じどうぶんがくひょうろん

1999/06/25号 通巻18号
           
         
         
         
    
『さあ、ゆめのじかんです』絵本(サーラ・ファネリ 掛川恭子訳 1999/1999)
 ゼノと犬のブブとコトリ、三者が別々のヘンな夢を見る、はてさてそれらをつなぎ合わせると・・・・。
 コラージュの絵がなんとも楽しい一冊。遊びの心。ただ、日本語の手書き部分が小さくて読みにくい。アルファベットならよめるんだろうけど、ひらがなの場合はもう少し工夫して欲しい。そんなところで躓いてしまっては、せっかくの世界がもったいない。編集者の腕の見せ所なんですけどね。

オカミのごちそう』絵本(田島征三え 木村裕一ぶん 偕成社 1999)
 豪華なユニットによる絵本。ある日美味そうなこぶたを食べ逃したオオカミは、絶対食べたいとこぶたの逃げた山を登る。途中でやぎたのにわとりだのおいしそうなタベモノがいるのに、「美味しいこぶた」のイメージに囚われたオオカミの目には入らない。どんどん痩せていくオオカミ。それに反比例して頭の中でどんどん丸々と美味しそうになっていくこぶた。
 左から右への絵と物語の流れは呼吸があっています。そして子どもの気持ちとも。
 しかし、最近オオカミって、こんな役回りがおおいなー。

どものための美術入門 1 名画のなかの動物』絵本(コリーン・キャロル文 斉藤律子訳 くもん出版 1996/1999)
 タイトルそもままの絵本ですが、これは今月のオススメの一冊。
 作り手の言葉をまず、お読み下さい。
「わたしは、自分で探検し発見することが、子どもたちにとっていちばん有効な学習方法だと思っているので、この本でも、たくさんの質問をなげかけています。でも、ほとんどの質問には答えをだしていませんし、答えがふたつ以上ある場合もあります。」
 わー、まったくその通り。
 この人、小学校の美術の先生なんだけど、こーゆー先生に教えられたら、美術じゃなく、世界が楽しくなるでしょう。つまり、「物の見方」の自由さを教えてくれるのね。
 もちろんこの人美術の先生だから採り上げるのは、古代の壁画から絵画、オブジェなどなのやけど、それらを取り敢えず「動物」って限定した括りにすることで、壁画も絵画もオブジェもみんな同列にして子どもに渡せるの。限定って不自由みたいだけど、限定からどう自由な発想を汲み上げていくかが、ここではとてもリアル。
 これをそのままマネしたら、不自由な授業になるけど、この方法を自分のやり方として組み入れれば、おもしろい授業になるでしょうね。
 いやいや、そんなこと関係なく、ただの読者としても、心が柔らかくなりますよ。
 
『うつくしい子ども』田衣良 文芸春秋 1999)
 いわゆる、「14才」物の一冊。
 などと、「14才」物ってジャンルのように言えてしまうこの国の事情は、寒いですが、それはさておき、この作品は児童文学ではなく、あえてくくるならミステリィに属します。
 視点は二つ。少年Aの兄、ジャガことミキオの一人称と、社で「少年」と呼ばれる若手新聞記者山崎に据えた三人称。ジャガの一人称だけでは袋小路に入りかねない命題を、別の視点(人称も変え)を挿入することで回避しようということやね。これは前半はうまくいっています。少年Aが逮捕され、審判あたりまでは。ただ、後半ジャガが弟が何故犯行に至ったかを探る過程(ここからミステリィ)からは、チト苦しい。端的に指摘すれば、山崎が絡む場所がないのですね。けれど、ラストでナルホド、ここに引っ張ってくるには必要かと納得。
 タイトル、山崎のニックネームが「少年」、舞台が夢見山地区など、シンボルの指すところは明瞭でしょう。こうした明瞭さと、ジャガの探索に行動を共にする友人二人のキャラ立てのあからさま(でも、好きです)さのため、ジャガが薄いのですが、これは致し方なしか。
 児童書ではなく、ヤンアダでもなく、子どもを設定したミステリィ仕立て物は割と多くありますが、案外そうしたジャンルの隙間に、書きにくい素材を書ける場があるのですね。『ゴールド・ラッシュ』となら、こっちを押します。

