三 「学童」と「児童」の差異
 
 1 『当世少年気質』『暑中休暇』研究という問題

 明治二五年の言説空間を考える時、次の続橋の指摘は重要だ。木村小舟『少年文学史』の「都会中心に傾ける難もありて、一般地方の少年の理想には、聊か遠ざかれる点」「心境に一致せるや」、菅忠道の『日本の児童文学』「作者の目が常に上流階級の側にあ」り「貧しい勉強好きな少年が、お邸の坊っちゃんに認められ、勉学仲間としてお邸に引きとられるようになる、といった通俗的な筋は、明治的な立身出世の裏返し」を引用し、「あまり読者に歓迎されなかったらしい」と指摘する(21)。また、実質就学率が五O%を超え、「立身出世」が内面化されるのは明治三O年代であった。即ち、「立身出世」を内面化した読者は、地理・階層・性別の三重に分節され限定されていたのである。
 少なくとも明治二五年の言説空間においては、両テクストが「立身出世」を描いたrepresentとするのには慎重でありたい。何故なら、小波が描いたのは自らも含めたごく限られた階層でしかなく、大多数の非資格者を「描いた」訳では決してないからである。しかも、「立身出世」というコードに対して最も親和的であったはずの<少年文学>叢書読者層の「心境」にさえ訴えることかできなかったのだから、その試みは明治二五年の言説空間においては「失敗」であった。小波が自らのコードに従って「描いた」結果が「失敗」ならば、その「失敗」であったはずの前期立身出世主義のみを批判するのは的を逸している。にもかかわらず「立身出世」をめぐって批判が展開されるのは、日清戦争以後の歴史を参照枠に、結果から原因を推定する転倒を犯し、後期のそれを暗黙裡に前提しているからである。問題は、「失敗」したにもかかわらず、後の歴史的経緯から言えば「成功」したように見える試みのどこに、失敗/成功の要因が認められるのかという一点に尽きる。よって、単に「立身出世」として否認することで安易に両テクストの差異を一蹴しないためにも、明治二五年という言説空間の位相の 確認が必要だったのであり、そこではじめて両テクストの差異を議論することができるのである。
 ともに教育勅語と日清戦争の狭間にあり、小学校祝日大祭日儀式が実施されてすぐの『当世少年気質』と御真影の複写による小学校への下付が浸透した『暑中休暇』との差異を考えた場合、たかだか九ヵ月ほどの間に、臣民=学童と国民=児童とが等号で結ばれるほど急速に、ネーション(臣民=国民という二重体)が形成されつつあることをまずは指摘できる。確かに、学校―国家を受容するネガティブな学童=臣民像と学校―国家を既に自明であるかの様に「主体的」に行動するポジティブな児童=国民像は対照的で、前者が学童=臣民像を、後者は児童=国民像を提出したと暫定的に指摘できよう。しかし、学童は必ずしも臣民ではない。そのように体制が要請するだけだ。それが内面化されてしまえば、もはや学童ではなく、それは児童=国民である。よって、「学童―で―あること」が問題なのではない。学童が児童に接続されてしまう点が問題であることを確認した上で、学童/児童の差異の考察という本稿の主題に取り組むことにしよう。

 2 「学童―で―ある」ということ   
 『当世少年気質』Aは『西洋立志編』が渡されるまで、Cも「答辞」を任されるまでしか提示しない。即ち、「立身出世」を「知る」までが提示される。ここで、両少年の直前の「沈黙」に留意したい。小太郎は「只俯視したまゝ」で、三郎も「首を垂れて黙ってしま」う。@の小僧はただ「點頭く」ばかりだ。久米はC「人は外形より内心」に「一旦言葉を失った三郎が、「答辞」を述べることで言葉を奪還し、それどころか<公>の権威に連なる言葉の持ち主として他の生徒を圧倒してしまう、<ことば>をめぐるドラマ」(久米、注16)を指摘する。これは『当世少年気質』における「沈黙」の意味を示唆している。但し、三郎が失った言葉と与えられた<ことば>は明らかに異質で、かつ、未だ<ことば>を発していない点は強調されなければならない。また、小僧には<ことば>がそもそも「与えられて」いないので、英麿とは「会話」ができなかった。即ち、この<ことば>とは「<公>の権威に連なる」ものなのだ。<ことば>を発した途端、否応なく体制にsubjectする「児童」として存してしまう危険に晒されていると言える。よって、三郎が<ことば>を未だ発話していないという事態 は、『当世少年気質』の少年が学童/児童の狭間に晒されている点を開示しているのだ。
 翻って『暑中休暇』の少年達は冗舌だ。『当世少年気質』が<ことば>を「与えられる」までの物語ならば、『暑中休暇』は<ことば>を「与えられた」後の物語だと言える。<ことば>の獲得が何を意味するかは、(2)(4)に顕著だ。(2)は階層を超えた交流を提出するが、それが可能なのは、読書・唱歌など学校というコード=立身出世が共有される限りであった。逆に、「鶏群の一鶴」では<ことば>が共有されていないため、「交流」は持続しなかった。<ことば>獲得後の物語である本書は、『当世少年気質』と違い、少年のその後を提示する。即ち「此の二人の美名は、暫く新聞紙上に謳はれて、少年の亀鑑と評判」になるという後日談で「立身出世」が語られる。(4)では、<ことば>を「持たない」女・立ン坊の差別化によって、少年の会話が成立する。以上のように「主体的」に行動する「児童」が差別化によって成立している点は、強調されなくてはならない。しかし、このような事態が単なる「<公>への従属」でなく、「<公>による自律」として「主体的」に遂行されている点を見逃してはならない。つまり、前期立身出世主義にではなく、むしろ「児童―で―あること」 に後のナショナリズムのロジックを指摘することができるのである。端的に言えば、臣民/国民というネーションのロジックそのものにナショナリズムは内在しているのだと言える。しかし、明治二五年という言説空間を考慮した時、「あまり歓迎されなかった」『暑中休暇』の少年に安易に「児童」を前提するには注意を要することを、繰り返し強調しておきたい。
 以上のことから、「式典」の欠席を考えることのできた(当初「式典」は「普段着」と等価でしかなかった)三郎に、「臣民としての学童」に回収されない余地が存したことが指摘できる。学業の成績が一番である点ではまさしく「学童」だが、それは没落武士である「親」の期待に応えるために過ぎず、「臣民」であるとは必ずしも言えない。また、<孝>を媒介とせず<忠>に直結するような「立身出世」というコードが宙吊のままである点に留意するならば、未だ「答辞」を発話していない三郎は、「国民としての児童」に回収される存在でもない(22)。よって、逆説的に、臣民でも国民でもない「自由」を指摘できるのではないか。三郎を「立身出世する子ども」と総括することは、「非―児童」である三郎を「児童」になるであろう存在としての「未―児童」に回収するばかりか、「学童」を「臣民」と直結することで「非―臣民」としての在り方を「未―国民」に横滑りさせてしまう二重の意味で問題なのだ。学童を臣民として、更に児童/国民として理解してしまう以上のようなロジックこそが、ネーション・ステイトの文法に他ならない。
 導きの糸であった「立身出世」というコードに即して言えば、明治一O年代の特権階層の「立身出世主義」もしくは「勉強立身」の時代が、明治三O年代以後、現在にまで到る「学歴主義」時代へと転換する過渡期として、明治二O年代は位置付けられるのであり、そのような過渡期の言説編成を体現してしまっているのが以上のような「三郎」のアンビバレンスな情況であったと言えよう。

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