おわりに
明治二五年一月と九月の言説編成に着目した時、『当世少年気質』と『暑中休暇』を「立身出世」として総括することは、その間の急速なネーション・ステイト形成の事態を隠蔽してしまう。また、テクスト自体に提示されている内容からも、その差異は強調されて然るべきだ。従来の研究は、両著の同一性に拘泥するあまり、その差異を看過してしまっていた。しかし、学童/児童という差異への着目が開示するのは、単に両著の「違い」ではなく、ネーション・ステイト形成における問題構成であった。
『当世少年気質』においてはからずも露呈されている、臣民でも国民でもないような(児童でない)学童の在り方は、明治二五年一月というネーション・ステイトの形成期であったからこそ、可能であったのかも知れない。つまり、この時期の言説空間においては、たとえ「学校」に通学しているような学童であっても、未だ抽象的な概念に過ぎない「国家」に自らを無媒介的に接続させるような「立身出世」というコードは奇異なものでしかなかったのだろう。よって、それが「与えられる」までしか提示presentationすることができなかった。そして『暑中休暇』において、実質が備わったものとして再―提示re‐presentationするものの、「歓迎されなかった」。明治二五年九月の言説空間では、同年一月のそれと比して、ある程度は規範化されつつあったのだろうが、未だ自明ではなかったのである。即ち、両著は「立身出世」を「提示」presentationすることにことごとく「失敗」したのだ。その「失敗」にこそ、日清戦争以後、容易には見出だせないネーション・ステイトの綻びが露呈しているのであり、そこに着目することで、ネーション・ステイトという現在にまで続くパラダイムを議論の俎 上にのせることができよう。少なくとも、「立身出世」というコードから体制を批判する行為が、明治二五年の言説空間において「失敗」した試みを、まさしく「成功」させてしまう意味で、批評者の意図に反して、体制の論理を補完する言説に横滑りする危険性を、自戒をこめて強調しておこう。
なお、学童/児童の差異は既に、柄谷行人「児童の発見」で指摘されている(23)。
日本の児童雑誌は、明治二十年代に、そのような学校教育の補助として、あるいは「 学童」のために出現している。その内容を批判するまえに、学制がすでに新たな「人間」あるいは「児童」をつくり出していたことに注意すべきである。(一八五頁)
但し、柄谷論文は、『こがね丸』を問題にしつつも、ほぼ同時期の『当世少年気質』『暑中休暇』に言及していない点は不十分であった。柄谷論文は「真の子ども」が転倒である文脈で議論されることが多いが、それは「転倒の転倒」に過ぎず、まずは「児童」こそが転倒であったのだ。議論されるべきは、「学童」もしくは「立身出世」ではなく、「児童―で―あること」が孕む問題群に他ならない。だからこそ、「児童」が「あるいは」と「人間」に接続されているのである(この「人間」は「先験的=経験的二重体」[フーコー]である)。学童/児童の問題構成を見ない議論は、ネーション・ステイトにおける体制と諸個人の権力関係を抑圧史観として、一枚岩的に捉えてしまう危険性があるのではないか。なお、本来ならば、明治三三年『少年世界』に掲載された小波「少年小説」群に言及しなければならないが、もはや紙数も尽きたので、稿を改めて論じることにしたい。
(注)
1 前田愛「子どもたちの変容」(前田愛著作集第三巻『樋口一葉の世界』筑摩書房、一九八九)。
2 畠山兆子「巌谷小波・少年文学の検討―『こがね丸』から『当世少年気質』へ」(「梅花女子大学開学二十周年記念論文集」、一九八五)。
3 横谷輝「童話の成立とその展開過程」(講座児童文学第四巻『日本児童文学史の展開』 明治書院、一九七三)。
4 桑原三郎「解説」(『日本児童文学大系 第一巻』ほるぷ出版、一九七七)。なお、言文一致に関しては稿を改めて言及したいので、前掲論文の他、中村哲也「児童文学生成期の<語り>の諸相―巌谷小波における<語り>の伝統と<声>の文化」(文学と教育の会「文学と教育」25集、一九九三)などの先行研究を挙げるに留める。
5 続橋達雄『児童文学の誕生』(桜楓社、一九七二)第四章「叢書「少年文学」の概観」。
6 李孝徳『表象空間の近代』(新曜社、一九九六)第九章「権域の空間」参照。
7 天野郁夫『学歴の社会史』新潮社、一九九二年、一三六頁。
8 柏木敦「就学の形成と学校観の位相」(教育史学会「日本の教育史学」39集、一九九六)によれば「一旦は“就学"したとしてもそれはいつでも不就学に転じうる」ものであったため「当局者としても形式的な就学率の好転は信頼に足るものではなかった」。
9 前田愛「明治立身出世主義の系譜」(前田愛著作集第二巻『近代読者の成立』筑摩書房、一九八九)。