「妹は八歳で東野第三小の三年生。今日は小学校を休んで、どこかの貸スタジオで地元のスーパーのチラシモデルかなんかをやってる。とうさんの転勤で東京から離れてかあさんは残念みたいだ。ミズハには才能があるとかあさんはいう。妹は力メラマンにほめられるとその表情をすぐにおばえて、何度でも同じ顔ができるんだそうだ。だから撮影をするたびに表情の引き出しがどんどん増えていく。ミズハが売れっ子になるまでは、かあさんはカズシのステージママをやっていた。妹と弟は同じモデル事務所の所属。ミズハの仕事が急に増えて、かあさんが妹にばかりつくようになると、もともとモデルの仕事など好きではなかったカズシは事務所をやめてしまった。
 ぼくはモデル事務所のオーディションにさえ連れていかれたことがない。ミズハやカズシのようなうつくしい子どもじゃないから。ぼくはおぼえている。かあさんは妹と弟がちいさなころ、ふたりのほっぺたにキスしながらよくいっていた。
「この子はうっくしい子どもだわ、おおきくなったら、きっときれいでかしこい人間になる」
 ぼくはそんなふうにいわれたことはない。」32

「やっぱりカズシが犯人なんだ。カズシは妹のミズハと同じ年の女の子を殺したんだ。殺してから人形みたいに吊して乳首を噛んだんだ。それからあのふざけたサインを残したんだ。バカヤローだ。どうしようもない。
 殺された女の子がかわいそうだった。同じ年のミズハがかわいそうだった。とうさんもかあさんもかわいそうだった。
 それに、いってはいけないことなのかもしれないけれど、ぼくは弟のカズシがかわいそうだった。人を殺したあとも生きていかなきゃいけないカズシがかわいそうだった。
 ぼくはその日初めてすこし泣いた。でもゆっくりと泣いてはいられなかった。」080

『いろいろあってもあるきつづける』絵本( 田島征三著 光村教育図書 1999)
『シマ』絵本(野見山暁治文・絵 光村教育図書 1999)
『いろながれかたちうごいてぱぴぷぺぽ』絵本(元永定正文・絵 光村教育図書 1999)
『ぼくとぼく』絵本(福田繁雄文・絵 光村教育図書 1999)
『うたがきこえる』 絵本 (谷川晃一文・絵 光村教育図書 1999)
 「光村のアーティスト絵っ本!」とのキャプションがついたシリーズ五冊が一挙公開。
 「アーティスト」を全面に出している意図はアーティストが何にも囚われずに作った絵本ってことなんでしょう。でもそれっだったら、「絵っ本!」なんてダジャレは止めようよ。これってちっともアートしていないよ。「っ」は取りましょう。出来れば「!」も。
 さて、本体は、
 ろいろあってもあるきつづける』は帯の作者の言葉にあるように、田島が過去に描いた絵をコラージュして構成された、面白い物。「ぼくが創った絵本の中で、いちばん大切な作品になりました」との言。ただし本人にとって「いちばん大切な作品」と読み手にとってはもちろん別の話。絵は面白いけれど、文がタイトルからしてすでに過剰に意味を放出していることからもわかるように、弛緩している。
 一方マ』は、おそらく作者のアトリエから見える島への思索を絵にした仕立てで、文は必要最小限度に押さえられ、絵の爆発を誘っている。
 ろながれかたちうごいてぱぴぷぺぽ』はもう、タイトルからなんじゃそれは?! であり、本編もその通りで、とてもモダン。「いろかさね ながれさんぼん てけてけて」・・・・・・・・・・わからん・・・・が、そうした言葉と絵が合うんですね、これが。アートです。
 ぼくとぼく』はタングラム(色んな断片を巧く合わせると正方形になったりするパズルあるでしょ。あれです)をベースに、緑と赤色だけがちがう同じタングラムが様々に形を変えて、友達になっていく、という構成。いかにも福田らしいトリッキィさと、シンプルなタングラムの変化のさまが、楽しめる一冊。ただ、どうしても「あおくんときいろちゃん」を思い浮かべてしまうけどね。
 『うたがきこえる』は、あさから始まって、よるまで、はるからふゆまで、そらからつちまで、あらゆるところから谷川が聴いたうたを絵にしたイメージ物。キュヴィズムな絵がとっても懐かしい一品。

イマはちび悪魔2/ダイマなぞのかいがら』(寺村輝夫作 永井郁子絵 理論社 1999)
 「ンガンガ ンガ ンカンチント ダイマの、まほうのじゅもんだ。さかさまに、よんでごらん。」で始まるシリーズ2作目。この始まりのとてつもないアホらしさがやれるのがこの作家のすごさなんです。で、そうしたアホらしさのコーティングで、メッセージはちゃんと入っている。今回は流通と欲望かな。中味は濃いんですね。