『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

3 メルヘンの復権―立原えりかを通して

メルヘンを、機能として「詩的凝縮によるテーマの伝達」とし、本質として「民衆あるいは作者が、夢という器をかりて、その中に世界の不思議と真理を盛ったもの」とするならば、立原えりかの諸作品は明らかに『メルヘン』であるといえるだろう。(注1)
メルヘンという舶来語が日本で定着した背景に、グリム民話やアンデルセン童話の翻訳が貢献したのは事実だが、ドイツでは文豪ゲーテの「新メルジーネ」をはじめ、ロマン派のノヴァ―リス、ティーク、フーケーなども優れたメルヘンを書いており、近くはナチスに捕われたヴィーヘルト(注2)にも見られる。これらは、子ども読者のみを意識した作品ではないが、現実を象徴として表わすメルヘンは、子ども読者にとって最もふさわしい形式の一つと思われる。シンプルな筋立て、明快なテーマ、くり返しの妙、簡潔なことば、リズムのある語り口――どれをとっても「赤ずきん」や「シンデレラ」という子どもたちが最も好む民話にあるものである。だが、もともと民話から発展したと思われるメルヘンが、子ども読者を意識して書かれたとき、そこに陳腐なプロパガンダか作者ひとり遊びの世界でしか生まれないのは悲しい事実である。
メルヘンに必要なのは《人生》に対する深い洞察であり、そこから生まれた主張を愛情をもって読者に語ることだと思えるが、立原えりかほど、よくもわるくも読者を意識しない作者は少ない。児童文学が子どもの中に普遍的に流れる欲望(インタレスト、エンターテインメント)によって成り立つものであり、子どもの成長を願う大人たちによって向日性を望まれるものであるなら、立原作品は異質であり、乱暴な言い方をすれば大人になりたくない数少ない熱烈なファンによって支えられているといえるだろう。よく似た例は宮沢賢治の中にもあるが、エスペラント語を駆使した賢治も立原作品にあるういういしいロマンスとは無縁である。
妖精、王女、ガラス、ワルツ、テラス、塔、オパール・・・・・・というエキゾチックな言葉があふれ、月、星、風、光、虹、潮、森・・・・・・という詩的な言葉をちりばめた作品は、ともすればできの悪い陳腐なうすっぺらさを感じてしまう。だが、深い洞察と強靭な精神をもつ立原は、執拗なまでの人間信仰とそれが支えるユートピアの世界への強い憧憬によって、この欠点をカバーしている。
立原が何故《童話》を書くようになったかは、自叙伝風メルヘン『大人になりたくなかった少女の物語』(サンリオ)に巧みに語られている。多感な少女だった作者は、作家になることを決意し、雑誌に投稿を続ける一方、自費で本を出版するために昼間の会社づとめのあとレストランで夜遅くまで働く。こうして自力で作った本が新人賞を受ける。ここには、高校生のころから童話を書きはじめ、『婦人朝日』の童話欄に投稿した作品がのったり、十九のとき自費出版した『人魚のくつ』(昭31)で児童文学者協会賞を受けたり、その後、吉田とし、神沢利子らと同人誌『だ・かほ』を創刊するなど旺盛な創作活動つづけた立原のいきざまが語られているが、最も興味深いのは「何故童話とよばれるものを書きたかったか」という、いわば立原作品のテーマが赤い小箱に託して簡明に述べられていることである。それは決してなくしてはならない人間の心のやさしさ(真・善・美)ということもできるし、また、

私がうけつぎたい願っている、宮沢賢治の精神――それは、ユートピアを夢みる心なのだとも、言えると思います。(中略)「よく探してほんとうの道を習え」と少年にささやきかける賢治の心。そのむこうに、ほんとうのユートピアがあるのだという精神を、できることならうけついで、きわめたいです。(注3)

