『子どもが扉をあけるとき・文学論』(松田司郎:著 五柳書院 1985)

 6 魅力ある悪漢像――スティーブンスンの作品を通して

 私たちは、いつも、日本の児童文学にはなぜ一本足のジョン・シルバーやトム・ソーヤやキムが生まれないのかというなげきをもってきた。私はその理由を、一つは児童文学を理想主義の文学とする認識、一つは私がひそかに「変革への意志」とよんでいるものがある日本児童文学の体質であると考えている。(注1)

 こう神宮輝夫が述べたのは、もう十五年も前のことである。ジョン・シルバーというのは、スティーブンスンの『宝島』に出てくる一本足の海賊で、主人公のジム・ホーキンズ少年や郷士トレローニら宝さがしの一行を殺し、その宝を横どりしようとする悪党である。
 ピカレスク(悪漢物語)というジャンルがあるが、スティーブンスンの作品にはたぐいまれな悪役が登場し、そのおぞましさと同時に強烈な個性、独特の哲学により、一度読んだら忘れられない印象を与える。
 『宝島』に勝るとも劣らない作品に『さらわれたデービッド』(注2)がある。私が、初めて目を通したのは、大場正史訳の『誘拐されて』(角川文庫)であったと思うが、何度読み返しても感動はうすれていない。
 R・L・スティーブンスン(1850-94)は不思議な人物である。生来極めて病弱のため燈台建築技師や弁護士の道を中途断念し、保養のため好ましい気候を求めて旅をつづけ、十歳も年上の二人の子持ちのアメリカ女性に出会って激しい恋をし、両親の反対や病苦や貧困をのりこえ、アメリカに追って結婚、やがて悪化する胸の病にせまられて一家でサモア島に渡り、土地の人々に惜しまれて四十四歳の生涯を閉じたという。だが、彼のこういった経歴を知るまでもなく、私たちは(若いころと晩年の)二枚の写真(注3)から、スティーブンスンの内面に常に飽くことを知らない異常なまでのロマンチックな憧憬が存在しているのを容易に理解することができると思う。それは、ビロードのジャケツにくるんだ華奢な身体や柔らかく長い髪、細面長の端正な顔からではなく、何かに憑かれたようなその燃える眼差しから受けるものである。若いころの写真よりも、死ぬ間際にサモアの土地の人と並んで撮った写真の眼の方に、一種すごさを感じるのは私だけだろうか。
 彼の燃える眼は、皮肉な絶望的な仁侠が放浪のはてに夢みるロマンチックな(そして叶うことのない)憧れを映している。だがこの憧憬は、同時代人のライダー・ハガードの時間の蘇り(霊の不滅)への一途な信仰や、二十世紀のアーサー・ランサムの健康的でアスレティック(強壮)なものではない。それはいかに広大でも、時間や空間のはてにあるものではなく、究極形而上的な心の内奥にのみ存在するものではなかろうか。
 彼が人間の心理や性格に興味をもっていることは、『ジキル博士とハイド氏』や戯曲『ディーコン・ブロディ』や短編『マーカイム』『自殺クラブ』その他で明らかであるが、『さらわれたデービッド』にも、エビニーザや船長ホージアスン、そしてアランと主人公デービッドの心理のからみなどに表われている。
 スティーブンスンの名声を今日とどめるのは、『宝島』と『ジキル博士とハイド氏』に負うところが大なのは衆目の一致するところであるが、その文学的価値という点では、『バラントレイの若殿』と並べて『さらわれたデービッド』をあげる人たちは多い。その理由は文学的完成度、つまり物語構成、人物描写、文章のうまさに加えて、心理の変化が事件を展開させていくその卓越さにあると思えるが、このことは『宝島』と比較してみるとおもしろい。
 皮肉なことに『宝島』は、宝探しという人間の本能的な欲望を下敷きにした冒険行為そのものに大きな魅力があったわけだが、察するところスティーブンスンは冒険よりも心理的なロマンスを意図して楽しんでいるふうにもみえる。それは、彫刻するようにいつくしみ念入りに造型した(注4)という一本足の海賊シルバーの二重人格性、超道徳性によるのだが、人間心理の不思議さ怪奇さという点では、『さらわれたデービッド』のエビニーザの方がはるかにおぞましい。
 この作品は、十七歳のデービッド少年が無一文の天涯孤独の身となり、父の遺言に従ってショーズ屋敷の郷士エビニーザを訪ねるところから始まるが、読者は屋敷のたたずまいの異様さと突如現われたエビニーザその人の不可思議さ、怪奇さに冒頭から心を奪われる。
