44号 2001.08.25

       
【絵本】
『クジラがとれた日』(小島曠太郎 えがみともこ ポプラ社 2001)
 インドネシアのレンバタ島ラマレラ村。
 クジラをとって生活する人々の写真絵本。
 船をこぎ、クジラを探す時間の静けさ。
 捕獲のダイナミックなワンカット。
 そして、浜辺での解体作業の子供も含めた活き活きした様。
 その表情を見ているだけで、こっちまで幸せになってしまいます。
 こうした捕鯨の風景は、乱獲とは無縁の世界で、捕鯨問題を考えるとき、別の角度の見方として、これ、いいと思う。
 3部作で、あと2冊刊行されるようです。
 たのしみだなー。(ひこ) 
 
『クジラがとれた日』(小島曠太郎 えがみともこ ポプラ社 2001)
 舞台は、インドネシアのレンバタ島レマレラ村。ここでは、四百年前から現在まで、手漕ぎの船とモリだけで、クジラ漁を行っている。マッコウクジラの潮吹きが発見されると、村人たちは船を漕ぎ出し、クジラと人との勇壮で壮絶な闘いが、まるで荘厳な儀式のように繰り広げられる。
 見返しには、インドネシアの伝統的な織物、イカットを配し、タイトルバックは海に面した明け方のレマレラ村の光景。最初の見開きいっぱいに、クジラの影を映し出す大海原が広がる。そして、バレオ!(モリ綱を持ってクジラを追え!)の掛け声とともに、船が海に押し出される。写真絵本ならではの、臨場感が素晴らしい。
マッコウクジラの姿が浮上すると、モリ射ちはモリとともに宙を飛ぶ。決定的な瞬間を写し取った、この場面には息を呑む。クジラにモリが射ち込まれると、次の見開きから、白縁の中に色調を青黒色に抑えた写真に変わり、レマレラ村の伝統的なクジラへの畏敬と共生が語られる。こういった場面展開の工夫は心憎いばかりだ。
クジラを捕獲して解体し、捨てるところ無く村中に配分されて、「村で一番幸せな日」を迎えた村の賑わい。十年近くのあいだ村を訪れ、見事な「命の物語」を紡ぎだした、出色の写真絵本である。(野上暁)

『世界の鳥の巣の本』(鈴木まもる 岩崎書店)
 なんてわかりやすいタイトル!
 説明の必要なし。
 図鑑は、必要に応じて参照しますよね。
 でもこれ、250種の鳥の巣をうまく分類していて、読み飽きません。
 見せ方の巧さです。
 鳥、じゃなく巣博士になれそう。
 子どもに戻って楽しめます。(ひこ)

『太鼓』(三宅都子・文 中川洋典・絵 エルくらぶ 2001)
 「人権総合学習 つくって知ろう! かわ・皮・革」シリーズの第一作目。
 この絵本、1から7章まで中川洋典の画と共に、太鼓とはなにか、胴の切り出し、くりぬき、生の皮を乾かし乾皮とし、薄く梳くまでを描き、8章で、写真によって完成までをもう一度最初から説明をしています。そして9.10章でまた中川の画になり、11,12で、自作太鼓とその叩き方、13で大阪渡辺村の太鼓職人の話、そして「渡辺村」の注として、「現在の大阪市浪速区の西部にある、大阪人権博物館のあたり」が記述される(おそらく、「、」は「。」のミスでしょう)。13章本文末近くの「(前略・ひこ)太鼓職人の技術は、社会の中ではみとめられていません。すばらしい技術を持っているのに、なぜでしょうか。考えてみてください」とのほのめかしの姿勢が気に掛かる。子どもへの「啓発」の言葉、目線を再考したほうがいいと思う。これでは「学習」になってしまう。もっと、子どもを信用して、ストレートに部落を語っていいのでは?
 私は、人権問題啓発用のテキストとして絵本というメディアが利用されるのはかまわないと思う。というか、メディアにはそうした資質があるからだ。太鼓とそれを巡る歴史と職人を描いたフィクション絵本。『太鼓』はまずそうして、あり、それが啓発につながればいいのだ。そのとき、大部な書物にもなるであろう内容を、短い尺の絵本にするにあたって、どこをどう圧縮し、カットし、入れ替え、書き加えるかが気になる。例えば、『フリズル先生』シリーズや『ひがんばなのひみつ』などのかこさとしの仕事を思い浮かべながら読む。そのどちらもが過剰に情報を詰め込んでいるにもかかわらず、一つの絵本として、絵本以外にはあり得ない作品として成立していることを。『太鼓』の場合、全体の構成があいまいな感は否めない。伝えたいことがたくさんあるのはわかるし、それをなんとか絵本の尺に入れようとした努力も伝わってくる。しかし、ならば9章の「こんな太鼓もある」や10章の「こんな演奏もある」や14章の「世界の太鼓」は思い切ってカットしてもよかっただろう。「太鼓」を読者に広いイメージでとらえてもらおうとの意図はわかるが、それが却って焦点をぼやけさせている。前半の3章から7章までの太鼓の作り方の部分は、とてもおもしろいのに。
 「人権総合学習 つくって知ろう! かわ・皮・革」との、皮から見る発想はいいと思う。次作は絵本として仕上げる意味をもう少ししぼって欲しい。(ひこ)