10 竹内洋『立志・苦学・出世―受験生の社会史』講談社現代新書、一九九一年。
11 李、前掲書参照。なお、日露戦争後に「国民文学」が成立することから、ネーション・ ステイトの確立を日露戦争を契機に見るのは、糸圭秀美「「国民」というスキャンダル」 (「批評空間」U―13、太田出版、一九九七年四月)である。
12佐藤秀夫「わが国小学校における祝日大祭日儀式の形成過程」(日本教育学会編集『教 育学研究」第三O巻第三号、一九六三年九月)。
13牧原憲夫「万歳の誕生」(「思想」八四五号、岩波書店、一九九四年一一月)。「想像の共同体」は「国民は[イメージとして心の中に]想像されたものである」とするB・アンダーソン『想像の共同体』(リブロポート、一九八七)、「共感の共同体」は酒井直樹『死産される日本語・日本人』(新曜社、一九九六)を参照のこと。
14多木浩二『天皇の肖像』岩波新書、一九八八年。天皇制における視線の政治学は、李、 前掲書およびタカシ・フジタニ『天皇のページェント』(日本放送出版協会、一九九四)を参考にした。なお「巡幸」に関しては、佐々木克「明治天皇の巡幸と「臣民」の形成」(「思想」八四五号、岩波書店、一九九四年一一月)を参照のこと。
15ミシェル・フーコー『言葉と物―人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳、新潮社、 一九七四年、三三八頁。
16久米依子「『当世少年気質』考―明治少年の<ことば>―」(日本女子大学国語国文学会編「国文目白」第三一号、一九九一)。本稿のスタンスは久米のそれと必ずしも一致しないが、いくつかの点で問題を共有しており、多くの示唆を得た。
17久米依子「『暑中休暇』考―明治少年の夏休み」(目白学園女子短期大学国語国文科 研究室「国語国文学」第一号、一九九二)。但し、久米の「家族」に関する議論ではイエが前提されているようだが、『暑中休暇』「帰省」に「団欒」というホーム論の鍵語があることから、単にイエを指示するのみならずホームを含意させた方がよい。「親の言動に振り回され束縛されるのではなく、<家>との親和的関係を保つようになった」 という「変化」(久米、注17)は、そのウエイトがイエからホームへと移行したものと理解される。おそらく、ほぼ同時期の若松賎子訳『小公子』が「女学雑誌」で「ホーム」を体現していたことと相関している。この点に関しては、拙稿「近代家族形成史から見た児童文学」(神戸大学国語教育学会「国語年誌」15号、一九九六)および拙稿「若松賎子訳『小公子』による「教育する母親」の言遂行的構成−明治二〇年代前半における「日本児童文学」の言説編成」(「国語年誌」16号、一九九七)を参照のこと。
18前田愛「遊びの中の子ども」前田愛著作集第三巻『樋口一葉の世界』所収。
19「汽車に乗って旅行し、あるいは郷里から勉強のために上京する。また彼等の「評判」や「記行」文は、新聞や雑誌という<近代的>メディアに載って、広範囲の人々に読まれていく」と指摘するのは久米論文である。メディアの編成によるネーションの議論は、李およびアンダーソンの前掲書を参考のこと。
20「大村兵部大輔の銅像建設場」とは明治二六年に「靖国神社」に建設中であった軍事制度の功労者「大村益次郎の銅像」を指し、「楠正成の銅像」は明治三三年に皇居前広場に建設された(フジタニ、前掲書、一一O頁参照)。「観兵式」「士官学校」などの記号とともに明治二O年代の言説編成を示す見事な言表の一例であると言えよう。
21続橋、前掲書。なお、該当箇所は木村『少年文学史 明治篇上巻』(童話春秋社、一九四二)一六一頁、菅忠道『日本の児童文学』(大月書店、一九五六)三八頁である。
22<孝>は個人と国家との間にイエを介在させ、個人と国家を直接に接合する家族国家観 の障害となる。そこで、元来は「孝忠」であった儒教の位階を「忠孝」と逆転させたという(上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』岩波書店、一九九四)。むしろ、個人を国家に直接接合したのはホームであった(牟田和恵『戦略としての家族』新曜社、一九九六)。「<孝>からの解放」が「<公>への従属」として現れるのは、このためである。
23柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、一九八O年。但し、引用は学芸文庫版に拠る。
(付記)
引用文の表記はルビを省略し、旧字は適宜新字に改めている。
(めぐろ つよし 神戸大学大学院教育学研究科)
(初出、日本児童文学学会「児童文学研究」30号、1997年)
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