 「ある種の問題がもっている病的な魅力に敏感であった」と言ったのは、『英文学史』(吉田健一訳・白水社)のルネ・ラルーであるが、物欲にしか生きがいを見出せないエビニーザの奇怪さは、短編中の最高傑作『ねじれジャネット』の呪われた牧師館に住むサウリス師や『さらわれたデービッド』の続編“Catriona”に含まれている一挿話「トッド・ラプレイクの話」の呪い人ラプレイクや『新アラビアン・ナイト』中の一編「自殺クラブ」に出てくる中風のマルサス氏に劣らない雰囲気と迫力をもっている。
 物語は、《謎》をその怪奇さの中に秘めたエビニーザ伯父が、正当な遺産相続人であるデービッド少年を殺そうとし、それに失敗すると無頼漢のホージアスン船長に二十ポンドで売りとばすことから、北方の果てしない荒海へと、息もつかせずに展開する。
 ホージアスン船長というのは、残忍、狡猾、大胆、冷静と同時に人間の脆さやすばらしい温情をもった『宝島』のジョン・シルバーに匹敵する不思議な魅力をもった人物だが、あくまでも端役であり、物語の途中で退場し、豪放磊落、陽気で人なつっこく、剣術や作戦に優れるがお喋りと自惚でしばしば窮地を招く革命児アラン・ブレックに価値ある脇役の座を奪われてしまう。
 酒とけんか、リンチ、船室ボーイの殺害、大嵐、謀反、殺人計画、血しぶき……とスリルとサスペンスの血の航海は座礁難破沈没でケリ。デービッドは九死に一生を得て小島に漂着する――とここまでが前半。
 後半は、アランを追ってスコットランド北地をさまようが、領主殺人事件に巻きこまれ、思わぬところをアランに助けられ、長い苦闘の脱出が続く。飢えと寒さ、駆り立てられる恐怖、極度の精神的肉体的疲労等々の中でのデービッドとアランの心理の葛藤、衝突が巧みに事件を展開させていく筆力はさすがである。ようやくエジンバラにたどりつき、弁護士の助けを借りてエビニーザから正当な遺産を取り返して、歴史冒険大ロマンは終止符を打つ。
 『宝島』と同じく目的は完全に成就されるわけであるが、『さらわれたデービッド』では、冒頭に登場させたエビニーザの奇怪さの謎解きが終焉の楽しみの一つでもある。結局デービッドの父の兄だと偽っていたのが双児の弟であり、ある女性を二人で争って破れ、そのかわり財産や屋敷をわがものにするという無法な条件を負わせて父を追放したということだった。こう書いてしまえば味気ないが、孤独なエビニーザが物欲と引き換えに失ったもののことが読者の胸を打つ。
 これは『宝島』にも共通したことだが、物語構成、人物描写、文体文章の卓越さは驚くばかりである。
 スピーディな事件の展開、ドラマチックな組立てにもかかわらず、一章一章が独立した名短編のようであり、作者自ら生まれ育ったスコットランド北地の風景や建物の描写は、手にとるようで冒険のロマン性を深めている。
 『宝島』にはあまりみられなかった点だが、長い脱出行でのデービッドとアランの心理描写は、物語事件の展開と密着し無駄がない。スティーブンスンの特長は、人物の内面に入りながらもその人物の心の動きを外的な行動に結びつけることであり、これは児童文学にとって不可欠な要素の一つであろう。さらに、Picturesque Expression (目に見えるような表現)という簡潔にして溌剌たる文章作法が、物語世界を生き生きと興味深く展開させていることも忘れてはならない。
 彼が“Play the sedulous ape” (先達の名文をまねる)を唱えて、文章をどこまでも彫啄推敲に腐心した厳格なスタイリストであり、その名文を文豪夏目漱石が高く評価したのは有名だが、あまりに凝りすぎた結果しばしば意識的人工性(Studied Simplicity)を感じさせ、それが作品の正当な評価を減じているのは残念である。
 『さらわれたデービッド』では、それぞれの章には独自の味わいがあり、特に第十四章の「小島」は『ロビンソン・クルーソー』の心理小劇場版のような趣きがある。デービッドの絶望的な恐怖感が、飢えと疲労の極限の中で、生き物のいない死んだような荒れた島、取り巻く無慈悲な雨風の自然……などの描写とからませて、読者の中にがっちりと食い込んでくる。