という立原自身の言葉のようにユートピア世界に対する憧憬ということもできる。
郵便局長さんが子どもたちと公園の木馬の心の通いあう世界に温かく見守る「木馬がのった白い船」、湖の底に住んでいるおばけが恋人と一緒にふたりだけの世界へ旅立つ「タムタムおばけとジムジムおばけ」、妖精たちの王子に迎えられ、しゃぼん玉で妖精たちを住みよい宇宙へ旅立たす「町でさいごの妖精をみたおまわりさんのはなし」、どろぼうがあかんぼうの笑い顔で盗んできたものを捨てて一緒に林の奥に消える「あんず林のどろぼう」、年老いて王の位を追われたライオンに自分を食べさせる白い花の話「花くいライオン」、生涯花嫁衣裳をぬいつづけた貧しい娘が年老いておひなさまになって川のむこうに消える「花びらいかだ」、南の海のでかでか島とちびちび島に住む妖精たちの受難を主人公ゆりが船長と一緒に救う「でかでか人とちびちび人」、森の中の不思議な少女が描く輪の中に入りそこねた少年の話「輪」、不思議な花嫁行列を一緒に見た少年に年とって再会する「まぼろしの祭り」、幼いとき手をとりあって遊んだ少年にのぞきめがねを通して再会する「百円分だけ」、年老いた歌い手がやさしい心をもって歌いつづけたために最後に小人の飛行船にのって消える「青い飛行船」、少し頭のおかしいどろぼうの娘と一緒に花園で幸せに暮らす「もうひとつの国」、戦争にいって帰ってこない恋人を待つ娘のために死を賭して地上に舞い下りる「うぐいす」。
どの作品にもくり返し語られているのは、人間の心の美しさであり、そういう精神が溶け合わさってできるユートピアの世界対する執拗なまでの願望でもある。もちろん人間の心の真・善・美は酷しい現実や自己の中の悪との描き込みの不足は否めない。しかし、善意や人生の汚濁、人間の獣性といったものを巧みに濾過し、結晶させ、人間の精神を美しく清らかに歌う立原作品は不思議な快さをもっており、ふと心が洗われるような爽やかさを感じさせる。もちろんこれは作品を構築する文体のなめらかさ、ことばのひびき、語りの流れなどからくる部分も多い思う。それにもちろん作品も舞台が、クラシックな自然であることも関連しているだろう。だが、最も大きなウエイトを占めているのは立原のまじりっけのない祈りにも似た精神である。この祈りはやがて作者の人生の中で揺れ、試され、傷つけられ、初期の「木馬がのった白い船」「あんず林のどろぼう」などの作品がもっている快い潔癖性は後退し、徐々に人生の矛盾とはかなさ、人を恋する心の苦しさ、むなしさなどに、力点がおかれてくるように思える。
白い船に乗ってもう一つの国へ旅立つ人にかわって、こちらの国まで精神を守りながら生きていく主人公が登場してくるのである。「妖精たち」「輪」「まぼろしの祭り」などの主人公がそうであるが、私は選ばれたものたち(真・善・美の所有者)が消えてゆく先にどうしても心ひかれる。旅立つ先は立原が憧憬するユートピアにちがいないが、賢治が提出した農民たちの理想郷「ポラーノの広場」のように、立原が考えるユートピア世界を具体性をともなって描き出してほしいと思う。
(このかどをまがったら、こんどこそ、陽の光でいっぱいの野原・・・・・・)と「百円分だけ」の桃子はつぶやくが、これは生きていく限り誰もが持ちつづける憧憬である。立原が人間のこの夢を哀感秘めて捨て去るように思えるのはなぜか。これは、決して夢を捨てたのではなく、大人となって生きる《現実》の中にもユートピアがあることに気付きはじめたからではなかろうか。「大人になりたくない少女」は、大人が決してみにくくてずるくて人の心をふみにじるものだとは思っていない。少女は血みどろになって生きながら、大人の中のもやさしさや愛があり「とっくに大人になってしまっても、道ばたで咲くタンポポや吹きすぎる風の言葉をきくことのできる人がたくさんいる」ことに気付く。だが人間のこの精神は対立するもの(悪)からの攻撃にさらされているのも事実であり、ここにユートピア信仰と同時にいきていくことのはかなさ、愛の不毛への悲しさが同居する。
