、恐怖や不安ばかりではない。『ケニーのまど』は、半分夜で半分昼という夢の国にはいるかぎである七つのなぞを、ケニーがとくいう形で話が進められているが、「ほかの人がやめろといっても、黒板に絵がかけるか?」とか「破った約束のつぐないができるか?」といったなぞは、子どもにとってのみならず大人にとっても、深刻な人生の問題である。センダクの絵本創造の動機は、子どもの心の中で動くものへの興味と共感であり、それを自らが解決し、また現在の子どもが解決しようと苦闘しているようにえがきだしていると考えてさしつかえない。
 彼の本の子どもたちは、ほとんどが繊細で無邪気な雰囲気をたもしだす。怪物たちのところへ行くマックスですら、行動的でありながら、幼さと頼りなさを感じさせる。彼はとびあがりたい喜びを、とび上がる動作で表現するのでなく、とび上がる動作の原因となる喜びそのものを視覚化して表す画家なのである。
 センダクは、自己確認をテーマにしたアメリカ作家フランク・ストックトンの『オーンのハチ飼い』(一九六四)やマザー・グースを独特に解釈した『ヘクター・プロテクター』(一九六五)『こいぬのジェニーのたび』(一九六七)その他をつくっている。それは、もう一人のカレデカット賞作家ユーリ・シュルビッツが、イギリスの作家アーサー・ランサムのロシア民話を『空とぶ船とせかい一のばか』(一九六六)の名で絵本化したのと似ている。シュルビッツはこの民話を差別への批判と考えて視覚化しているから、広大なウクライナ平原の美しい絵の背後には、シュルビッツの理想郷のイメージがひそんでいるにちがいない。そして、それは中世風に田園風景が見られるセンダクの『オーンのハチ飼い』にも、ビクトリア時代のイギリスの自然を思わせる『こいぬのジェニーのたび』の風景にも感じられる。
 物語世界の絵全体から理想郷的なメルヘンの世界が強く感じられるのも、最近のイギリスやアメリカの特徴であると思う。
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