 ただ、日が照りだすと、わたしはその岩のてっぺんにねそべって、からだをかわかした。日光を身にあびる気持ちよさは、なんとも言えないものだ。そうやっていると、あきらめかけていた救いの望みがよみがえり、またあらたに興味もわいて、海上やロス地方をじっとながめた。この岩の南の方は、島の一部がつき出して、広い海原をさえぎっていたので、小舟がその方角から近づいて来た時も、わたしは、それに気づきようもなかった。/というわけで、漁師がふたり乗った平底舟が、茶色の帆をはり、島のその端をまわって、アイオナ島めざしてとぶように走っているのが目にうつったのは、わたしにしてみれば、まったくだしぬけのことだった。わたしはありったけの声で叫び、それから、岩の上にひざまずき、両手をさしのばして、救いを求めた。小舟は、わたしの声が聞こえるくらい近くまで来ていた――漁師たちの髪の毛の色まではっきり見えた。ふたりのほうにもわたしの姿が見えたことはうたがいない。
(坂井晴彦訳 福音館書店)

 この種の文章はまさにスティーブンスンのお株であり、目で見た感じ、手に触れられるような描写が臨場感を盛り上げ、とりわけ幼い読者には効果的であろう。潮がひくと歩いて向かいの島に渡れるのを気付かず、それを通りかかった漁師が笑いのタネにしたというこの章の結末は、おかしさを通り越して、恐怖感絶望感が人間心理の不思議さ、おぞましさにつながっているのを暗示しているようで、思わず背筋がゾクッとした。
 シルバーの二重人格性をのぞけば、極めて男っぽくて健康(アスレティック)な『宝島』に比べて、作品は随所にエビニーザやデービッドやアランの人間模様が織りなす心理的ロマンスがあり、それが読者に訳の分らないぞくぞくする魅力を与えているのは事実だが、同時に児童向け読みものとしての難解さや不健康さにつながっているというふうに受けとられる危険性がないわけではない。
 前述したと思うが、『宝島』には宝探しという誰しも憧憬する明確な単一の目的があったが、『さらわれたデービッド』は複数の目的によって成り立っている。遺産を取り返すという経済性、こうむった受難の返礼としての報復、氏素性を取りもどし人間の誇りを証明するという自己確認、エビニーザの奇怪なミステリーへの謎解き……これらはデービッドの受難劇が凄まじければ凄まじいほど、読者にその期待感を増加させるという相乗効果をよんで、児童文学に不可欠の娯楽性の強い読物になっている。
 さらに、この作品の隠された魅力の一つは、『ホビットの冒険』の平凡な一市民のバギンズ氏が冒険を経たのち詩人の境地に達したのと同じように、十七歳の少年が波瀾万丈の冒険をくぐり抜けることにより、人間的成熟を得るという、冒険の本質的な意味を読者に示していることである。
 以上、『さらわれたデービッド』が決して『宝島』に劣っていず、むしろ文学性が深いことを述べてきたわけであるが、いささか鼻もちならないのは、心理ロマンスにおける神(宗教)やモラルの問題である。それはこの作品が歴史的事実に基づいた十八世紀のスコットランドを舞台とし、政党や宗教、思想の対立に深くかかわっているということや、スチーブンスン自身Presbyterian(長老制主義者)として育てられた厳格な清教徒であった事実など、またわれわれ日本の読者にはモラルと宗教の密接性そのものが理解しがたいという点から無理もなかろうが、革命の放浪児アランに比してモラリストの少年デービッドが、作者の《自己規制》の術中に落とし入れられ、自ら自由への可能性を狭めていると思うのは私だけであろうか。
 これは作者自ら述べた言葉「人生にも文学にも、不道徳ではなく単に超道徳なことがいくらでもあります」(ロマンスについての無駄話)から察すれば、逆説(?)として受けとれないこともないが、作者の言葉はシルバーやホージアスンやエビニーザ兄弟の中にある二重人格性を羨望をもって擁護こそすれ、主人公デービッドの中にそれをも含めた生の可能性の広がりを許容していることにはならないのではなかろうか。