さて、子ども読者にとって最もふさわしい形式の一つであるメルヘンは、大ざっぱな捉え方だが日本では未明や広介に受けつがれ、戦後の無国籍童話を経て、日本的形式が加えられ、生活童話風に生かされていっていると思えるが、はたしてメルヘンとしての成功作、傑作を私たちはいくつ持っているだろうか。私は宮沢賢治の諸作品や立原の初期の短編のいくつかにその典型に近いものを見る。自ら「アドレッスン中期から少年少女期の終わり」と読者を規定した賢治と同じく、諏訪優が指摘した「立原えりかの作品が、子どもとおとなの架け橋にある世代に、熱烈に読まれている事実をわたしはよく知っている」(『日本児童文学』昭和48年臨時増刊号)のように立原も思春期の読者に意識的に読まれているのは興味深いが、その文学世界は賢治とまったく異質のものである。それは、賢治が、生命萌芽のエネルギーの象徴である土をいつくしみ眺めるのに対して、立原は一切の土くささをのぞいた無臭の結晶である精神そのものを大切にするためともいえるが、立原作品に流れる@感傷性とA抒情性からも区別することができる。
感傷性というのは、精神と精神を溶け合わせて一心になることの難しさ、そこからくる苦っぽさ、はかなさであり、換言すれば信じ合い、愛し合い、恋し合う人との接点に限りない信仰と不信を抱き、そこから邪心なく空想の世界(ユートピア)に出入りすることのできる子ども心の憧憬となる。
この点は、「永遠に大人にならない少年ピーター・パン」を造形したジェイムズ・バリと似通っているように思われる。バリはひたすら「幼年時代の幸福な時間のみ訪れる人生の喜び」を歌っている。「子どもがもっとも神に近い」と唱えたのは18世紀末のロマン派の詩人たちだが、バリは大人よりも子どもが人間的に優れていると言っているのではなく、子供(幼児性)が持っている遊びの時間(ネバーランド=ユートピア)と母のひざのぬくもり(愛の独占)に執着している。
しかし、立原作品は過去(子ども時代)を歌わない。ふりかえる視点はあったとしても、舞台は現在であり、子どもだけの世界ではない。あるのは、大人になりつつある少年や少女の哀しみを秘めたけなげな姿であり、選ばれた大人たち(絵かき、歌い手、局長、船長、おまわりさん、ワスレナグサさん、カシの木にキスされた人・・・・・・)が妖精の世界に真・善・美をかいまみて、人間を信じて、まことの道を求めて生きていく姿である。
立原作品の感傷性は、ピーター・パンが母と子の不変の愛の象徴であったのに比べ、大人になりつつある少年と少女の恋心とうつろいやすい心の架け橋を描き、生活感情を極端に消去したために出てきたものだろう。恋心の疼きは、人間信仰と時間の永遠性への強い憧れを呼ぶ。そしてこれはAの抒情性の詩的文章(コトバとリズム)と巧みに結びつき、ジュニアロマンとして思春期の少女の心を捉える特異な文学に深められていく。
抒情性まさにコトバ、文章の問題である。自ら「私が書きつづける童話の芯に道造サンがいます」(『ユリイカ』1971年6月号)というように、立原えりかのペンネームは立原道造にちなんだものである。私はここで道造の作品世界について述べるつもりはないが、立原えりかが詩人道造から受けついだものは大きいと思える。流れるような華麗な文体で象徴的に凝縮された詩的コトバは、作品世界に不思議な魅力をたたえ、快い陶酔とともに物語世界に読者を誘う。文体は物語作家というより、イメージをコトバでつづる詩人といった方がふさわしい。ただ、中・長編作品のいくつかに、コトバがややもすれば観念的になり、作品世界全体の実体、具体を閉ざし、物語の展開をギクシャクしているものがあるのは否めない。立原が賢治のようにあくまでも心象風景を写しとる詩人であり、短編作家であるゆえんであろう。
もう一つ問題は、テーマの処理の仕方の変化である。