『もうひとつの世界 妖怪・あの世・占い』(国立歴史民俗博物館編集 常光 徹〔ほか〕著 伊藤 展安画 岩崎書店 2001)
 国立歴史民俗博物館(http://www.rekihaku.ac.jp/)が夏休みに企画している展示会と連動した書物。常光さんは「学校の怪談」でおなじみですね。
 妖怪とあの世と占いがつながらないわけではないですが、「妖怪・あの世・占い」と並べられると、なんかヘン。イメージがわかない。
 見せ方は会場の展示とおりかもしれません。ひょっとしたら文も、会場のキャプションと一緒だったりして。それだとパンフレットのハードカバー判になってしまう。
 絵巻や浮世絵、掛け軸などの資料画のパワーはすごくて、このうえなくおもしろい。それだけでもう、充分満足できる。でも、伊藤展安の画は本当に必要だったのだろうか。資料画と並べられると、そのズレは目立つ。ここではそのスペースをもっと説明に割いて欲しかった。(ひこ)

『マロンちゃんの はじめてのおつかい』(すながよしあき 岩崎書店 2001)
 マロンちゃんシリーズ第2作。
 すながの画は、巧みだとか、印象的だとか、叙情が感じられるとか、激烈だとか、そーゆーものではない。一言で言えば、「わかりやすい」になります。これは、ベタにかなり近いものなのですが、その画が決して不快感を喚起しないところがいい。描かれる人のしぐさなどが、どこかヘンなのも、おもしろい。それもまた、ユーモアに見えてしまうのが、この作家の資質。ストーリーもタイトルのまんま。お約束通り、安心してラストが迎えられます。
 すながのサイトは、以下。(ひこ)
http://www12.u-page.so-net.ne.jp/qa2/y-sunaga/

『キタキツネのあかちゃん』(福田幸広:写真 結城モイラ:文 ポプラ社 2001)
 『タテゴトアザラシのおやこ』のコンビによる、最新写真絵本。前作でも指摘しましたが、写真はいいのですが、文の感情移入されているところが気にかかる。「キタキツネの親子」といえば竹田津実の仕事が自動的に思い出されるのですが、それとは違う何かを期待します。
 母ギツネを「おかあさん」と書いてしまうことの危うさ。
 ここでの文の「おかあさん」は「母ギツネ」に入れ替えても成立します。ということは、ここで結城は「母ギツネ」を「おかあさん」にズラしてしまっているのです。
 そんなことしなくても、ちゃんと感動は伝わる写真ですのに。(ひこ)

ふしぎなあおいバケツ』(なりた まさこ:作・絵 ポプラ社 2001)
 『いちょうやしきの三郎猫』(講談社 1996) で印象的なデビューを果たした成田の新作。
 『てぶくろ』(エウデーニー・M・ラチョフ え うちだ りさこ やく 福音館書店) の発想で、『おおきな おおきな おいも』 (赤羽末吉 福音館書店) 的見せ方もした絵本。雨上がり、サナが公園にいくとみずのたっぷりはいった青いバケツがあり、中に入るとそれが大きくなって、つぎつぎと動物が入ってきて、どんどんどんどん大きくなって、ついにはクジラまできて、見開きでは収まらない絵となり・・・というもの。
 民話である『てぶくろ』の奥深さや、刻銘に描くラチョフの画や、『おおきな おおきな おいも』のパワーはここにはありませんがそれを求めても時代的に無理というもの。始まりから終わりまでちゃんとした展開の中に、安心して身を任せる、そんな絵本でしょう。(ひこ)

創作