 四十四歳の短い(彼の主治医にとっては予想よりはるかに長い)生涯を閉じたスティーブンスンの墓は、サモアのウボル島のヴェーア山頂に葬られているという。生前白人の圧迫に対抗し、土地の人たちにツシタラ(story-teller)と慕われた彼の生き方は、同じく南洋諸島に生きがいを見出したサマーセット・モームとは幾分異なっている。
 スティーブンスンの「びんの小鬼」や「声の島」という南海を舞台にした好短編は、大人のための楽しい童話であり、当時の頑迷な世俗(ヴィクトリアニズム=ペシミズム)と文学界における写実主義の流れに反抗して、《語り=ロマンス》の楽しさを主張したツシタラの特徴がよく表われている。このツシタラ的要素(物語りする)こそが、児童文学の本質ではなかろうか。
 スティーブンスンは自らを “Only an allround literary man : a man who talks, not one who sings”(注5)といったが、彼の語る作品は多岐にわたっている。随筆、評論、紀行文、長・短編小説、怪奇小説、冒険・歴史小説、寓話、戯曲、回想記、叙情詩……とロマンチックな筆のおもむくままに読者を空間、距離、時間を越え、心理の内奥の世界へまで冒険旅行のお供に誘う。私たちは彼の物語を一度読んだら、その中のいくつかのシーンを目の奥に焼きつけられ、忘れることができない。
 『宝島』での、一本足で肩にオウムをとまらせた片目のシルバーがラム酒をあおって仲間たちと死人の唄をうたう場面、ジムがりんご樽の中でシルバーの悪だくみを聞く場面、悪漢シルバーが殺害した仲間の死体に何度もナイフを突き刺す場面、そして『さらわれたデービッド』では、エビニーザが荒れた屋敷の二階かららっぱ銃をかかえて現われる場面、船室ボーイがまっ青になって死んで船倉におろされる場面、漂いついた小島でびしょぬれのデービッドが貝をむさぼり食う場面……と、目を閉じればさまざまなシーンが鮮やかに蘇ってくる。
 これは既述した Picturesque Expression というスティーブンスンの文体のさえによるのであるが、今一つ重要なのは事件そのものがもっている迫真性である。この迫真性とことばの関係を作者自ら次のように述べているのは興味深い。

 「事件は、それにふさわしい場所に起るべきなのです。ひとつの物語中のすべての情況が、ちょうど音楽の調べのようにお互いに応じあう(べきな)のです。ストーリーの糸が、時間が進むにつれ編みあわされ、クモの巣の中に絵を描きます。登場人物たちは、時と共に、お互いに牽制され、あるいは自然に影響されてある態度を示し、それがストーリーに、地についた絵柄を印しづけるのです。足あとにひるむロビンソン・クルーソー、トロイア人にむかって叫ぶアキレス、巨大な弓をひくユリシーズ、耳の穴を指でふさいで走るクリスチャンは、それぞれの物語の頂点を示す情景ですが、それらの情景は、私たちの心の目に永遠に焼きつけられています……これこそ、ことばで行うもっとも高度な、もっとも困難な作業なのです。そして、ひとたび達成されれば、子どもをも賢人をも共に喜ばせ、それ自体の力で、叙事詩の価値をつくるのです……」(注6)

 このスティーブンスンの主張と、悪漢も含めて個性あるキャラクター作りの二つが、私たち児童文学に関わっている者にとって、基本的かつ重大な考え方であることを付して、ひとまず筆をおきたいと思います。


注1 「現代の児童文学におけるリアリズム」『日本児童文学』一九六八年四月号、盛光社、収録。
注2 Robert Louis Stevenson, KIDNAPPED, 1886. 坂井晴彦訳、福音館書店。
注3 G・B・スターン著、日高八郎訳『スティーブンスン』(英文学ハンドブック22、研究社)には一八八五年に撮られたジャケツを着た写真が載せられている。晩年、つまり一八九四年の死の間際に撮られた写真は次の本に載せられている。 Margery Fisher/WHO'S WHO IN CHILDERN'S BOOKS,1975, Weidenfeld & Nicolson, London
注4 The Art of Writing (『小説の書き方』)に収められた「わが処女作――『宝島』」に次の一文がある。「私はジョン・シルヴァーのことを考え、そこから私自身に楽しみの泉を約束した。つまり自分の敬服している友人(読者もたぶん私同様に知っており敬服している)を捉え、そこから一層すぐれた性質や、一層高い気質の優美さをすべてとってしまい、その力、その勇気、その敏捷さ、そのすばらしい温情だけを残して、これらを粗野な船乗りの教養によって表現しよう、というわけである。このような心理の外科手術こそ、思うに『性格創造』の常套手段なのであろう。おそらくそれは、実をいえば、唯一の手段なのだ」
注5 Stevenson's letter to J. A. Symonds, 21 Nov. 1887(サイモンズにあてたスティーブンスンの手紙にある文章)
注6 前出『小説の書き方』より、ただし「常識の世界から」(『子どもの館』一九三八年八月号、福音館書店)の渡辺茂男氏の訳文をそっくり引用させていただきました。
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