「ぼくたち、きっとまた、あいましょうね。あおうとおもえば、いつでもあえるのですよ。ぼくは、いつまでもまっています。あなたの、ゆめのなかのこうえんで――」
(木馬がのった白い船)
「いいえ、わたしたち、あおうと思えば、いつでもあえますよ。」(でかでか人ちびちび人)
「ぼくら、いつだって、あなたのこころのなかにいるのですからね」     (同上)

初期の作品にあったユートピア信仰は、少しずつ変化してゆく。

「あんたは、見ているだけよ。わたしにさわることはできないわ。ついて来ることもできはしない」                              (妖精たち)
「わらったり歌ったり、おどったり・・・・・・それだけでは生きていかれないもの。」(同上)
「輪は、たしかにそこにあるのに、かれはその中へ、はいって行くことができませんでした。」                                   (輪)
「でも、わたし、知っているのだわ。二度と、わたしとあの少年とのお祭りはやってこない。もう、お祭りに、かえって行くこともできはしない。」     (まぼろしの祭り)

ここには「木馬――」「花びらいかだ」「町でさいごの――」「青い飛行船」などにあったびーんとはりつめた緊張感や快い幸福感は影をうすめている。だが、この変化は、『恋する魔女』『砂糖菓子のかけら』『宝石泥棒』などのハイティーン向けの本を出していく立原が、子どもっぽいユートピアを信じなくなったからだとは決して考えたくない。これは立原が「生きていくこと自体がひとりひとりの人にとって、そのひとにしかできない美しく苦い創作なのでした」(大人になりたくなかった少女の物語)と述べているように、現実の不条理をありのままに見つめながら、人間的成熟をめざそうと決意したためにちがいない。
前述したが、第一次世界大戦に参加し、ナチスの強制収容所に入れられたヴィーヘルトは、彼の童話集の巻頭を次のコトバで飾った。

「これは憎しみと火が、大地と人間の心をもやしていたとき、すべてのあわれな国民のすべてのあわれな子どもたちのために書かれ、またわたし自身の心が、真実と正義に対する信仰を失わないために書かれた。」(注4)

彼は子どもを無邪気であるがために美化することはせず、むしろその子どもがもっている独自の価値を深めて人間的成熟をめざそうとしている。彼は『愛をみつけた魔法つかい』で「子どものあいだは、わたしたち人間は指輪(魔法=ファンタジー)を使うが、子どもであることをやめると心を使うようになる」(注5)と主張し、人間の中に巣食うねたみ、自惚、よこしまな気持の存在を肯定した上で、善意の相剋をみつめている。その原動力は、対戦による心の傷であるのは言うまでもないが、戦争を幼少体験としてくぐってきた立原はむしろ今自らが生きていく戦いの渦中にあるのにちがいない。

「妖精は滅びた、滅びたといわれながら、ますます、少なくとも児童文学の中では盛んにでてくるようになったね。一方、ただ美しい、ふらふらとそこらに出没しているだけの妖精に対する不満というものをみんなはもっているかもしれない。」

