『現代日本の児童文学』(神宮輝夫 評論社 1974)

三、創造的な作品を

 考えてみると、早大童話会の「児童文学宣言」にしても、石井桃子たちの『子どもと文学』にしても、要は、より人間そのものに密着して、そこから子どもに読んでもらえる文学をつくろうということであった。そして、その動きから、幼年向きには『ながいながいペンギンのはなし』(いぬいとみこ)、『いやいやえん』(中川李枝子)、『ちびっこカムのぼうけん』(神沢利子)が生まれ、高学年向きには、『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる)や『赤毛のポチ』(山中恒)などが生まれてきた。だから、現在の子どもの文学は、総括的に見て、戦後獲得した大きなものを失ったとしか考えられない。戦後の努力の空洞化である。
 空洞化には、さまざまな原因があるだろう。個人主義を基礎にする市民社会を自ら形成することのなかった日本人が、体質的に新しい児童文学観を拒絶し、一つの清算をしたともいえる。また、深刻さを増した現在の日本の諸問題が、元来、そうしたものに敏感な子どもの文学を、より性急なテーマのアピールに走らせたともいえる。だが、最大の原因は、創造的想像力のおとろえである。私たちは、今、どの作品を見ても、新鮮な着想、あふれる空想、ゆかいな笑いを見出すことができない。おとろえた心から発するものは、安易な既成のもののくりかえしである。
 もっとも、今、幼年向きの文学に『クマのプーさん』のような遊びの世界を求め、高学年向きの作品にアーサー・ランサムの子どもの世界を求めようとは、私は思わない。世界的に既成の文化が変容しつつあり、まして、人類の未来に暗い影がさしているとき、人間について楽天的な無限の可能性を信じられた時代の子どもの文学を、そのまま手本にするくらい、白々しいものはない。
 ポーランド生まれのアメリカ作家マイア・ヴォイチェコフスカは、今のアメリカの堕落の一因を、物質的繁栄のみを求めて精神の問題を忘れたためと考え、結局は愛によらねば救いはないとして、『ひとすじの光』(ポプラ社、1970)をかいた。その愛の追求のストーリーはすさまじい。主人公は、つんぼでおしの少女である。だれからもかえり見られないこの少女が生きるために必要なのは愛であることを、作者は、まずしいスペインの寒村でまるでけだもののように育つ少女を通じて語りかける。素材そのものが迫力をもつが、人間性を失うぎりぎりの状況におかれた少女は、現在のアメリカを象徴している。この、子どもの本に従来ほとんど見られなかったきびしい設定が、おそらく作者には、今のアメリカなのだろう。子どもと大人をとりまく情勢はここまで苛酷になっている。作者は、その重荷を実感しつつ、なお、人間のすくいを確信して、話をおわらせている。
 私は、暗さの増す人間の未来について、暗く、深刻な物語をかけといっているのではない。子どもの文学を創造する人たちは、常に時代に敏感であれといっているのである。そして、子どもの文学は、人間と社会についてのもっとも基本的なことを考える文学であると思うから、時代についての考察から、子どもの理解にもっともふさわしい素材をつかい、ストーリーをつくって構成し、テーマを効果的に伝えるようにすべきだと思うのである。
 元来、日本の児童文学作家は、現実の諸現象をそのままつかう傾向がつよく、ヨーロッパ、アメリカの作品のように、子どもの発達段階に即した素材に置きかえて表現することをあまりやらない。だから、ともすると、現象の処理に追われて、現象の背後にある法則性を把握できなかったり、人物たちの思考や行動を通じて、現象を浮きぼりしたりできない。
 公害の大部分は、政治があらたまれば、片づくことであろう。私たちは、その点、無為無策な政府をあらゆる機会を通じて批判し、問題のありかを知ったり知らせたりしていかなくてはならない。だが、同時に、公害を、文明と自然との関係においてとらえる目ももたねばならない。つまり、人間の生活の向上と必然的につながっている問題として考えられなくてはならない。その点が、日本の児童文学ではつねに欠けている。人間の生活の基本についての考察がほとんどの作家にないから、いつも、現象の常套的処理と希望的結末におわり、人間そのものが周囲とのつながりにおいてとらえられることがない。
 児童文学は、たしかに一種のブーム現象をおこしている。だが、それは、子どもの読むものについての一般の関心のたかまりや、出版の好況という外的な要因から来るものであって、すぐれた多くの作品の出現によって切りひらかれたものではない。いわば、需要に供給が追いつかず、ひどいものが氾濫している。このまま推移すれば、すぐに、読者の側からあきられることは目に見えている。児童文学とはなにかが、真剣に考えられた五〇年代から六〇年代前半にたちかえり、あたらしい状況の下での児童文学を考えなおす時が来ていると私は思う。いずれにしても、ここ数年は、将来の児童文学史の中で、よいものがほとんどなかった一時期として位置づけられるにちがいない。
(テキストファイル化八木のり子)