これは立原が自ら師と仰ぐ山室静氏が『児童文芸』誌上の座談会で述べた言葉である。(注6)同席した立原は「どっちかといったら、人間のためになるような妖精の方がいいわ」と言っているが、立原作品では妖精には人間と切り離した独自の人格や特権が与えられていないものが多い。悪くいえば単に人間の精神の象徴化と思えないふしもないが、これは立原がよりストレートに人間について語っているためであろう。
多くのファンタジーの傑作を生み出したイギリスでは、20世紀に入ると、ネズビットはサミアドという妖精(砂の妖精)を、トラヴァースは全能の「メアリーポピンズ」を日常世界に引っぱりこみ、魔法の滅力や変質と引きかえに、子どもの中の無限の空想力に形を与えたし、ノートンはわずか20センチ足らずの無力な小人の一家に人間と共存するヴィヴィッドな世界を与えた(Boorowers 小人シリーズ)。文明の進歩とともに妖精はその魔力を奪われるわけだが、立原の描く妖精たちも無力の点では同様である。だが異国から借りてきたと思われる立原の妖精が、もしも人間を語るためのキャラクターにすぎないとしたら、ファンタジー世界(注7)への魅力は雰囲気だけで終わり、「もう一つの国」を極めたいという読者の願望はなおざりにされるだろう。この危惧は「妖精たち」という作品で女王サクラの視点により近づきつつあることでやがて解消されるかもしれないが・・・・・・。「ファンタジーは、時間と空間の深みをさぐりたいという人間の根源的欲望に根ざしている」(注8)と言ったのは『指輪物語』で著名なトールキンであるが、立原に木馬やおばけの恋人やしゃぼん玉にのった妖精や赤ん坊を抱えたどろぼう、花びらいかだにのった娘、青い飛行船にのった歌い手・・・・・・などが消えていったむこうの国をヴィヴィッドに描き出してほしいと思うし、その日の遠くないことを願わずにはいられない。
立原えりかは、日本の児童文学界で特異な存在である。メルヘンを描ける数少ない作家であるということは、彼女が現代の日本の書き手に希薄なロマン性・象徴性・詩的イメージを豊かに持っているということである。戦争児童文学というものを自伝小説(私小説)ふうに書く傾向の強い日本の状況にくらべ、ミュンヘンでお会いしたプロイスラーさんは、「私は自分の捕虜生活の苦い体験をリアルに描こうとは思わない。子どもたちのために自由や平和の大切さを形を変えて提出したい」(注9)と、暗にメルヘンやファンタジーの持っている魅力を指摘された。現在、リアリスティックな少年小説が多くの子ども読者を引きつけているのは事実だけれど、私たちは同時に、世界の不思議をうたい、生きていく夢を与えてくれる第一級のメルヘンを強く望みたいものである。そういう意味で、立原えりかは児童文学にとっても大切な一人である。

注1 『児童文学辞典』(東京堂出版)によると、メルヘンは「(独)Marchen 民間に発生した素朴な民衆とその子女のための娯楽の話をさす語で、もとはドイツ語だが、いまでは全世界でお伽話、昔話、さらには童話をさして広く用いられる」とある。
注2 Ernst Wiechert (1887〜1950)ドイツの小説家。収容所の体験を書いた「死者の森」やその他「単純な生活」などがある。童話も多く『ヴィーヘルト童話集』全三巻が、鈴木武樹他訳で白水車から出ている。
注3 「精神そのものを」『日本児童文学』1968年2月、宮沢賢治特集号、河出書房、収録。
注4 川村二郎訳『まずしい子らのクリスマス』ヴィーヘルト童話集1、白水社。
注5 渡辺健訳『愛をみつけた魔法つかい』ヴィーヘルト童話集3、白水社。
注6 「座談会――わたしの中の妖精」『児童文芸』1977年夏季臨時増刊号、日本児童文芸家協会。
注4  ファンタジーは、スミス『児童文学論』(石井桃子他訳、岩波書店)によると、「独創的な想像力から生まれるものであって、その想像力とは、私たちが五官で知りうる下界の事物から導きだす概念を超えた、よりふかい概念を形成する心の働きである」とある。ファンタジーとメルヘンの違いは、前出の『児童文学辞典』によると、「わが国では、ファンタジーを空想物語と一般に呼んでいるようであるが、現実の世界ではありえないことを書いた作品を、従来メルヘンと呼んできている。メルヘンとファンタジーのちがいは、後者が前者とことなり、まとまった思想をもち、論理的な構成をもつ空想物語である点であろう」とある。また独文学者の鈴木武樹は「ファンタジーは、ドイツの場合にかぎれば、メールヘンの世界が現実の世界とせめぎあって、そこに新しく生まれた空想物語」であると言った。「座談会、ファンタジーとは何か?」『日本児童文学』1973年1月号、盛光社。
注5  猪熊葉子訳『ファンタジーの世界』福音館書店。
注6  日本児童文学協会のツアー。1975年夏、ミュンヘンでプロイスラー氏と会見した。
テキストファイル化松本安由美